03. 秋の朝の一幕








 暦の上では秋になったと云っても、9月の上旬はまだ体感温度的には夏だ。特に今年は猛暑の名残がまだくすぶっているようで、上空で燦々と輝く太陽の日差しはきつい。
 ばしゃばしゃと運動場の隅にある水道で顔を洗い、私は肩にかけたタオルで水滴を拭った。水は案の定温かったけれど、朝練でかいた汗が少しでも流せた気がして、気持ちが良い。
 蝉の声はもうほとんど聞こえなくなったのに、いつになったら秋らしくなるのだろう。そんなことを思いながら、出しっ放しだった水道の蛇口を閉めて、振り返る。
 と、そこにはついさっきまで頭に浮かんだ単語、そのままの人物が立っていた。

「おはよう、詩織ちゃん」
「おはよ、秋」

 サッカー部のマネージャーである秋とは去年一年同じクラスで結構仲が良かった。きっかけは席が丁度隣で近かった、そんな些細なことだったはずだ。
 何処か家庭的な優しい雰囲気を持つ彼女の隣はとても居心地が良くて、私はよく彼女と一緒にいた。二年になってクラスが変わってしまってからどうしても接触が少なくなってしまったけれど、今でもたまに遊んだりするし、彼女の誘いでサッカー部の試合を見に行ったこともある。
 ジャージ姿の彼女は私に向かって微笑んで、手に持ったものを手洗い場に下ろした。どうやら汚れた雑巾を洗いに来たらしい。

「久しぶりだね」
「夏休み、お互い部活で忙しくてあんまり会えなかったからね」
「うん。その前もエイリア事件があったしね。何か、詩織ちゃんと話すの凄い久しぶりな気がする」

 雑巾を水で濡らしながら秋が声をかけてくるのに、私は額に張り付く前髪を拭きながら答えた。私はもう顔を洗うという目的は果たしたのだから立ち去っても良かったのだけど、何となく秋と話をしていたかった。
 思えば、秋とこんな風にゆっくりと話すのは何ヶ月ぶりだろう。秋は例の宇宙人襲撃事件の為に全国を旅していて学校にいなかったし、その後の夏休みもフットボールフロンティアで優勝し、例の事件で試合模様を全国中継された影響か、次から次へと練習試合の申し込みが殺到したサッカー部に秋はかかりっきりだったから。私自身、陸上部の練習があったのもある。

「秋、忙しそうだったもんね」
「一番大変だったのは円堂くんたち、選手の皆だけどね。でも、何かこんな風にしてると落ち着くな。日常に戻ってきたって感じがするよ」

 じゃぶじゃぶと雑巾の汚れを落としながら、微笑む秋の髪をほんの少し涼しくなった風が揺らす。
 確かにずっと忙しない日々を送ってきた秋にとって、こんな風に学校でのんびりと部の雑用をこなしながらおしゃべりするのも、懐かしい日常のひとつなんだろう。何せ、全国へ旅をしていたのだから。

「でも凄いよね、サッカー部。あんなちっちゃい部がこんなになるなんて、きっと誰も思ってなかったよ」
「私も、こんなになるとは思わなかったよ」

 ふと運動場へと向けた視線の先でサッカー部の皆がボールを追いかけ、駆け回っている。その練習風景を眺めながら、思わずそう零す。この学校の生徒なら当たり前の感想だと思う。
 汚い古ぼけた部室に1チームの基準にすら満たない部員。そんな彼らがフットボールフロンティアで優勝して、尚且つ、この国を救ってしまうなんて。きっと誰も予想出来なかったに違いない。
 私の言葉に秋はふふ、と小さく笑って、それから感嘆に満ちた声で返してきた。

「でも、皆頑張ったのが、こうやって評価されるのは嬉しいな」

 横目にその表情を盗み見ると、声音は心底嬉しそうなのに何処か、遠い目をしていて、私は胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚える。
 彼女の目線の先にはグラウンドでボールと戯れるサッカー部員たちがいて、秋はそれを切なそうに見つめていた。その中には、秋の想い人の姿もある。
 私は秋のそんな顔を見ているのが辛くなって、わざと茶化すような声でその話題を口に上らせた。秋には、そんな顔をして欲しくない。私の我儘だった。

「そういえば、円堂君とはどうなったの?」
「ど、どうって?」

 その人の名前を挙げた途端、秋はあからさまに反応した。頬が一気に染まって、耳まで赤くなる。動揺したように視線をうろうろと彷徨わせる秋に私は自然と口元に笑みを浮かべた。
 可愛いなあ。恋に積極的なななみを見ていても思うけれど、恋をすると女の子って何でこんなに可愛くなるんだろう。魔法にでもかかったかのように、きらきらしている。

「進展、あったのかなあと思って。四六時中一緒にいたんでしょ?」
「べ、別に何にも無いよ?」

 サッカー部のキャプテンである円堂君と秋は一年生の頃からの付き合いだ。秋はもう随分と長く、彼に片想いをしていた。サッカーに関しては突っ走る傾向のある円堂君と、それを傍で支えてあげられるだけの包容力のある秋とは私は結構お似合いだと思う。だから私は秋と円堂君との仲を応援しているけれど、でも秋自身、彼との仲を進展させる気があるかは、怪しい。
 秋は今の現状で満足しているようだった。確かにマネージャーとして円堂君の傍にいられる今の立場は秋にとって壊したくない日常なのかも知れない。その気持ちは、解らなくも無かった。

「何にも無いって顔、してないなあ」
「そ、それは・・・・・・、ちょ、ちょっとはあったけど・・・・・・。でも、別に 詩織ちゃんが思うようなことは何も無いよ?」
「それは聞いてみなくちゃ解らないじゃん」

 でもやっぱり私としては秋には幸せになって貰いたい訳で。久しぶりに会ったんだし、とついつい彼女をからかうように真っ赤になった顔を覗き込む。その顔は満更でも無さそうだった。
 何も無かった訳では無いらしい。それが恋愛的な意味を含まないにしろ、きっと秋にとっては大事なことだったんだろう。何せ、相手は秋からずっと熱烈な視線を受けながらまったく気付かないあの鈍感な円堂君だ。きっと持ち前の鈍さを発揮して、秋の恋心を弄んだに違いない。
 うろたえる秋から更なる情報を引き出そうと突付いていると、グラウンドから邪魔が入った。少し弾んだ柔らかい甘い声。

「アキさん。もう練習終わりだって」
「吹雪くん。解った、もう戻るね」

 視線をそちらへ向ければ、グラウンドから走ってきたのだろう、軽く上がった息を整えている吹雪君が立っている。にこりといつもの笑みを浮かべた彼は秋に連絡事項を伝えた。
 秋は流しっ放しだった水道の蛇口を捻りながら答える。その何気ないやりとりを眺めていたら、ふいに吹雪君が私の方を見た。
 私の存在に今気付いたらしい彼は軽く目を眇めて、それからふにゃりとその特徴的な眉を下げた。

「あ、楢崎さん、おはよう」
「お、おはよう」
「楢崎さんも朝練だったんだね。何部なの?」
「陸上・・・、短距離やってる」

 何でもない朝の挨拶のはずなのに、何で私は動揺しているんだろう。心の準備という奴が無かったからか、それとも。
 吹雪君は肩にかけたタオルで首筋の汗を拭いながら、私の姿をじっと見つめて、小首を傾げる。それに私は淡々と返事をした。というより、動揺が声に滲まないように必死に平坦にした。
 私の返事に彼は納得がいったというように頷いて、またあの笑みを作る。あの魔法使いみたいに、私の心臓をうるさくする、あの微笑みを。

「そっか。頑張ってね。じゃあアキさん、僕、先に部室戻ってるね」

 思わず固まった私を放置して、彼は秋に一言声をかけてから、サッカー部の部室の方角へと駆けていった。その後ろ姿を私は呆けたように見送るしかない。
 そんな私を秋がさっきの私が浮かべていたような、にやにやした顔で覗き込んできた。

「詩織ちゃん、顔、赤いよ?」
「えっ、べ、別に私は・・・・・・!」
「何が別に、なの?」

 いつもは優しい秋が小悪魔に見える。意地悪だ、そんな聞き方をするなんて。まあさっき私も散々からかったから、これはある意味自業自得なのだろう。でも、認めたくない。

「何でもない! 何でもないよ」
「怪しいなあ。それにしても、何時の間に吹雪くんと知り合ったの?」
「た、たまたま隣の席だっただけだって」
「そういえば、詩織ちゃんのクラスだったね」

 必死に否定する私に秋は楽しそうにくすくすと笑う。何気ない疑問にもどもってしまう私に秋は容赦が無い。完全にからかっている。
 うう。反論出来ない私は、何なんだろう。本当に、ただ隣の席なだけなのに。そりゃ、優しくしてもらったり、した、けど・・・・・・。

「吹雪君、競争率高そうだから頑張ってね。キャラバンの頃も凄いもてもてだったし」
「だから違うってば!」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる」

 濡れた雑巾を絞りながら、要らない忠告を口にする秋に私は内心、そんなことは百も承知だと呟く。秋も昨日の騒ぎを知らない訳じゃないだろうに。
 ななみが教えてくれたけれど、昼休みには既にファンクラブが出来ていたらしい。女子の勢いって怖い。

「でも突然だよね、こっちに来るなら連絡くれれば良かったのに」
「え?」
「吹雪くん。円堂くんには前日に連絡入れてたみたいだけど、でも、転校してくるとまでは知らせて無かったみたい。昨日、大騒ぎだったんだよ」

 三枚目の雑巾を絞り終えてから、秋はそれまでと打って変わって軽く唇を尖らせた。主語の無い言葉に首を傾げると、私の方を見て困ったように微笑んで、事情を説明してくれる。
 確かに知り合いが何の連絡も無く、いきなり自分たちの学校へ転校してくるとなれば、騒ぎのひとつも起きるだろう。昨日の風丸くんみたいに驚くはずだ。

「仲間、だって思ってたのに。何かちょっと寂しかったな。何かあったのかな、急に転校なんて」

 そう呟く横顔が、昨日の風丸くんに重なって見えた。同じようなこと、風丸くんも云ってたな。なんて思っていると、秋は仕事を終えたらしく、雑巾を持って、私を振り向いた。

「じゃあ私は行くね。詩織ちゃんもそろそろ着替えないと、HR始まっちゃうよ」
「うん。またね、秋」

 校舎の時計をちらりと見ながら云う秋に習って、時計を確認すれば、針は8時5分を差している。秋の云う通り、早く着替えて教室に行かないと、HRに遅れてしまう。
 サッカー部の部室の方へ歩いていく秋を見送って、私も慌てて着替えようと更衣室の方向へ駆け出した。








<prev/top/next>






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -