05. 指切り








 学校へ行く前に河川敷までジョギングがてら走って、そこで走り込みをするのが私の日課だ。朝練が無い日は、特に早くに起きて練習をする。大会が近いのもあるが、何よりも私は、朝の澄んだ空気を切るように走るのが好きなのだ。そこには、普段の練習とは違う特別な感覚があるような気がする。単純に、気持ちが良いからというのもあるけれど。
 だから私は今朝もジャージ姿に制服を詰めたスポーツバッグを抱え、河川敷まで走った。すると、普段は散歩をするおじいさんやジョギングをしているおじさんたち以外見かけないそこに、見たことのある小柄な影を見つけ、私は思わず河川敷へと降りる階段の途中で足を止めた。

「・・・・・・吹雪、君?」

 地元の少年サッカーチームの為に設置してあるコートで、サッカーボールを懸命に追いかける小さな背中は間違い無く、クラスメイトの吹雪君だった。彼もまた私と同じようにジャージ姿で、どうやら自主練習をしているようだ。ボールを掬い上げるようにしてトラップして、再び蹴り出すと、彼は流れるようなスピードでゴール前まで走り、ゴールネットに突き刺さるようなシュートを打ってみせる。まるで辺りの空気が凍りつくような迫力あるシュートに私は一瞬で目を奪われた。
 彼が転校してきた日、風丸君が云っていたことが脳裏を過ぎった。サッカーに特別詳しい訳では無いけれど、秋に誘われて試合を応援に行ったことくらいはある。その時に見た豪炎寺くんのファイアトルネードと同じくらいの気迫をさっきのシュートからは感じた。確かに上手い。敵うのは豪炎寺くんぐらい、という風丸くんの言葉は確かに、間違いでは無いのだろう。
 そして何よりも私は、彼のボールと共に走る、あの軽やかなスピードに見蕩れた。昨日の体育の時間に感じたどきどきと同じ、高揚感だった。本来の目的も忘れて、彼のプレイに見入る私の視線は彼の姿ばかりを追いかけてしまう。彼はゴールネットに絡め取られたボールを拾うと、ふいに私の方を振り向いた。どきり、心臓が嫌な音を立て、背筋が汗ばむ。

「あれ、楢崎さん?」
「ふ、吹雪君・・・・・・あの、その、これは・・・」

 吹雪君はボールを両手に持ったまま、私を見上げるとことりと小首を傾げた。見つかってしまった。ただちょっと彼をじっと見てしまっていただけで、別にやましいことをしていた訳じゃないのに、心臓が早鐘のように騒ぎ立て、上手く呼吸が出来なくなる。必死に言い訳を考えるものの、私の唇は震えるばかりでまともな言葉を紡いではくれなかった。
 しどろもどろになる私に吹雪君は私の格好をまじまじと眺めると、もう一度、ゆっくりと首を傾げる。

「楢崎さんもここで練習?」
「う、うん。吹雪君も?」
「うん。ここは、・・・・・・ちょっと、特別な場所だからね」

 吹雪君がくれた救済の言葉に私はただこくこくと首を縦に振り、鸚鵡返しのように同じセリフを口にした。吹雪君は私の問いかけに柔らかく微笑むと、河川敷を見渡して、少し遠い目をした。その眼差しが物語るものが私にはまったく検討もつかなくて、私は小さく、そう、と頷くことしか出来ない。当たり前だ。私と彼は、会ってまだ数日しか経っていないのに。ただ、その目がいつもより少しだけ、寂しそうというか悲しそうというか、何処か切ない感じがして、私はどうしようもなく、その理由を知りたくなってしまう。自分でも、自分の思考回路がよく解らないけれど、こういう衝動は何時だって、理由なんて解らないものなのだろう。
 でも彼は、そんな私の心中など知る由も無く、再び私を見上げると、明るく笑って、降りておいでよ、と手招きをした。

「楢崎さん、陸上やってるんだっけ。走るの好きなんだ?」
「あんまり、速くは無いけどね。私、運動神経良くないし、タイムも一向に伸びないし。最近一年の子にまで追い越されそうで、」
「速さとか関係ないよ」

 ベンチに置かれたスポーツバッグの中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出しながら、吹雪君はいつものにこにこした笑顔で聞いてくる。私はそれをなるべく直視しないようにして答える。
 目を合わせて会話出来るだけの自信は、まだ無い。更に云えば、彼の前で走ることについて話す自信もまた、無かった。彼と比べると、私は余りにもお粗末だ。
 でも彼はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、ペットボトルの蓋を開けて口をつけた後、私の顔を覗き込むようにして、真剣な表情で私の口先だけの言い訳を否定した。いつもふわふわと笑う彼しか見たことが無かったから私はびっくりして固まる。

「どんなことも好きだって気持ちが一番大事だよ。・・・・・・好きなことを楽しんでやるから、強くなれるんだよ」

 垂れ気味の目を僅かに吊り上げて、唇を引き結んで真面目な顔をしていた彼は、すうと息を吸うと、糸が解けるようににっこりととびきりの微笑みを浮かべた。長い睫毛が瞬いて、特徴的な眉尻がおっとりと下げられる。それはいつもの吹雪君の笑顔だった。私は知らず知らずの内に肩に篭っていた力を抜いて、彼の言葉に耳を傾ける。私に、ううんもしかしたらきっと彼自身にかも知れない――― 云い聞かせるようにして、彼は唇を動かした。

「あっ、ごめん。偉そうに語っちゃって」
「あっ、ペットボトル・・・」
「うわっ、わっ、あっ、・・・や、やっちゃった・・・・・・」
「ふふ、吹雪君って意外と抜けてるね」
「う・・・・・・あ、ありがと・・・」

 云い切って、彼はふいに我に帰ったように慌てて、両手を振った。その仕草に合わせて、蓋をしていないペットボトルから中身が飛び出して、彼のジャージにかかる。私が止める間も無く、更に慌てふためいた彼はわたわたと落ち着き無く身体を動かして、また被害を拡大させていく。私は思わず笑い声を漏らしながら、スポーツバッグからタオルを取り出して、濡れたジャージの表面を拭って上げた。
 幸い、水分を吸収しにくい素材で出来たジャージはそんなに濡れることは無かったが、未だ呆然と私の作業を見守る彼の表情を見ていると、咽喉から込み上げてくる笑い声を抑えることが出来なくなる。彼は恥ずかしそうに頬をうっすらとバラ色に染め、頭を掻いた。
 吹雪君でもこんなドジを踏むんだなあ。完璧に見える吹雪君のおっちょこちょいな一面を知れて、何だか優越感を覚える。そして何より、

「でも、ありがと。私、夏休みからずっとタイムが伸びなくて。悩んでたんだけど、やっぱり私は走るのが好き。陸上が大好き。だから、こんなことで挫けちゃダメだよね」

 ペットボトルの蓋をしっかりと閉めている彼の横顔を真っ直ぐに見て、私は口を開いた。どうしても他人と比べてしまいがちな私。自分に自信が持てずに、たったひとつ陸上が好きだという気持ちさえ、はっきりと口に出来なかった私。焦っている自覚はあった、それが自然と言い訳として口をついて出てしまった。
 だけど私は、陸上が好きだ。走ることが好きだ。だからあんなにも、彼の風みたいな軽やかなスピードに憧れたし、自分もそうありたいと思った。走ることが好き。これだけは唯一、私が胸を張って云えることだったはずだ。

「そうだよ。好きなら、簡単に諦めちゃ駄目だよ。努力が実を結ばないなんてことは無いんだから」

 吹雪君は私を見て、しっかりと頷いてくれた。それが嬉しくて、胸が熱くなる。そうだ、努力が実を結ばないなんてことは無い。どんなことだって日々の積み重ねが大事なんだ。
 手に持ったタオルを畳んでバッグに突っ込み、私は吹雪君にお礼を云う。出会ってから初めて、私は彼の顔をちゃんと見て笑うことが出来た気がした。

「ありがとう。何かやる気出たよ。練習頑張るね!」
「あれ? ここで練習しないの?」
「いや、お邪魔かなって。私、もっと向こうで練習するよ」

 歩き出す私に吹雪君の不思議そうな声音が降り注ぐ。顔だけ振り向いて答えると、彼は困ったように眦を下げた。

「僕の方が後から来たのに、楢崎さんが遠慮すること無いよ。何なら僕が向こう行こうか?」
「吹雪君はここにいて!」

 思わず強い口調で云い放ってしまい、しまった、と手のひらで口を覆う。吹雪君はそんな私の仕草に可笑しそうに笑い声を上げて、私の顔を覗き込みながら、驚きの提案をした。

「ふふ。・・・じゃあさ、一緒に走り込みしようよ。僕もシュート練習ばっかりで飽きてきたところなんだ。こういう基礎も大事だからね」

 それに二人だとタイム計り合いっことか出来るし。思わぬ話の展開に私は目を丸くして、彼の顔を凝視してしまった。まさかそんなことを云い出されるとは、誰だって思わないだろう。彼の表情を窺うように首を傾げる私に彼はにっこりと笑って、私にその白くて細い手を差し出す。

