◇ このままじゃきらわれてしまうのに、






「冬花さん、」
「あ、あの、ごめんなさい。私、先生に呼ばれてるの」
「そう、邪魔しちゃって、ごめんね」

 ああ、また避けてしまった。きっと彼は不審に思っているだろう。怒っているのか悲しんでいるのか、返ってきた声は平坦で感情が無い。私は顔を上げることも出来ずに彼に背を向けて歩き出した。どんな顔をしていたのだろう、自分で招いたことなのに恐怖で視界が歪んだ。
 先生に呼び出されているなんて嘘っぱち。本当は彼と向き合うのが怖くて堪らなかっただけだ。ううん、違う、きっと自分自身の変化に向き合えないでいるから、私は彼とまともに視線を通わせることも出来ないんだろう。
 だって、怖い。心臓がばくばくとうるさいのも、彼の一言に一喜一憂してしまう心も、ちょっとした出来事で簡単に他人を妬んでしまえる自分も。どれも今までの自分とは違って、こんなに感情がかき乱されることを私は知らなかった。
 彼と所謂恋人になってからしばらく、最近私はずっと彼から逃げ続けている。彼が悪い訳じゃないのに、変わってしまった自分を受け止められなくて、彼を避ける私はとても愚かだと思う。でも彼と一緒にいると、自己嫌悪で押し潰されそうになる。自分が怖くて、仕方が無くなってしまう。
 逃げていても何も解決しない。このままじゃ、彼にきらわれてしまうだけなのに。






 小さく溜息を吐いて、私は学生鞄の中にペンケースを仕舞い、席を立った。中間テスト前で今日は部活が無い。さっさと帰ってテスト勉強でもしよう、そう思い、SHRが終わったばかりでざわつく教室から出る。廊下もまた人が多く、友達と談笑している人々も垣間見えた。その中に嫌な光景を見てしまい、私は視線を逸らした。
 彼だ。
 クラスメイトなのだろう女子と楽しそうに話をしている彼の顔を私は真っ直ぐに見ることが出来なかった。胸の内、むくむくと膨らんでいく感情が怖くて、踵を返して駆け足で階段を駆け下りる。昇降口まで降りて靴箱から靴を取り出そうとした瞬間、後ろから名前を呼ばれて、びくりと肩が震えた。

「冬花さん、一緒に帰ろうよ。話したいことがあるんだ」

 振り向かない私に彼は感情を押し殺したような声で云った。口調はいつもの柔らかいものなのに、有無を云わせない強制的な何かを感じて、私は小さく頷くしか出来ない。
 帰り道は無言だった。話があると云ったのは彼なのに、彼は中々口を開かない。沈黙が重たくて、私は僅かに俯いてスニーカーの足先を見つめた。
 こんな時でも、歩調を合わせてくれる彼のさりげない気遣いが痛かった。ずっと彼のことを避け続けていたのは私だ。恋人なのにメールの返事も素っ気無ければ、顔を合わせることも嫌がられては、傷付かないはずがない。
 そうだ、当たり前なんだ。彼に何を云われても、もう嫌いになったと告げられても、私には何も云う権利は無い。持て余した感情をコントロール出来ずに逃げた私には。全部自業自得の結末で。
 私は、どうしてこんなにも、人と関係を築くのが下手なのだろう。冬花さんは人より優しいから、人よりも少し不器用なだけだよ。そう云って、微笑んでくれた彼の顔が伏せた瞼の裏に浮かんで、涙で滲む。
 ああ、何て私は愚かなんだろう。湧き上がった自己嫌悪で、咽喉が詰まった。

「……冬花さん、」

 彼がようやく声を発したのは、私のマンションと彼のアパートへの道が分かたれる四つ角だった。躊躇うように一度言葉を切る彼に私は断罪を受ける前の被告人のような気持ちでそれでも顔を上げた。これで最後だと云われるなら、彼の顔を見ておきたいと思った。沈み行く夕陽が眩しくて、オレンジ色に染まった町並みがやけに綺麗に見える。
 彼は何度か口の中でその言葉を転がしていたようだったけれど、ようやく決心がついたのか、真っ直ぐに私を見た。私も、もう何日も見ていなかった彼の丸い瞳を見つめ返した。そして、何を云われても、泣かないようにしようと覚悟して、これから来る痛みを待ち構えた。

「他に好きな人でも出来た?」
「え、」

 一瞬、耳を疑った。「君のこと、嫌いになったから別れよう」という最悪のパターンを予想していた私には予想外の言葉に私は戸惑うばかりでまともな返事も出来ずにうろたえる。そうでなくても、何故自分を避けるのかと詰られると思っていた。思いもよらない言葉に声を失くして目を丸くする私に彼はきゅっと唇を結んで、視線を落とす。

「ずっと、避けられてる気がしたから……。冬花さんは、もう僕のこと好きじゃなくなったのかなって。だったら、付き纏うのも迷惑だろうし、」

 ぽつりぽつりと心の中に溜まった本音を吐露するかのように唇を震わせる。彼の声は私の心にずしんと重たく圧し掛かって、私は息苦しくなる。何よりも、こんなにも彼を不安にさせていた私という存在が憎らしくて堪らなくなった。
 私は、さっき何を思った? こんなに私のことを想ってくれる彼に対して、その気持ちを私は信じられなかった。何よりも、私は知っていたはずだ。何時も笑顔でまいペースな彼の裏側に繊細な感情が潜んでいること。傷付けたのは私なのに、自分が悪いんじゃないかとひたすら眉を八の字にしている彼に私は胸が痛んだ。

「そんなこと、」
「そんなこと、何?」

 否定しようとして言葉に詰まる私に不安そうに彼は私を覗き込む。窺うような眼差しは揺れていて、そんな顔をしないで欲しいと心から思った。だけど、このまま口を開いたら、私はもう止まれないような気がした。今まで心の中に降り積もってきた嫌な感情を全部吐き出してしまいそう。自己嫌悪に苛まれるちっぽけな私を彼の前に晒す勇気なんてあるはずも無い。だから私はずっと彼を避け続けてきたのだ。でももう、彼にこんな顔をさせたくない私も確かにここにいて、私は意を決して唇を開いた。好きな人をこれ以上傷付けるよりも、自分が傷ついた方が何倍も良い。そう思った。

「……無いよ。ごめんなさい、私が悪いの。吹雪くんは悪くない」
「……じゃあ、どうして?」

 小首を傾げて私の答えをじっと待つ彼に私はゆっくりと言葉を紡ぐ。整理出来ない感情を上手く言葉にすることなんて出来なくて、国語は得意だったはずなのに、どうしてもたどたどしくなる。

「……怖かったの」
「怖かった?」
「うん。吹雪くんと一緒にいると、私が私じゃなくなるみたいで怖い」

 ちょっと目が合っただけでドキドキして顔が赤くなって恥ずかしい。一緒に帰る時、家に着いてから返事が素っ気無かったかなって後で一々落ち込んだり。吹雪くんがちょっとクラスメイトの女の子とおしゃべりしてるだけでどうしようもなくドロドロした気持ちが溢れてきて、他の人には笑わないで、なんて無茶なわがままが浮かんでくる。
 全部、今までには無かったの。私、こんなに嫌な女の子じゃなかった。こんなにかき乱されるのは初めてだった。だから、怖くて。つい避けてしまったの。ごめんなさい。
 グラスから水が溢れていくように、言葉は零れた。そんな私の話に彼は時折相槌を打ちながら、静かに耳を傾けてくれる。

「……それって、君だけじゃないよ」
「え?」

 一区切りついたところで、それまで真面目な顔で話を聞いていた彼がへにゃりと表情を崩した。きょとんと彼を見つめる私に彼はゆっくりと話し始める。

「僕も、おんなじ。ちょっとしたことでドキドキして馬鹿みたいだなって思うこともたくさんあるし、冬花さんからメールの返事が返ってこないだけで凄く不安になる。普通に話してるだけだって解ってるのに、キャプテンと仲良さそうだとやきもち焼いちゃう。いつも頑張って表に出さないようにしてるけど、……僕も、おんなじだよ」

