スマートフォンのホーム画面を押して、ロックを開く。ラインを開くと、一番上には「菅原孝支」の文字が浮かび上がる。
生まれてこのかた『彼氏』という存在がいたことがないわたしは、この感情を持て余していてどう扱って良いのかわからなくなっていた。
先輩。憧れの人。彼氏。恋人。好きな人。その全てが当てはまる人がいる。その人が、わたしのことをすきだと、そう言った。 必死に恐怖と戦っていたはずなのに、気付けば優しく彼に手を引かれていて、導かれた先はわたしがずっと夢見ていた場所だった。
結局、告白を受け入れた日、泣きじゃくってまともに話せないわたしを彼は笑顔のまま家まで送り届けてくれた。スガさんにわざわざ遠回りさせてしまったことに加えて、バイト先のストーカーを追い払ってくれたという申し訳無さも相まって消えてしまいたい気持ちがふつふつと湧き上がった。ごめんなさい、何度も謝り続けるわたしにスガさんは笑って「すきな女の子にはなんでもしてあげたいから、謝るぐらいならありがとうって言って」そう言ってくれた。ふわふわと頭を撫でられて、それはもう心臓が爆発してしまうんじゃないかと心配になるくらいで。
「バイトで遅くなる日は絶対迎えに行くから言って」そう言ってはくれているけれどあいにくシフトを確認したらしばらく休みで。付き合って以来スガさん会うことはまだないけれど、毎日のようにアプリでやりとりをしているため不思議と寂しさはない。
「あ、またニヤニヤしてる。菅原さんでしょ」 「うっ…仁花ちゃんにはバレちゃうなあ。」 「本当に、良かったね!やっと実ったね!」
つまらない授業を聞き流しながら隣の席の仁花ちゃんに付き合うことになった旨を伝えると、自分のことのように喜んでもらえたのも記憶に新しい。
「春乃ちゃんバイト先の人とはどうなったの…?菅原さんとのこと手放しで喜んでたけど、やっぱりそっちも少しは心配なんだよね……!」 「……バイト先の人、なんか引っ越して辞めたんだって。会えなくなる前にわたしにアプローチしたかったんじゃない?こんな言い方したら自惚れてるみたいで嫌だけど…うーん……」
そっかぁ。そう言いながら出席の代わりになるプリントに名前を書く仁花ちゃん。わたしもそれを見て自分のプリントに記名した。
「まあもう会わないなら安心だとして、明日はデートでしょ?楽しんできてね!」
そう、明日は約束していた映画デートの日。まさか恋人同士としてその日を迎えることになるとは思ってなかったから心構えが変わってしまう。
本当ならば明日言ってしまうつもりだった。3年前からずっとすきだと告げてしまうつもりだったのに彼から同じ気持ちを伝えられてしまっているなんて想像もつかなくて。
デートだ、浮き足立つ気持ちを抑えることが出来ず、思わず口角が上がってしまう。それを見た仁花ちゃんはニヤついた顔を隠そうとしない。 近くのショッピングモールに併設された映画館に行く予定にしているため、ふらふらと歩けば時間は潰せる。たぶん、沈黙も苦痛じゃない。スガさんといる空間は、苦痛になんてならないだろう。
「仁花ちゃん、ありがとう」 「ん?なんにもしてないよ?」 「ううん、高校生の時から、わたしの気持ちに知らないフリしててくれて。茶化さないでいてくれてってこと。3年間想ってきて、よかったなあ」
明日はどんな服を着たら良いかなって言うと、よし買い物行こう!なんて言われるから、まだバイト代の貰えていないお財布は少し寂しくなってしまった。
◇◇◇
「スガさん!すいません遅くなりました!」 「よっ。まだ待ち合わせ時間じゃねーべ?そんなに慌てなくても」 「いえ、スガさんより先に来るつもりだったのに…!」
あわよくば「待った?」「今来たとこ!」のやりとりをしてみたかったという少女漫画脳のわたしは、それが出来なかったことに少し残念さを覚えた。それがバレないように頭を軽く振って追い出し、スガさんを見る。今日はいつもより落ち着いた格好をしていて素敵だなあ、と脳内は彼のことですぐに埋め尽くされてしまった。
「今日もかわいい」 「へ?」 「服。似合う。」 「え、」 「俺のために頑張ったのかなって思うと、正直、めっちゃうれしい」
頬をほんのりと染めながら微笑むスガさんに、胸がぎゅっと締め付けられる。彼はわたしのことをちゃんと見てくれていることを痛感する。きっと彼もわたしほどじゃなくても、そこそこの期間想ってくれていたのだろう。そう自惚れてしまう。 どうして、お互いに気づこうとしなかったのか、気づいて欲しいと思わなかったのか。そんなこと考えても仕方ないけれど、過去の自分に戻れるなら、このことを教えてあげたい。今わたしの隣にいるのは、あの笑顔をわたしだけに向けたスガさんだよって。
「前話してたこの映画で良かった?」 「はい!それが良いです!」 「じゃあもうチケット取ってるから、ご飯でも食べとく?なんか食べたいのある?」
さりげなくリードしてくれる感覚が心地よくて、これが彼氏というものなのかと感心してしまう。デートって、どう振る舞うのが正解なんだろう。彼女として、何をして良くて、何をしてはいけないのだろう。
「…緊張しすぎ。」 「えっ…」 「今まで通りの、普通の中島で良いよ。何を気負ってるのかは知らないけど。」
本当に、この人にはお見通しなのだ。わたしが、彼女としてどう振る舞おうか迷っていることなんて。 いつも通りって、なんだろう。後輩としての自分はどんなものだったのかわからなくなってしまう。わたしはどんな風に話してた?