「良いの?」
「うん。一緒にやろう」

 一瞬躊躇った後に私が取った小さな手は、ついさっきまで激しい練習をしていたとは思えないくらい、ひんやりとしていた。






「っはあ・・・・・・疲れたあ・・・、やっぱ、これだけ走るとキツイかも」
「でも、楽しかったよ」

 二人で河川敷を走り回ること、一時間半。最後の最後に全力疾走した私は、さすがに息が切れていた。両手を膝について何度も深呼吸をしながら、ベンチに置いてあるタオルでこめかみの汗を拭う。私なんかよりずっと体力があるだろう吹雪君も、普段は真っ白な雪を思わせる頬を紅潮させて、額に汗を滲ませている。彼は真っ赤な顔を上げると、疲れの見えない、ふわふわとした笑顔で私を見た。長い前髪の一房が汗で額に張り付いているのが何だかドキドキして、目を逸らす。
 火照る身体を冷まそうとスポーツバッグからペットボトルを取り出して、蓋を捻る。冷たいスポーツドリンクは渇いた咽喉を潤して、熱を持った身体を冷やしていった。ぐっと一気に三分の一ほどを飲み干すと、同じようにペットボトルに口をつけていた吹雪君がふいに私に話しかけてきた。

「ねえ、楢崎さん。楢崎さんって毎朝ここで練習してるんでしょ?」
「う、うん」

 確かめるように問う吹雪君におずおずと頷く。すると、吹雪君は少し思案するように目を伏せて、それから唇を開くと、予想外の発言を口にした。

「じゃあさ、僕、明日もここ来るから。今日と同じ時間に。明日も、一緒に練習しよ?」
「えっ」
「駄目かな?」

 唐突な提案に私は目を白黒させて驚いた。でも、私の表情を窺うように上目遣いで見つめてくる大きな丸い瞳に私が逆らえるはずも無くて。少し情けなく見えるくらい、眦を下げて私を見る吹雪君の問いかけに私は首を大きく縦に振る。

「う、ううん。良いよ、全然!」
「良かった。じゃあ、指切りね」

 にこにこと微笑みながら、差し出された小指に戸惑う。この年になって、わざわざ約束を交わすのに指切りをすることなんて滅多に無い。だが、自己紹介の後にわざわざ握手を求めてくるような人だ、きっとこれは天然なのだろうと思った。一瞬躊躇って、結局彼の期待に満ちた眼差しに負けて、恐る恐る自分のそれを絡める。お決まりの歌を歌い出す吹雪君にさすがに恥ずかしくなったけれど、とても振り解けるような雰囲気では無い。何より、彼の嬉しそうな顔を見たら、そんなこと出来るはずも無かった。
 指切った、と小指を解いた吹雪君は約束だよ、と念を押すように云った。それに私はこくりと頷く。半ば押された形ではあるけれど、でも、今日の練習は確かに楽しかった。綺麗なフォームで走るとか、タイムがどうこうとか、そういう理屈じゃなくて、彼の隣を走るのは、ただ楽しかった。彼にとっては単なる気まぐれかも知れない。私もまだ、どうしてこんな気持ちになるのかまでは明確には解らない。だけど、一緒に走ることが楽しい。それだけで私が彼と約束を交わす理由としては十分な気がした。

「あっ、そろそろ行かないと! もう8時だ、学校間に合わないよ!」

 ふいに公園の時計を見上げた吹雪君が慌てたように私の顔を見て、スポーツバッグを担いだ。私も急いでスポーツバッグにペットボトルを片付け、それを肩にかける。すると、彼はそれを待っていたかのように私の手を掴んで、階段へと駆けていく。驚く間も無く、引っ張られるようにして、私は縺れそうになる足を必死で前へ踏み出し、彼の一歩後ろを走った。繋いだ手が、彼の手とは思えないほど熱くて、これが自分の体温なのか、彼の体温なのか解らないまま、私は置いていかれないように汗ばんだ手のひらに力を込める。

「ほら、楢崎さんっ! 遅刻しちゃうよ!」
「うん!」

 急かす声が綺麗な青空に響く。吸い込んだ空気は冷たく、9月の空は見事な秋晴れだった。








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