 そう云って笑う彼の表情はいつものふわふわしたものに似ているけど、それよりももっと子どもっぽくて、少し情けなく見えるくらいだ。だけど、夕陽を浴びた顔はとても眩しく輝いている。

「それが、恋なんだよ、きっと」

 すとん、と何かが落ちたようだった。今まで思っていたこととか、蟠った自己嫌悪、ずっと怯えていた恐怖、どれもがするすると糸が解けるように消えていった。
 恋愛話なんてずっと興味が無かった。クラスメイトの女の子たちが夢見るように好きな相手について語る時、そんな風に好きになれる人が私にも現れたら良いなって憧れながらも、私はずっとそんな夢みたいな恋愛とは縁遠くて。好きだなって思うことはあるけれど、それはとても穏やかな気持ちで、こんな風に心かき乱されることなんて無かったのだ。
 そんな時、彼が現れた。少しずつ距離が近くなっていって、恋心を自覚したとほぼ同時に彼と付き合うことになった。そうして、初めて知った。
 恋が夢見たようにきらきらばかりしているものじゃないってことを。
 ちょっとしたことで苦しくなって、ふとした瞬間表に出そうになる嫌な自分と戦わなくちゃいけなくて、そんな恐怖とのせめぎ合い。それでも好きだから手放せなくて、独り占めしたいなんてわがまままで生まれて。どうしようもない堂々巡りで、色んな感情が胸の内でぐるぐるする。自分の深淵を覗いてしまった気がして、そんな自分がいることに、怖くなる。
 でも、そうなのかな。それが、人を好きになるってことなのかな。

「僕もね、自分で自分が怖いなって思うこと、あるよ」

 途切れ途切れの言葉で話しながら彼もまた自分と向き合っているようだった。微かに足許に落とした視線が彼の葛藤を私に教えてくれる。その様に、私も逃げちゃいけないんだと思った。きっと私だけじゃなくて、誰しも皆、こんな風に苦しい想いを抱えながら戦っているんだろう。
 いつも笑顔だから気付かなかったけれど、彼だってその裏に幾つもの感情を隠していて。それと向き合いながら、それでも彼は私のことを真っ直ぐに想ってくれている。それなら、私も逃げてばかりいないで、向き合わなくちゃいけない。

「でもきっと、それも冬花さんが好きだから。好きだから、きっとちょっとしたことが嬉しかったり苦しかったり、するんだよ」

 ずっとスニーカーを見つめていた彼の視線が引き上げられ、真っ直ぐに私を見る。浮かべられた笑みには何処か苦いものが含まれていて、私はぽつりと本音を漏らした。

「好きって、苦しいね」
「うん。でも、苦しいだけじゃない。もっと素敵なもの、僕は冬花さんからたくさん貰ってる」

 朝、笑顔でおはようって云われると今日一日頑張ろうって気持ちになるし、メールが来たら嬉しくて顔がにやけちゃう。試合中に応援してくれてるのを見たら力が湧いてくるし、こうやって一緒に帰ってまた明日って云うとね、明日もまた楽しみだなあって思えるんだよ。そんな気持ちも、全部冬花さんが好きだから、生まれるんだよ。

「……それは、私もそうだよ」

 笑顔で語る彼に、私も小さく首を縦に振った。苦しいこともあるけど、でも嬉しいこともある。彼を好きだと想う時、胸に生まれる感情は二つに分けたらきっと嬉しいことの方が大きい。
 だって、誰に云われた時よりも、きっと「おはよう」も「ありがとう」も「また明日」も素敵な響きをしているし、その笑顔は眩しく輝いて見える。ふとした瞬間向けられる表情が、何気ない一言が心を温めてくれる。そう、ひたひたと胸に満ちる、あたたかくてやさしい気持ちに名前を付けるなら、きっとこれも「恋」なのだろう。

