◇ ゆびさきの魔法






 きれいだなあ。細い指先が機能的な形のシャープペンシルをくるくると操って、まるで魔法みたいに複雑な数式を軽々と描き出していくのをぼうっと眺めて、僕は素直にそう思う。この人はどうしてこうも、僕の心を擽る何かを持っているのだろう。きれいで、かっこよくて、かわいい。こんなに三拍子揃っているなんて、ずるすぎる。僕をとりこにする為に、生まれてきたんじゃないかとたまに本気でそう信じてしまいそうになるくらい。
 真っ白だったノートには幾つもの計算式が並び、彼の声は訥々と数式の説明を紡いで、温かい秋の午後に柔らかく響かせる。一度見蕩れてしまったらもう、さっきまで一生懸命解いていたはずの数式のことなんて何処かへ吹き飛んでしまって、僕の目線はひたすらに、彼が忙しなく動かす白い指先を追いかけた。
 桜色の爪は少し幼さを感じさせて、想像よりも小さな手は何処か心許ない。僕が知る限り、同年代の少年よりもずっと大人びた考え方をして、冷静な眼差しを持つ彼の身体のパーツはその中身を考えると、実はかなりアンバランスだ。丸みを帯びた頬はまだ子どもっぽさを残していて、普段はゴーグルの向こうに隠された鋭い赤い瞳とは少し不釣合いな気さえする。しなやかなバネを持った身体はまだまだ成長途中の少年らしさがあって、肩だって胸だってまだまだ薄くて、頼りなげだ。身長もそんなに高い方では無いから、上背もそんなに無い。でもそんな、身体と心のアンバランスさが、僕には堪らなく、魅力的に見えるのだ。
 するすると難しい問題を解いていくその明晰な頭脳も、僕の何処かぶっきらぼうな字とは違う、丁寧で整った文字を紡ぎ出す指先も、真面目な顔でノートに向き合うその表情も、僕の鼓膜を優しく叩く低い声も、全て僕を魅了してやまない。
 どうしてこんなに好きなのかな。たまに自分でも解らなくなる。でもきっと、こんな風に理由なんて無くて、どうしようもなく、目で追ってしまう魔法みたいな何かを人は恋と呼ぶのだろう。

「吹雪、聞いてるか?」
「あ、ご、ごめん」
「・・・・・・そろそろ休憩にするか」

 あんまりにも僕がぼうっとしていたのに、さすがの彼も気付いたみたいで。彼は小さく溜息を落として、淀みなく動かしていた手を止めた。シャープペンシルをノートの上に置いて、彼はコーヒーでも入れてこよう、と席を立った。
 その横顔が苦笑いで満ちていたから、僕はごめんなさいと頭を下げて反省をする。せっかく休日に家に来て貰ってまで、勉強を見て貰ってたのに、ついつい余所見をしてしまった。それもこれも君がかっこよすぎるからいけないんだよ、なんてただの云い訳だけれど。でも、実際にそうなんだから仕方がない。

「数学だけは苦手だな、お前は」
「数学が苦手なんじゃないよ、証明が嫌いなの」
「入試で困るぞ」
「スポーツ推薦にするからいい」
「まったく・・・・・・」

 僕の家の台所で当たり前のように慣れた手つきでやかんを火にかけながら、彼は苦笑交じりにそう云う。僕はすぐに反論した。数学が出来ない訳じゃない、連立方程式だって関数だって解ける。まあ元々数学は得意じゃないから、理解するまで時間はかかったけれど。ただ今目の前で僕を威嚇する証明が嫌いなだけだ。ムキになって唇を尖らせる僕に彼はますます苦笑を深め、ついにはくすくすと笑い声を上げた。今僕のいる場所からは背中しか見えないのに、彼が頬を綻ばせているだろうことがよく解った。
 彼は食器棚を開けて、マグカップをふたつ取り出すと、安いインスタントコーヒーをスプーンで掬って、その中へ落とした。その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、僕はまた、性懲りも無く、かっこいいなあ、なんてそんなことを思う。ボロいアパートの台所には不似合いな私服姿の彼の背中はすっと背筋が伸びていて、とてもかっこいい。後ろで高く纏められたドレッドヘアの影が背中に落ちるのも、動く度にジャケットの裾が揺れるのも、全部がスパイスになって、彼をよりかっこよく見せている気がする。何でだろ、別に特別な何かなんて無いはずなのにな。

「ほら、ミルクと砂糖、たっぷり入れておいたぞ」
「ありがとう」

 やかんのお湯をマグカップに注いだ後、彼はマグカップを両手に持って、僕のところへやってきた。手渡された水色のくまさん柄のマグカップからは、とても甘い匂いがする。反対に、彼の手にある白と黒のペンギン柄のマグカップからは安っぽいコーヒーの独特な匂いがした。あったかいそれをふうふうと息を吹きかけながら、口に含む。
 彼が作ってくれたカフェオレは僕の舌に優しく馴染んで、咽喉を潤していった。甘くて優しい味だ。あの100g、300円もしない安売りのインスタントコーヒーから、どうしてこんなに素敵な味を作り出せるのか、僕はいつも不思議で堪らない。同じようにスプーンでコーヒーの量を計って、お砂糖やミルクを入れているのに、彼が作るカフェオレは、やっぱり特別なのだ。

「ねえ、何で鬼道くんが作るとこんなにおいしくなるのかな」
「別に特別なことはしていないが」
「うーん。僕もおんなじように作ってるはずなんだけどなー」

 両手でマグカップを抱えながら、疑問符を浮かべると、彼もまた不思議そうにことりと小首を傾げてみせる。その仕草がかわいくて、僕はマグカップを持ち上げて、顔を隠す。うう、反則だ。口をつけたカフェオレはさっきよりももっと甘くなっているような気がする。お砂糖入れた訳じゃないのに、何でこんなに甘ったるいんだろう。でもそれが美味しいんだから、僕はもう、ほんとにどうしようもない。末期症状だ。
 彼はマグカップの中身を飲み干すと、改めてシャープペンシルを手に取った。いつの間にか捲れて、あさってのページを開いている教科書を元に戻して、彼は真剣な顔をする。僕も、諦めて空のマグカップから手を離した。しかしやっぱり数式を目の前にしてしまうと、頭が痛くなってしまう訳で。

「さて、吹雪。再開するぞ」
「証明って何でこの世に存在するのかな。無くなっちゃえばいいのに」

 頭を抱えて愚痴る僕に彼は苦笑いをして、僕の頭をぽんぽんと撫でる。彼のあんまり大きくは無い手のひらが僕の髪を優しく絡め取っていくのが気持ち良くて、僕は自然と笑顔になる。やっぱり君の指先は魔法なんだなあ。猫が咽喉を鳴らすように吐息を漏らせば、彼は微笑んで、とびっきりの提案をしてくれた。

「そう云うな。これが解けたら、ご褒美に何か作ってやるから」
「ほんと?」
「ああ、何でも食べたい物を云えばいい」
「僕、がんばるね!」

 その一言に俄然やる気になってしまう僕は大概子どもで、しかも現金な性格だ。帝王学の一環だという彼の料理の腕は何処かのレストランのシェフかと思うくらい素晴らしい。家事のひとつとして必然的に身についた僕の味気ない料理とは違って、華やかで美しく、それでいてとても美味しいのだ。ありきたりなスーパーの食材なのに、彼の手にかかると魔法にかかったみたいに、レストランに並ぶそれに勝るとも劣らないものが出来上がる。僕の為だけに、この小さな台所で作り出されるそれが僕は何よりも大好きなのだ。






 ご褒美に釣られた僕は、それから凄く頑張った。大嫌いで意味が解らなくて面倒臭い証明問題と向き合って、教科書を解りやすく読み解いてくれる彼の声に耳を傾けた。そうしたら、凄く時間はかかったけれど、何とか問題集を全て解くことが出来た。僕ってえらい。自画自賛だけど、今回に限っては間違ってないはずだ。

「や、ったあ!」
「よく頑張ったな、吹雪。これでとりあえず来週の期末は何とかなりそうだな」
「うん! 鬼道くんのおかげだよ!」
「いや、お前が粘り強く頑張ったからだ。ご褒美は何がいい?」

 教科書とノート、問題集を閉じて重ね、とんとんと端を揃えながら、彼は僕の一番好きな顔で微笑んだ。それだけでもう、今まで頭をフル回転させて図形や数式を格闘しただけの何かを貰えたような気がして、僕の胸はずんと重たくなる。あったかいものでいっぱいになる。
 筆記用具をペンケースに片付けながら、小首を傾げて問う彼に僕はこれ以上の何かを貰っても、僕の心に収まるかなあと少し不安になった。いつもいつも、いっぱい色んなものをくれるから、ちゃんと整理して、ぎゅうぎゅう詰めにしないと入り切らないのだ。でも僕は彼に比べたらとっても子どもで、現金で、欲張りだから、くれると云うのなら、たくさんたくさん欲しくなる。僕はわがままだ。

「あのね、ちょっと目、瞑ってて」

 お願いしたら、彼は素直に目を閉じてくれた。暗い色のゴーグル越しでも、伏せられた長い睫毛が見えるようで、僕は今からすることにどきどきする。でも今日、僕はすっごく頑張って、君がすぐ隣にいるのに我慢したんだから、少しくらいくれたって罰は当たらないと思う。そう自分自身に云い聞かせながら、彼の丸くて柔らかい、子どもみたいな肌に唇を寄せた。

「・・・・・・鬼道くん、」
「何だ?」
「キス、しにくいよ」

 ぼそりと零した本音に彼はくすくすと笑い声を上げた。よっぽど彼のツボにハマったようで、軽快な声はオレンジ色の夕日に満たされた部屋によく響く。その反応に僕まで何だか可笑しくなって、顔を見合わせて笑う。
 だってほんとに、邪魔だったんだ。ほっぺたに唇が触れるのと同時、おでこにがつんってゴーグルが当たって痛かったんだよ。今まで散々キスしてたのに、予想しなかった僕も悪いけど。

「じゃあこれでどうだ?」

 彼はゴーグルを上げて、額に載せた。そしてあからさまに瞼を伏せてしまう。そこまでされたら僕だってやらない訳にはいかなくて。何より、あんな触れるだけのキスじゃ、僕だって満足できないから。
 座っている彼に腰を上げて膝立ちになった僕は上から頬を包み込んで、ゆっくりとうやうやしく丸い頬にキスをする。柔らかくて、気持ちいい。彼のまだ子どもじみた部分。閉じられた切れ長の釣り目とはまるで不似合いな、アンバランスな、僕の大好きな彼のパーツ。
 そうして僕は、彼の瞼や眦やこめかみや、そんな大好きな彼の部分に一つずつ唇を落としていく。白い肌がほんのりと赤く染まっていくのが楽しくて、僕は色んなところにキスをした。
 すると、

「それだけでいいのか?」

 焦れたように彼が僕の手首を掴む。鋭い赤い瞳が僕を捕らえる。光を反射して輝くそれはルビーみたいだ。深みのある赤い色は瞳に映すもの全て吸い込んでしまいそう。それは僕もまた例外では無くて。ルビーレッドに目を奪われた僕は身動きひとつ出来ずに彼の顔が近付いてくるのをぼうっと見ていることしか出来ない。
 物音ひとつ立てずに重なる唇。少しかさついていたそれが見る見る内にしっとりと湿っていく。ただ唇と唇と触れ合わせているだけなのに、どうしてこんなにもドキドキするんだろう。視界いっぱいに広がる彼の顔を直視出来なくて目を閉じる。ぐっと手首を握る指先に込められた力が痛いくらいで、それさえも求めてくれている証のようで、僕の胸をいっぱいにさせる。もう片方の手が頭に回り、より深く唇を重ねていく。
 髪を梳く指先が心地好くて、僕は魔法にかかったみたいにぼうっとしてしまう。御伽噺のお姫様のように魔法にかけられた僕は、彼から与えられる宝物で溺れてしまいそうだ。胸がいとしいきもちで溢れて決壊してしまう。そうやって僕は、彼のとりこになってしまうのだろう。

「鬼道くんは、ずるいよ」
「何でだ」
「こんなに僕に君を好きにさせて、いったいどうしようっていうの」

 濡れた唇を尖らせると、彼は意味が解らないとでも云いたげな顔をする。でもだってずるいよ。君はそんなに真顔なのに、僕はずっと君にドキドキさせられっぱなしだ。それって不公平じゃないかな。僕だけ、こんなに君を好きなんて。
 駄々っ子のように甘えた口調で云う僕に彼は少し驚いた顔をして、それから顔を真っ赤にした。赤い瞳の色に勝るとも劣らないくらい、綺麗な朱色。彼は僕の肩に腕を回して、表情を隠すようにしながら、耳たぶに息がかかるくらいの距離で、小さくささやいた。

「・・・・・・俺も、同じだ」

 そうして僕らは、日当たりの良い部屋で、傾いたオレンジ色の夕日を浴びながら、もう一度、お互いの魔法にかかっていくのだった。








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 匿名さま、リクエストありがとうございました!
 鬼道さんが激しく別人っぽい上に、雰囲気文ですみません。
 これからも更新頑張るので、どうぞよろしくお願いします。




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