そわそわするわたしにもずっと笑顔で接してくれる彼の優しさに胸が熱くなる。まぁ俺も緊張してるけどな。そう言ってくれる彼は本当に出来た彼氏なのだろう。比べる相手なんていないから、わからないけれど。
「とりあえず食べたいもの!前は俺が行きたいとこ連れてったから、今日は中島が選んで」 「え!じゃあ、パスタが良いです!」 「オッケー。じゃあココかココだな。」
店内の案内掲示板を指差しながら三階だな〜と呟く横顔を見て、胸が疼く。さりげない優しさも何もかも、わたしをときめかせるには十分すぎる。
「中島、」 「はい…?」 「ん。」
さらりと攫われたわたしの右手は、彼の左手が捕らえていた。肌が触れ合うその感触に、いわれもない感情がぞわりと背中を伝う。悪い意味ではなく、もちろん、心地のいい感覚。わたしはこんな感覚、知らない。すきな人と手を繋ぐことが、こんなに心地よいものだと知らなかった。
「……すき、だなぁ」 「ん?なんか言った?」 「ううん、なんでもないです」
不意に漏れた声は届くことはなく、宙に消えた。
◇◇◇
「あっ、なんかさ、こういうとこ懐かしくね?」
パスタを食べ終え、映画までの時間をふらふらと歩いて潰す。その時通りかかったのはスポーツショップ。バレーグッズSALE!とでかでかと掲げられた旗に思わず目がいってしまう。
「部活してる時はしょっちゅうこういうお店来てましたよね、コールドスプレーもテーピングもすぐになくなるんですもん」 「ちょっと寄ろう?久々にこういう店入る気がするわ。」
2人の足は迷うことなくバレーボールのコーナーへ進む。毎日触っていたボール、選手たちが身につけていたサポーター、シューズ。全てが懐かしくてあの時の気持ちがふわりと蘇ってくる。 それはわたしだけでなくスガさんも同じだったようだ。優しい目をした彼はどこか遠くの思い出に耽っている様子だった。
「現役ん時はなんとも思わなかったけど、今見ると良い部活選んだなって思うよ」 「……わたしもですよ」 「暑い日も寒い日もあったけどな〜!中島もよく頑張ったよな、マネって大変だべ」
汗が滲むほど蒸し暑い体育館でも、震えるくらい寒い体育館でも長い年月を過ごしてきた。けれど、全部がつらかったわけじゃない。むしろ、楽しいことや良いことの方が多かった。
「大変だったけれど、楽しかったですよ。戻りたいなぁ…。」
先輩が居て、同級生が居て、毎日必死にバレーボールを追いかける人達を支えた日々に想いを馳せる。あんなにキラキラとした青春、もう一度体験したくても難しいだろう。
スガさんはわたしの目をじっと見つめてきた。何か変なことを言っただろうか。少し不安になって、目の前に並ぶサポーターを無闇に手に取り、ビニールの音が鳴るほど握りしめた。
「…戻りたくないって言ったら、嘘になるけどさ」 「……え?」 「戻ったら、今みたいに中島が隣にいないだろ。」
ぞわりと全身の血液が沸き立った。少し困ったような顔で笑うスガさんの表情に心臓が鷲掴みにされる。
「何回やり直しても、高校生の俺は中島に告白しないと思うんだよなぁ。ずっとすきだったけどさ、なんていうか。」 「えっ…、」 「だから、戻んなくていいや。今が一番幸せだと思ってるし。」
そう言って、目を合わせた彼はふわりと笑った。自分の頬が熱くなるのが手に取るようにわかってしまった。ずるい、そう言ってわたしが嬉しくなるような言葉を的確に選んで言う彼が、ずるくて、だいすきだ。
「…ずるい、」 「ん?」 「……スガさん、高校生の時よりかっこよくなってます……」
少し目を見開いて驚いた彼は、すぐにその目を細めてわたしの目を見た。歯を見せながら笑うその顔もずっとずっと昔からだいすきです、そう伝えてしまいたいけれど、言葉は素直に口から飛び出てはくれなかった。
その時、背後から懐かしい声が聞こえたのだ。
「スガ?」
2人して声のする方向を向くと、2人の先輩が上がる口角を隠そうともしない様子でこちらを見ていた。
「大地!旭!」 「こんなとこで会うとはなぁ。中島、今日は酔ってなさそうだな」
後輩の世話を焼いている時の笑顔で澤村先輩がそう言う。申し訳無さが募り、思わず頭を下げて謝ると、東峰先輩が少し慌てて止めてくれた。
「この間は本当にすみませんでした……」 「スガがあまりにも心配してたから、もうそんなことしないようにね」
優しくそう言う東峰先輩。スガさんだけじゃなくて、他の先輩方にもたくさん心配をかけた。 もう二度とお酒飲みません。そう言うと、ハタチ過ぎたら良いだろ、そう返してくれる優しい先輩方だなぁと痛感した。
「それにしても、良かったなぁ」 「何が?」 「何がですか?」
柔らかな笑みを浮かべた澤村先輩が、わたしとスガさんを交互に見ながら良かったと。スガさんとわたしの答えが同時に口から飛び出してしまって、思わず目を合わせて笑ってしまった。
「高校の時からの両片思いがやっと終わったんだなと思うと、俺らもなんか嬉しくなるよなぁ」 「えっ……!?」 「ちょっ、大地!?両片思いってなんだよ…!」
不意にぱちりとスガさんと目が合った。少し赤く染まった彼の頬と、きっと同じくらいわたしも頬が染まっている。 高校の時からの両片思い?澤村先輩はわたしの気持ちに気付いていたのだろうか。
「大地!お前、両片思いって知っててなんで言わねえんだよ!」 「お互いに隠したいって思ってそうだったし俺らも忙しかったんだよ!」 「すっスガさん!」
耳まで赤く染まった彼の手を引っ張って、ストップをかける。これ以上、何か聞いてしまったら心臓が爆発してしまいそうだから。
「中島、スガに彼女出来た時期も知ってんのにずっとすきだったんだろ?健気だな〜って思ってたよ」 「さっ澤村先輩……!」
どうしてそこまで知っているのか、と思ったけれど、ふと思い出したのは潔子さんだった。先日、仁花ちゃんと3人でご飯を食べに行った時に、昔話に花を咲かせた。その際にふとわたしが言ってしまったのだ。彼には彼女がいたんだから、わたしのことなんてすきなわけがない、と。
「中島、及川に聞く前から知ってたのか…?」 「は、はい…すいません、気持ち悪くて……」
気持ち悪くなんてねえべ。そう言いながらがしがしと頭を掻くスガさんは、そのまま少し澤村先輩達と話をしていた。 じゃあまたみんなで集まれたらいいな。そう言って2人の先輩とは別れを告げた。スガさんは少し気まずそうな表情をしながらわたしをじいっと見つめてきた。
「……スガさん?」 「中島、何があっても俺のことすきでいてくれてありがとう」 「え?」
彼女いたって知っててもすきとか、嬉しすぎんだろ。そう言って照れ臭そうに笑う彼に心臓がぎゅっと締め付けられる。わたしの等身大のすきを全て受け止めようとしてくれる彼が、優しくて、あたたかい。
「だから今度は俺が、何があったって中島のことすきでいるよ」
するりと絡められた指先が熱くて、そこから伝わる熱に全身がどろどろに溶かされてしまいそうだ。彼の隣はこんなにも熱くて苦しくて切なくて、それでいて、心地いい。
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