「僕は、それも恋なんじゃないかなって思う」
「……そうだね」

 ふわりと笑いながら零す彼に私は素直に頷けた。泥沼の淵に立ったようなじくじくとした痛みが人を好きになったことで生まれるなら、自然と笑みが零れるような柔らかい気持ちもきっと人を好きになったことで生まれる。
 人を好きになることは決してきらきら光る宝石のように綺麗なばかりでは無くて、自分の中の見たくない感情や、もしかしたら他人の嫌な部分と対面することもあるかも知れない。人を好きになるって自分とも相手とも真正面から向き合わなくちゃいけない大変なことで、でもきっと誰もがそうやって戦いながら、ささやかな喜びを分かち合って、そうして人を好きになるのだろう。

「私だけじゃ、無いんだよね」
「そうだよ。…だから、今度からは、どんなことでも僕に云ってね。訳も解らずに避けられるのは、やっぱり悲しかったし、寂しかったから」

 自分自身に確かめるように呟いた声を彼は拾って、肯定してくれた。それだけで何だか今まで悩んでいたことが嘘のように、心が軽くなる。
 顔を上げると、彼が少し眉を下げて私を見ていた。その表情に私は悪いことをしたな、と改めて感じて、頭を下げる。彼は慌てたように両手を横に振って、それから何か云いたげに何度も口を開いたり閉じたりした。

「ごめんなさい」
「違うんだ、責めてる訳じゃなくて、えっと、……ううん、あ、あのね、冬花さん」
「なに?」

 中々要領を得ない彼に小首を傾げて促すと、彼は降り積もったばかりの雪のように白い頬を赤く染めて、私の瞳を覗き込んだ。

「冬花さんは僕のこと、好き?」
「…うん、好きだよ」

 何を聞かれるのかと思っていたから驚いて思わず目を丸く見開いてしまう。そして、ワンテンポ遅れてから、私は一言を噛み締めるように答えた。
 彼を好きになってから、たくさんのことがあって、それは必ずしも素敵なことばかりじゃないけれど、でも私は彼を好きになって良かった。何よりもこうして彼のことを想う時、こうしてじわりと胸が熱くなる気持ちを「好き」と呼ばないなら、何と呼べば良いのだろう。

「良かった。僕も、冬花さんのこと、好きだよ。だからもっと冬花さんのことを知りたいって思うんだ。一人で悩んでるのを見ると、僕じゃ力になれないのかな、頼りないのかなって思っちゃうし」
「今度からは秘密は無しにする。…ちゃんと、話すね」

 真摯な眼差しで語られる彼の感情に胸が痛んだ。私だってきっと彼が一人で悩んで、私に相談してくれなかったら寂しくなるだろう。彼のことをもっと知りたいと思う気持ちだって一緒だ。その気持ちが理解出来たからこそ、自分の取っていた行動の愚かさを思い知る。

「ありがとう」

 はっきりと口にした答えは今まで傷付けてきた彼へのせめてもの償いのつもりだった。なのに、彼の顔が花が綻ぶように満面の笑みを形作るから、そんな彼の甘い声に私の頬はりんごみたいに真っ赤になってしまう。心臓がどくんどくんとやかましい。騒がしく高鳴る胸をどうにか押さえようと深呼吸をするものの、落ち着く気配はまるで無い。
 でももう、怖い、とは思わなくなった。だって、今目の前で笑う彼の頬も私に負けず劣らず、真っ赤になっているから。
 少し恥ずかしそうに照れながら、けれど心底嬉しそうに彼は笑っている。だから私も同じように笑い返した。何だか一皮剥けた気分で、どうしようもなく彼を愛しいと思う気持ちで一杯になりながら。
 ああこれが、恋なのだと思った。








<top






お題元 : ふたりへのお題ったー



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -