1


 セブルス・スネイプ、という名前には聞き覚えがあった。寮の談話室で本を読む姿や、グリフィンドールの生徒といがみ合う姿は、ホグワーツでたびたび目にしていた。話したことは、もちろんなかった。
「結婚前に会食を予定している。お前も出席しろ、いいな?」
 デスイーターになることを拒んだ自分に、ほかの選択肢はないのだと、父は示した。

 元から純血を重んじていた両親が、例のあの人の思想に心酔するのは必然だった。成績の良かった自分に、デスイーターになるよう勧めるのも。デスイーターと結婚するよう促すのも。
 セブルス・スネイプは純血ではない。それは両親もわかっている。例のあの人のもとで働くことができない代わりに、デスイーターであり、あの人のお気に入りのセブルス・スネイプと結婚することで、忠誠を示そう。それが彼らの考えだった。
 もちろん純血が半純血と結婚することは、例のあの人の思想に反する。だから、三年という期限付きの結婚だった。セブルス・スネイプの子供を授かることも許されていない。そんなことは私も望んでいないが。たった三年間の結婚生活など、何の意味があるのだろう。例のあの人の考えはわからない。わかろうとも思わない。ただ今は、服従するしかないため、言われたとおり、家族と共にテーブルを囲んで彼を待っている。
 拒否できない自分の代わりに、セブルス・スネイプが反対してくれないか。最初はそう期待したが、彼は何も言わなかった。おそらく、例のあの人から結婚するよう促されたのだろう。デスイーターにとって、あの人からの言葉は絶対。もう、結婚からは逃げられなかった。
 彼は、時間通りに家に来た。
 扉の音に母が立ち上がり、彼を迎えに行く。「お忙しいだろうに、わざわざ来てくれてありがとう」「いえ」低い声と足音が近づいてくる。
 彼は黒いローブを揺らしながら、こちらに向かってきた。長くベタついた黒髪、土気色の肌、大きく高い鼻。ホグワーツで見かけたときよりも、背は伸びているようだった。
「これはこれは、セブルスくん。来てくれてありがとう」
 立ち上がった父に、彼は握手する。自分も挨拶しない訳にはいかず、そろそろと立ち上がった。
「……はじめまして。ナマエです」
 少し口角を上げて挨拶するも、彼はぶっきらぼうに返した。
「セブルス・スネイプです」
 握手をし、皆席に座る。ノエル(昔からいるハウスエルフだ)に父が目配せし、料理を取りに行かせた。上座に座った彼を見る。眉間のしわはこれでもかと寄せられ、誰かが変なことを言えば、すぐに帰りそうだった。
 会話をしないのが一番だったが、母にアイコンタクトをされ、仕方なく口を開く。
「あなたのことは、ホグワーツで時々見かけていました……私のことはご存じですか?」
 彼は渋々といったように頷いた。
「私も、君のことは見かけていた」
「……なんだか、不思議な気分です。同じスリザリン寮ということしか接点がないのに、結婚するなんて」
 彼の回答にほっとし、思わず本音が出る。彼は何も言わなかった。代わりに父が、咎めるような視線をこちらに向けた。
 料理がテーブルに置かれ、ナプキンを広げる。彼は注がれたワインに口をつけた。
 それからは父と母が堰を切ったように、彼にあれこれ聞き始めた。出身はどこなのか、母親はどんな人だったか(父親はマグルのため話題に上ることはなかった)、ホグワーツでの得意分野は何だったか。セブルス・スネイプは一つ一つを簡潔に話した。あまり話をしたくないようにも見えた。
 父と母もそれを察したらしく、次第に口数が減った。デザートを食べ終わる頃には、「後は二人で」と言って、そそくさと去っていった。
 沈黙があたりを支配する。もう食べるものはなく、手持ち無沙汰になってしまった。デスイーターと聞くと血の気が多く、野性的な者を想像するが、彼は少し違うようだと感じた。不機嫌そうだが、落ち着きはある。ホグワーツにいたときの彼を想像させた(グリフィンドール生といがみ合う場面は別として)。この場をどう乗り切ろうか、と話題を頭の中で探っている間に、ふと彼は言った。
「君は、なぜデスイーターにならなかった?」
 ちらと彼を見る。咎めるような言い方をしていたのに、彼の目は何の感情もなかった。少し恐怖を感じたものの、勇気をだしてこう言った。
「……あなたには、お話しできないです」
 例のあの人の思想に賛同する者に、それを否定するような事は言えなかった。まして、相手はデスイーターで、しかも不機嫌。怒らせたらどうなるか。
 幸い彼は、それ以上聞かず立ち上がった。
「そうか。私はこれから任務に出なければならん……楽しい食事だった」
「こちらこそ……」
 互いに形式だけの挨拶をし、両親にも声をかけると、彼は帳の下りた夜の街へ去って行った。
 彼が、一週間後には自分の夫となる。急な話であり、あまりに現実味がない。
 残ったワインに口をつけると、ほのかな苦みが広がった。自分の心のようだと思った。

 結婚式は身内だけでつつがなく終わった。
 式後はパーティーがある訳でもなく、ドレスからいつものローブへ着替え、セブルス・スネイプの家へ直行することとなった。「腕を掴め」というスネイプの腕を遠慮がちに掴めば、途端ぐにゃりとゴム管の中を通るような感覚がし、次の瞬間には解き放たれた。
 そこは、工場地帯のようだった。すでに日は落ち暗くなっていたが、工場の影はかろうじてわかり、また空気の淀みがひしひしと感じられた。どの工場も光っていないため、マグルは働いていないことがわかる。もう廃墟となっているのかもしれない。
 足早に歩くスネイプは一度もこちらを振り返ってはくれず、付いていくのに必死だった。よく見回すと川が流れ、その川の匂いなのか、腐ったような嫌なにおいが絶えない。こんなところで私は生活していくのか。スネイプと二人で暮らすことすら不安なのに、その上こんな環境の悪いところにいたらどうなってしまうだろう。自分の行き先に不安を持ちながらも、今はひたすらスネイプに付いていくしかない。
 しばらくして彼は足を止めた。
「ここだ」
 そこは路地の角の、古い家だった。外観を見る隙も与えず、スネイプは軋んだ扉を開ける。自分も中へと滑り込んだ。
 まず目に飛び込んできたのは大きな本棚だった。天井ほどもある本棚に、本が隙間なく敷き詰められている。そして大きめのテーブル、肘掛け椅子がその本棚の前にあった。
「ここは……リビング、ですか?」
「リビングというものはこの家にはない。ここは書斎だ。君はここで食べてもらっても良いが、本を絶対に汚すな」
 自分を子供と見なしているのだろうか。不服に思ったが、「はい」と素直に頷いた。
「君の部屋はこっちだ、ついてこい」
 スネイプについて狭い廊下を通り、つきあたりの部屋に入る。そこには何もなく、ベッドだけが横たわっていた。かび臭い匂いが漂う。壁はシミだらけだし、ベッドのシーツもきちんと洗ってくれたのか怪しい。
「シーツは洗っておいた」
 心を読んだようにスネイプは言った。どきりとするも、彼は反応せず続ける。
「ここが君の部屋だ。好きに使っていい」
「……わかりました」
 それから風呂とトイレを案内され、最後に地下のある部屋の前でスネイプは言った。
「……ここは私の部屋だ。何があっても絶対に中に入るな」
「わかりました……スネイプさ……セブルスさん」
 自分もスネイプという名字であることを思い出し、言い直す。なんだかしっくり来ない。
「なんだ」
「私の部屋にも、絶対に入らないでくださいませんか? あなたが入るときは、私の身に何かあった時です」
 スネイプは蔑んだような笑みを口元に浮かべた。
「ああ、もちろん、君の部屋に入ったりはしない。約束する」
「私ももちろん、あなたの部屋に入ったりはしませんのでご心配なく」
 私は少し腹が立っていた。知らない男と結婚させられ、その上一緒に住まわされるという悪夢のような出来事がこの身に起こっているというのに、スネイプは自分の部屋には絶対に入るなと言った。まるで自分がスネイプに好意を持っているようではないか。言われなくとも彼の部屋には近寄らないし、一緒にいたくもない。
 暗い地下から上がり、キッチンへ向かう。
「ここがキッチンだ。調味料は好きに使っていい……作っても自分の料理だけ作れ。私の帰りを待つなんてこともしなくていい」
 ――言われなくとも。
 心の中でそう思いながら、「はい」と頷く。
「どこで過ごしても良いが、私は基本的に私の部屋で過ごす。では」
 去ろうとするスネイプの裾を慌てて握った。
「……なんだ?」
 スネイプは心底嫌そうにこちらを見ている。
「ひとつだけ質問があります。私の部屋を掃除しても良いでしょうか?」
「さっき好きにしていいと言っただろう。いちいち許可を取るな。あれは君の部屋だ」
「わかりました」
 ふん、と鼻を鳴らすと、自分と話している時間がよほど惜しいのか、スネイプは地下へと足早に下りていった。
 ――あの男と一緒に暮らすのか。
 形だけとはいえ結婚したのだから、もう少し親切にしてくれてもいいのではないだろうか。ただでさえこの環境には滅入っているのに、夫である人にあんな態度を取られ続けたら――本当に病んでしまう。
 ため息をつき、とりあえず夕食を作ろうとキッチンの戸を開けた。意外と自炊するたちなのか、調味料は大体そろっている。ただ食材は大きなキャベツしかなく、面倒に思いながらも財布とバッグを持ち、家を出た。いちいちスネイプの許可を得て外出しなければならないなんてことはないだろう。そう思っていたのだが。
「何をするつもりだ」
 後ろから声が聞こえ、振り返るとスネイプが不機嫌そうな顔で戸口に立っていた。
「何って……食材の買い物ですが」
「君は自分の置かれた立場がわかってないのか? とりあえず戻れ」
 中に入れば、スネイプはこう言った。
「一人で外出するな。君はまだダンブルドアに私と結婚したと認識されてないかもしれないが、それが知れて君が一人でいるところを抑えられたら面倒なことになる」
「そうかもしれないですけど……一人で外出するなって、とても酷なことじゃありませんか? 三年間ずっとこの暗い家の中で過ごせと?」
「ごちゃごちゃ言うな。自分の安全のためにずっとこの家にいろ。もしそれを破って君が政府に捕らわれたとしても私は助けになど行かない」
 そう言われては何も言い返せず、口をつぐむ。
「わかったな?」
「……はい」
 不承不承頷く。
「もし君が食料など買いたいときは私に言え。買ってきてやる」
「じゃあ、いいですか? にんじんとじゃがいもと……」
 早速欲しい食材を言う。スネイプは自分を、料理をしてこなかった小娘と思っていたのか、ほんの少し眉を上げた。
「……わかった。買いに行ってやる。少し待っていろ」
 絶対に外に出るなと釘を刺し、スネイプは扉を開け出て行った。
 一人になり、再びため息が出る。この陰鬱な家に閉じ込められるなんて、もはやこれ以上悪いことはきっと起こらないだろう。ただ、好きなことが――料理ができる環境なだけマシか。この結婚は間違っていると思ったが、ならばデスイーターになるかと問われれば、絶対になりたくはない。マグルやマグル生まれに危害を加えるために魔法を使うなど信じられない。あの男もきっと――誰かを拷問し、殺している。そう思うと背筋がぞっと震えた。そんな人とこれから二人きりで暮らすのか。もしかしたらそこまでしていないかもしれないが、デスイーターという者は例のあの人の命令を受け、そういう行為をするのが仕事だ。
 極力スネイプと関わらない生活を送ろう。そう誓った。

 
2


 次の日の朝はよく晴れていた。掃除のために開けた、私の部屋の窓から見た空が晴れ渡っていた。スネイプは自分が一歩でも外に出ることを禁じたため、全身で日光を感じることはできないけれど、少しだけ日が差し込んでくるためあたたかさは感じることができた。日の当たる部屋でよかったと思う。
 朝から布団を干し、魔法で壁を磨き、昼頃にはある程度きれいな部屋になった。実家にいるハウスエルフに掃除を頼みたいと何度か思ったものの、もはや私は屋敷の住人ではないためこき使うことも、呼び出すことすらできない。ハウスエルフ――ノエルは昔から知っていて、私は彼女が好きだったから、屋敷ではいつでも一緒だった。さみしさはあるものの、仕方がない。嫁ぐとはそういうことだ。
 昼食を作ろうとキッチンへ向かう。今日は夜遅くにスネイプは仕事へ行った。挨拶などなく、ただ玄関の扉が閉まる音で彼が出て行ったことを知った。この家は壁が薄く、あまり防音がされていない。
 一人分のお昼を作り、肘掛け椅子に腰掛けて食べる。一人分だけ作って食べてもあまり美味しくはない。せめてノエルがいてくれたら、「美味しいです」と言ってバクバク食べてくれるのに。スネイプがそんなことを言ってくれるわけもなく、一緒に食卓に並んでくれるわけもなく、ただこの寂しさが薄れるまで我慢するしかない。
 食後は近くにあった本を読むことにした。ここでの暇つぶしは読書しかなく、三年間かけてこの本棚の本を全部読んでしまうかもしれない。本はほとんどが闇魔術に関するものだった。今手に取った本も、「闇魔術における時間のあり方」という本だった。闇魔術には何の興味もないが、仕方なく開き、文字を追った。
 それからどのくらい経っただろう。唐突に玄関の扉が開かれ、その音にびくりと体が震える。スネイプはこちらを一瞥したあと、玄関を施錠した(この玄関は彼しか開けられない魔法がかかっている)。
「……おかえりなさい」
 何も言わないのもどうかと思い挨拶する。スネイプは「ああ」と頷き、私の手元を見た。
「何を読んでいる?」
「闇魔術についての本です。ここにある本は読んでも大丈夫ですか?」
「汚さなければ大丈夫だ」
 スネイプはそう言って、自分の部屋への階段を下りていった。スネイプが自分に関心がないことはわかりきっていたが、もう少し会話を楽しもうという気持ちはないのだろうか。そちらがそういう態度なら、こちらだって同じような態度を取る。スネイプとは極力関わらない生活を送ろうと昨日誓ったが、その気持ちはより強くなった。

 そうしてスネイプと暮らして半年が経った。半年も一緒に暮らしていると相手の癖や行動がわかるようになるというが、そんなことは一切なく、スネイプのことは相変わらずわからないままだし会話をすることもない。それ以上にこの陰鬱な家に閉じ込められるのが堪えた。あと二年半。あと二年半我慢すれば自由の身とわかっていても、毎日が苦痛で長く、とても耐えられなかった。せめてスネイプが友好的な態度だったなら、この生活にも耐えられたかもしれない。こちらから話しかけることはあれど、向こうから話を振ることも、広げることもなく、相変わらずそれぞれ一人で食事をしていた。そんなある日のことだった。
 夜中にトイレに行きたくなり、部屋を出て廊下を歩いていたときだった。ふと泣き声が聞こえて、私は立ち止まった。耳を澄ます。地下から聞こえてくるようだった。ここに幽霊がいるわけもなく、この声はここに住むもう一人の声――スネイプの声だった。
 私は信じられなかった。あのスネイプが泣いていることが。ただ確かめるために彼の部屋の前に行けば、その声は紛れもなくその中から聞こえてきた。
 一体、何に対して泣いているのだろう。押し殺したようなその声は悲しげで、とてもつらそうだった。慰めてあげたいとおもわず思ってしまうほどに。他の人たちと同じく、彼も血が通っている一人の人間なのだと、その時初めて理解した。私はそっとその場を離れた。その夜はスネイプのことが浮かんで眠れなかった。
 翌朝、彼はここを出て行った。その顔はいつも通りで、昨日泣いていた人物とは思えなかった。私も昨日は何も聞かなかったかのように、いつも通り見送った。
 それからは、たまに彼の泣き声を聞くことが多くなった。それを聞くたび、泣く理由を知りたくなるのだけれど、翌朝の彼は普段通りなため理由は聞けなかった。泣き声を聞くたびに、私はなぜだか胸が張り裂けそうな、つらい気持ちになった。
 そんなある日のことだった。
「おられるんじゃろう? ミセス・スネイプ」
 戸口から聞こえた声に私は驚いた。ダンブルドアだ。ダンブルドアがこの扉を挟んで立っている。
「君がそちら側の人間ではないと、私はわかっておる……どうして君はセブルスと結婚したのかね?」
 ダンブルドアは私に話しかけている。スネイプには、もし誰かに扉越しに話しかけられても無視をしろと言われている。言われているのだが、ダンブルドアに助けを求めたいという気持ちが大きかった。彼の泣き声がさっと浮かんだけれど、私はつい縋ってしまった。
「……私がデスイーターにならなかったので、スネイプと結婚させられたんです。一応三年という期限はありますが、こんな所に押し込められて自由もなく、とても耐えられません……どうか、助けてください」
「……そうか」
 今の声は――。
 認識すると同時に扉が開いた。そこには――ダンブルドアではなくスネイプが立っていた。
「な、なんで……」
「ダークロードから、お前が裏切らないか確認しておけと言われてな。私の予想通り、お前は裏切った」
「ご、めんなさい……」
 彼の目から猛々しい怒りを感じて謝るも、スネイプに肩を掴まれた。
「お前は――そんなにこの家が嫌か、私が嫌か?」
「わ、私は、閉じ込められるのも嫌だし、あなたとも会話がないのが嫌なの!」
 この機会に伝えてしまおう。そう思った。
「私はもっと出かけたいし、あなたと話したい。あなたへの怯えがあるのは本当だけど――一緒に住んでるのだから、コミュニケーションを取りたい……そう思うのはいけないことなの?」
 スネイプはただ私の目をじっと見つめている。私も負けじと見つめ返した。スネイプとコミュニケーションを取りたいという気持ちがあるのは本当だった。一緒に住んでいるのだから、相手をもっと知っておきたい。そうすれば、互いに一人で泣くことも減るような気がする。
 スネイプとは極力関わらないようにしようという気持ちは、彼の泣き声を聞いて揺らいでいた。
 スネイプは「そうか」とため息交じりに言った。
「君の要望には応えられないかもしれんが、私も善処する。これからは言いたいことがあったら言え……ただ、君をこの家に閉じ込めているのは君の安全のためだ。それはわかってほしい」
「わかりました……」
 頷く。確かにデスイーターの妻という立場は危うい。
「では、代わりと言っては何ですが、早速要望があります。私と食事を一緒に取ってください」
「食事?」
「はい。私と一緒に、私の作ったご飯を食べてください」
 スネイプは不服そうな顔をしたが、「わかった」と答えた。
「それと、私との会話を楽しもうという態度を取ってください。それができていなかったら、私はあなたを裏切ります」
 スネイプはぐっと眉根を寄せた。こちらを睨んでいるが、特に怖さは感じなかった。言いたいことが言えて精々し、すがすがしい気持ちになっていたからかもしれない。
「……要望はそれだけか?」
「はい、それだけです」
「なら、いい……」
 スネイプはそう言って、頷いた。いつもならそのまま地下へ潜ろうとするのだが、それをしない彼に、私は何だか嬉しくなった。彼は本当に私の要望に応えようとしてくれているのだ。
「ス……セブルスさんは、料理は何が好きですか?」
 椅子に腰掛けて聞いてみる。スネイプもその向かいへ腰を下ろした。
「……特に好きな料理はない」
「じゃあ、今日は私の好きなものを作っても良いですか?」
「ああ、そうしてくれ」
 スネイプは半ば諦めたようにそう言った。
「夕飯は何時頃が良いでしょう?」
「一九時頃で構わない。何か食材でも買ってくるか?」
「いいんですか? じゃあ、タマネギと……」
 今までだと自分から彼に頼んでいた食材も、彼から自発的に聞いてくれた。私が望んでいたのはその姿勢だ。共に暮らすのだから会話は多い方がいい。
 その日の夕食は気合いを入れてパイを多く焼いた。誰かのために料理をするのは久しぶりだった。忘れていた高揚感を思い出す。スネイプに味の感想を求めれば、ただ一言「悪くない」と言った。私はその一言で、今までのスネイプの態度を許そうと思ったのだった。

 
 3
 
 
 一緒にどこかへ出かけたいと話したのは、夕飯を共に食べるようになって、ひと月が過ぎた頃だった。セブルスは――この頃にはすっかり名前呼びが定着してしまった――予想通り首を振った。
「ダメだ。どこにも出かけられん」
「息抜きもダメなんですか?」
「ダメだ」
 セブルスは繰り返す。私は代わりにこう言った。
「……じゃあ、この家にある思い出を教えてください」
 ただの陰鬱な家としか今は認識できないけれど、彼から思い出を聞けば少し違った見方ができて愛着が湧くのではないか。そう思って言えば、彼は怪訝な顔をした。
「なぜそんなことを知りたい?」
「なぜって……もっとこの家に愛着が湧くように、ですよ。あと二年はここに住まなければいけないですから」
 セブルスはふんと鼻を鳴らし、それからこう言った。
「……この家は、マグルである父が買った家だ。父は魔女である母に強く当たった。父は魔法も何もかもを嫌っていた……だからここにいい思い出などない。それでも住み続けるのは惰性だ。家を探すのも面倒で、ずっとここに住んでいる」
「……そうだったんですね」
 セブルスの口から父の言葉が出たのは意外だった。彼はマグルを心底軽蔑する印象があったからだ。てっきり父の存在を記憶から消しているのだと思っていたけれど、こうして話すということは、それでも家族だと思っているからだろう。
 重々しい空気を和らげるため、話を変えることにした。
「この本たちは、昔からある本なんですか?」
「そうだ。母が集めていた本だ。母は呪文学もDADAも成績が良かった……とりわけ闇魔術に関心があったらしい。本はすべて父によって地下に追いやられていたが、私がここに並べた。子供の頃から隠れて読んでいたものだ」
 だからセブルスは、闇魔術に造詣が深かったのか。同じスリザリン生からも、最初は孤立していた理由がわかった。
「……君は、何の科目が得意だった?」
 自分への質問に、はっとセブルスを見る。驚いた。会話を楽しむよう言ったのは自分だが、まさか自分に関する質問が来ると思わなかった。
「私は……好きなのは呪文学でしたがあまり成績は良くなく、得意なのは魔法薬学でした」
 セブルスはかすかに眉を上げた。
「ほう。生ける屍の水薬も一度で成功したのかね?」
「そうですね……好きではないのになぜか得意でした。セブルスさんも魔法薬学は得意だったんでしょう?」
「ああ」
 セブルスが大鍋の前でぐつぐつと薬を作っている姿を想像し、笑ってしまう。とても似合う気がする。「なんだ?」と訝しげな顔をしている彼に「なんでもないです」と答えた。
「……そろそろ寝ましょうか。明日も早いんでしょう?」
「そうだな」
 セブルスはテーブルから立ち、地下へ降りていった。私はテーブルを拭きながら、なんだか夫婦のような会話をしたなと思った。実際に夫婦なのだけれど。久々に笑った気もする。この調子で過ごせればストレスもなくなりそうだ。未来が少し明るくなった気がした。

 その日の夜の事だった。
 バタンといつもより大きな音がして、私は目覚めた。入ってきた足音は私の部屋の前に来て、迷うような静寂の後、弱くノックされる。私はベッドから出て、扉を開けた。そこにはセブルスが立っていた。切羽詰まったような表情だった。
「どうしました……?」
「……ダークロードが明日、君を連れてこいとおっしゃっている」
「え?」
 理解できなかった。例のあの人が、私と会いたがっている?
「それは……なぜですか? 私、ここにいればいいんですよね?」
「そのはずだったが……急に君に会いたいとおっしゃった。明日、私と一緒に来てくれ」
「話はそれだけだ。起こして悪かったな」と去ろうとするセブルスのローブを掴んだ。
「待ってください……私、どうすればいいですか? 何か準備とかは……」
「君は何も準備しなくていい。ただ、嘘だけはつくな。ダークロードは開心術を心得ていらっしゃる……」
「……わかりました」
 口ではそう答えたものの、彼のローブを離すことはできなかった。
「まだ何かあるのか……?」
「……今晩は、一緒にいてもいいですか……?」
 セブルスは少し目を見開いた。
「私、もう眠れないと思うんです……せめて誰かと一緒にいたい。セブルスさん、一緒にいてくださいませんか……?」
 長い沈黙が下りた。ダメかもしれない。彼を困らせるつもりはなかった。諦めて彼のローブを離そうとしたその時、彼は口を開いた。
「……わかった」
「!」
「今晩は君の部屋にいよう」
「……ありがとう」
 セブルスは私とそのまま部屋に入った。当然ながら部屋にはベッドしかないため、二人でそこに腰掛ける。月明かりがぼんやりとシーツを照らす中、気まずい沈黙が流れる。
「…………」
「…………」
 一緒にいてくれと頼んだものの、特に何も望んではいなかった。ただ誰かにそばにいて欲しかった。それがセブルスでなければならないかと聞かれると、わからない。今はデスイーターであり夫であるセブルスにしか頼れない。
 セブルスの表情は、影になってわからない。同じように私の顔も見えないだろう。服の表面が彼とわずかに擦れあっている。身動ぎひとつすれば、触れ合ってしまうかもしれない。
「……手を……握ってもいいですか?」
 何も望まないつもりだったけれど、そばにいるとその人の体温が欲しくなった。人恋しさ、というのが正解かもしれない。体温を感じて落ち着きたくなる。
 セブルスは怪訝な声を出すかと思ったが、何も言わず手を差し出してきた。その骨ばった手をそっと握る。冷たいかと思えば意外とあたたかい。
「……震えているな」
 言われて気がついた。私の手は小刻みに震えている。
 セブルスは両の手で私の手を包み込んだ。彼の顔に光が当たる。表情はいつもと変わらなかったけれど、その目は私を心配するように見ていた。
「……大丈夫だ。心配することはない。私も行く」
「はい……ありがとう、ございます」
 彼の言葉に頷く。不安は消えないが、震えはかなり治まった。治まっても彼を感じていたくて、朝になるまで彼の手を握っていた。

 翌日、私はセブルスとともにマルフォイの屋敷へ向かった。
 マルフォイ夫人に案内され広間に向かう。中にはテーブルがあり、それぞれデスイーターたちが座る中、あの人がいた。例のあの人が上座に座っていた。
「これはこれは、スネイプ夫妻。よく来てくれた」
 その人は甲高い、ぞっとするような声をしていた。すぐに広間から出ていきたくなったが、そんなことをすれば命が危ないとわかりきっている。「座れ」と言われ、大人しくセブルスとともにテーブルへついた。
 それから、闇の陣営の会議が行われた。どうやってダンブルドアを出し抜くか。誰を殺したほうがいいか。血の気の多い連中が、物騒な会話をしている。嫌悪感から自然と眉根がひそまるが、必死にその気持ちを静め、顔に出さないよう努力した。
 ようやく会議が終盤になり、そろそろ席を立てると思った時、例のあの人は言った。
「セブルスの妻と二人で少し話したい。皆出ていけ」
 私は血の気が引いた。例のあの人はいったい何を聞きたいのだろう。私に特別な才能などないし、そんな情報も持っていない。
 セブルスを見る。彼は皆と同じように立ち上がりながら、ちらとこちらを見やった。その目には驚きが浮かんでいたが、「しっかり応えろ」というように頷いた。私は諦めてその場にとどまった。
「セブルスの妻――名前はなんと言う?」
 私はあの人と懸命に目を合わせて答えた。
「ナマエです」
「ナマエ――セブルスとの結婚生活はどうかね?」
「……仲良く、やっています」
「ほう」
 あの人は何度か笑いながら頷いた。嫌な笑みだった。そしてこう言った。
「君はセブルスのことが好きか?」
「……はい……どちらかといえば」
 嘘ではなかった。
「……では、セブルスが誰かを想っているように感じる時はないか?」
「誰かを想う?」
「そうだ。私がお前とセブルスを結婚させたのは、それを明らかにしたかったからだ。余計な感情は任務に差し障る。どうだ? そんな素振りはなかったか?」
 考えてみても、誰かを想っているようには見えなかった。気になるのは彼が時々泣くということだけだ。ただ、それはこの話とは関係がないかもしれない。私は首を振った。
「……いえ、そんな風に見えたことは一度もありません」
 あの人は再び「ほう」と眉を上げた。
「なら、いいだろう……行っていい」
 私は立ち上がってお辞儀をすると、広間を出た。
 セブルスは扉のすぐ近くに立っていた。安堵が胸を襲う。
「セブルスさん」
「大丈夫か? 何を聞かれた?」
 玄関へ向かいながら、セブルスは小声で言った。
「……あなたが誰かを想っているような素振りはしてないか、と」
 言った途端、セブルスの表情が凍りついた気がした。しかしすぐ元の無表情に戻った。
「……そうか。君はなんと答えた?」
「私は、そんな風に見えたことはないと言いました。そうしたら、あっさり帰してくれました」
 セブルスの腕を組み、姿くらましする。自宅を前に、帰ってきたという実感が湧いてきた。
「……セブルスさんは、誰かのことが好きなんですか?」
 家に入ってすぐ、私は尋ねた。こんな話はするものではないと思っていたものの、やはり気になっていた。例のあの人が言うということは、それは本当な気がした。このままうやむやになるのも嫌だった。
 セブルスは言った。
「……私は好いている者などいない」
 先程の凍りついた顔から、この言葉は嘘だとわかった。わかりながらも深く聞けなかったのは、それを信じたかったからなのかもしれない。私はただ、「そう」と言って、自分の部屋に逃げ込んだ。

 
 4
 
 
 掃除をしようと決めたのは、それから数日経った秋晴れの日のことだった。部屋の掃除は毎日のようにしているが、お風呂とトイレは週に一回している。特に曜日は決めず、やる気になった日にやっていた。
 魔法で浴槽を磨き――掃除と料理を作る時だけ杖を振るのは、なんとなく杖に申し訳なく思う――一段落した時。ふと、セブルスの部屋のことが過ぎった。絶対に入るなと言われている部屋。その中に、セブルスの隠しているものがあったとしたら――誰かを好いている証拠があるのなら――知りたかった。それを知ってどうする、とは思う。ただ、私はあの人に尋ねられてから、頭はずっとそのことでいっぱいだった。彼の好きな人という言葉が浮かぶ度、胸がざわついた。
 セブルスはきっと今日も遅いだろうし、さっと入ってさっと出ればバレないだろう。私はいつの間にか彼の部屋に入ることを考えていた。私の気持ちにもけじめをつけたかったのかもしれない。
 地下におり、彼の部屋を開ける。幸い鍵はかかっておらず、難なく開いた。
 まず目に付いたのが書斎にもある大きな本棚――そして机と椅子、ベッドだった。机の引き出しを覗いてみる。インクや封筒があるだけで気になるものはなかった。それから本棚に移動して試しに本を手に取る。パラパラと捲っても、何の仕掛けもない。ただ闇魔術らしき呪文が書かれているだけだった。本を戻し、もう一冊本棚の中ほどから取ってみる。ふと、その拍子に何かが落ちた。床を見ると、そこには写真があった。拾ってみれば、そこに写っていたのは綺麗な赤毛の女性だった。見覚えがある。この女性はきっと――。
 その時、玄関の扉が開いた。私は慌てて本と写真を元に戻し、部屋を出ようとした。が、遅かった。
「……何をしている?」
 低い声が落ちてくる。
「おかえりなさ……」
「何をしているのか聞いてるんだ」
 セブルスは怒っているようだった。全身が殺気立ち、前に私が裏切った時のように怒りに燃えていた。私は観念して正直に答えた。
「……あなたの部屋に、何か隠し物はないか探していたの」
「何のために?」
「あなたが好きな人の、何かがあるんじゃないかと思って……」
 俯いて答える。しばしの沈黙の後、セブルスは言った。
「なぜ、君はそんなにそれが気になる? 私にそんな人がいようがいまいが、君には関係ないだろう?」
「それが……関係あるんです」
 私は顔を上げて彼を見た。このことだけは、ちゃんと目を見て話したかった。
「私、あなたのことが好きになりました」
 セブルスは予想通り、驚いたように目を見開いた。
「それは……だが……なぜ?」
「なんで好きになったかなんて、私にもわかりません……ただ気づけば好きになっていました。だから、あなたに好きな人がいるのか知りたかったんです……」
 セブルスは驚きで何も言えないようだった。私は構わず言葉を続けた。
「さっき、あなたの隠していた写真を見てしまいました。あれは……リリー・エヴァンスでしょう? グリフィンドールの……ポッターと仲が悪かった理由がわかりました。私は……あなたに好きな人がいるのなら、あなたとどうにかなろうなんて思いません。ただ……私はあなたのことを好いていると知ってくれれば、それでいいんです」
「……そうか」
 セブルスはため息混じりに言った。これ以上に困らせられることはないだろうと言うような声だった。彼を困らせている自覚はあるため、怒りも湧かなかった。
「私はあの写真を見なかったことにします……あなたとも今まで通り接するので、どうかセブルスさんも私と変わらず接してください」
「……わかった」
 セブルスは頷いてくれた。これでよかったのだ。私がこの気持ちに蓋をすれば、また今までの夫婦生活に戻るのだ。そうわかったつもりでも、心は声にならない悲鳴をあげていた。それに気づいたのは、ハロウィンから少し立った夜のことだった。
 セブルスとはハロウィンの夜から会っていなかった。その間に、私は預言者新聞で例のあの人がエヴァンスとポッターの息子に滅ぼされたことや、エヴァンスが殺されたことを知り、いても立ってもいられなかった。セブルスは大丈夫なのか、アズカバンに収監されたのではないか。そう思うと家を出てすぐにでも会いに行きたくなった。ただ玄関はセブルスにしか開けられない魔法がかかっているため、こちらから開けることは出来ない。
 眠れない夜が続いたその日、セブルスは無事に帰ってきた。彼は、放心状態だった。挨拶をしても何も言わず、聞こえていないかのようにテーブルに突っ伏した。
「セ、セブルス……?」
「……リリーが死んだ」
 彼の声は聞いたこともないくらいにか細く、弱々しかった。
「私は……ダンブルドアへ助けを求めた。それでも……リリーは死んだ、死んでしまった……」
 彼はすすり泣いていた。夜中に聞こえていた声と同じような泣き声だった。私は彼が夜に泣いていた理由を悟った。彼は、エヴァンスがポッターと結婚したことに苦悩して、泣いていたのだ。
「ダンブルドアは言った。リリーの息子を守れと。アズカバンに収監されない代わりに、私はホグワーツに務めることになった……」
 セブルスは顔を上げた。その顔はいつもより痩せ細り、深い悲しみの中にいるような表情をしていた。
「君は……もう私の妻をすることはない。玄関の魔法も解除した。実家に帰っていい……」
 悲しみに暮れるセブルスを放っておくことなどできなかったし、セブルスと離婚したいとも思わなかった。私は衝動的に膝をついて、彼を抱きしめた。セブルスは少し身じろぎしたけれど、突き放すことはしなかった。
 どんな言葉も今のセブルスには届かないとわかっていたから、私はただ彼を抱きしめて、背中を摩ってあげた。大丈夫だと言い聞かせるように。

 気づいた時には、私は自室のベッドにいた。いつの間にか眠っていたらしい。起き上がって書斎へ行けば、彼は昨夜と変わらず椅子に座っていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
 泣いてはいなかった。私はほっとして、彼の向かいに座った。
「昨日は、ごめんなさい……私、寝ちゃいましたね……」
「ああ……」
 セブルスはぼんやりと答えた。彼こそ眠るべきなのに、寝なかったらしい。
「セブルスさん、私……あなたと離婚したくないです」
 セブルスはただ無感動に私を見ている。
「セブルスさんが私と離婚したいと言うなら別ですが……私はセブルスさんと共にいたいと思ってます」
「……そうか」
 彼は頭を片手で抱えた。そのまま彼は答えた。
「なら、好きにすればいい……私は君に応えられないかもしれないが」
「…………」
 私はそれでもいいと答えようとしたが、無言で目を瞑っている彼に言うのも違うような気がして、飲み込んだ。代わりにこう言った。
「私……外に出てきます」
 一人にさせた方がいい。そう思って、家を出た。食材を買う用はあったものの、すぐに帰るのも気が引けて、私は一度実家に行こうと姿くらまししようとした。その時だった。
「――ナマエかね?」
 呼ばれた声に振り向くと、銀色のローブに身を包んだ、長い髭の老人が立っていた。
「ダンブルドア先生――」
「久しぶりじゃな」
 互いに握手する。
「なぜここに?」
「君に会うために来たんじゃ。セブルスと結婚したことは知っていたからの。立ち話も何じゃ、ダイアゴンのカフェで話そう」
 二人で姿くらましをしてダイアゴン横丁へ入る。久しぶりのダイアゴンは、活気に満ち溢れていた。「奇跡の男の子!」などとハリー・ポッターを賞賛するポスターが所狭しと飾られていて、皆杖から花火や色とりどりの煙を出している。お祭り騒ぎだ。
「すごい騒ぎですね……」
「そうじゃな、それだけ鬱憤が溜まっていたんじゃろう」
 ダンブルドアが行きつけだというカフェに入り、席に着いた。
「私はコーヒーを……君は?」
「紅茶をお願いします」
 店員が去り、ダンブルドアは話を切り出した。
「……セブルスとは仲良くしてるかね?」
「ええ、まあ……今はちょっと、彼が心配ですけど……」
「そうじゃろうな……」
 運ばれてきた紅茶を飲む。ダンブルドアもコーヒーに口をつけた。
「セブルスはまだ心が不安定じゃろう……」
 ダンブルドアを前にして、私は彼に洗いざらい打ち明けたい気持ちになった。それだけの心の広さを彼は持っていた。
「……離婚してもいいと、言われました。けれど私はしたくないと言いました……セブルスさんは好きにしろと言いましたが、本当は離婚したほうが彼のためになったのでしょうか?」
「……何とも言えんが、セブルス一人になる方が彼のためにならんと思う。セブルスが不安定な今こそ、傍に君がいるべきじゃ……私はそう思う」
「…………」
 ダンブルドアの言葉に救われた気がした。私の下した判断は、私のエゴでもある。間違ったのではないかという思いは、彼の言葉で薄らいだ。
「君にはセブルスを支えて欲しい……年寄りのわがままじゃがな」
 ダンブルドアはそう言って悪戯っぽく笑った。
 それから少し世間話をしたあと、ダンブルドアと別れた。私は家に帰ることはせず、せっかく来たのだからとしばらく横丁をぼんやりと歩いた。例のあの人の死に浮かれているからか、こんなに人が多い横丁は初めて見た。外出も久しぶりだったため、あまりの人に酔ってしまった。とりあえずフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店へ避難する。
 闇魔術の本がないところに来たのは久々だった。わくわくするような魔法の本達が出迎えてくれる。本来魔法とはこうあるべきだ。恐怖や支配のために杖を振るべきではない。
 ふと目に付いたのは、魔法薬学の本だった。「人を癒やす薬の作り方」。セブルスにはこんな薬が必要なのではないだろうか。幸いお金は多く持ってきていた。私は買うことに決めた。

「ただいま帰りました……」
 玄関を開ければ、セブルスは今朝と変わらない姿で椅子に座っていた。こちらを向き、ぼんやりと「ああ」と答える。まだショックから立ち直っていないのだ。それだけエヴァンスの存在は大きかったということだ。
 私はまず食材をキッチンに片付けると、セブルスに尋ねた。
「……セブルスさん」
「なんだ?」
「ここに、薬を作るための大鍋はありますか?」
「……地下の突き当たりの部屋にある」
「使っても?」
「構わん」
 セブルスは理由も聞かず、そう言った。周りへの関心をなくしているように見えた。私は本と材料の入ったカバンを持って、地下へと下りた。
 地下は日が差さないため薄暗く、全体的にじめじめしている。私はいつもなら近づかない、突き当たりの部屋の扉を開けた。
 そこは中心に竈が置かれた、薬を作るためだけの部屋に見えた。竈の上には大きな鍋が置かれ、ユニコーンの角など材料なるものが多く棚に詰まっている。私は材料を眺めたあと、本と自分の買った材料を取り出して、薬を作り始めた。挑戦するのは最も難しいと本の中で紹介されている安らぎの水薬だ。これは五年生の時にも習った薬で、不安を鎮め、動揺を和らげる。誤った作り方をすれば飲んだ者は永遠に眠りに落ちる。
「最初は右回り……」
 材料を入れ、本の通り右回りに回す。そして左回り。正確な回数を回さなければならない。それから炎の温度を下げ、五分ほど保つ。集中していた甲斐もあり、銀色の湯気が立ちのぼってきた。完成だ。
 私はそれをゴブレットに入れ、セブルスの元へ持っていった。彼の前に置くと、セブルスは言った。
「……安らぎの水薬か」
「はい。あなたに飲んでもらいたくて……」
 セブルスは匂いを嗅いだあと、飲んでも大丈夫とわかったのか、ゴブレットを傾けた。
 空になったそれを置き、セブルスは深く深呼吸した。
「……だいぶ気分が良くなった……ありがとう」
 礼を言われるとは思っておらず、私はとっさにお辞儀することしかできなかった。
「どういたしまして……」
「どっと眠気が来たな……少し寝る」
「はい……おやすみなさい」
 セブルスは立ち上がり、自分の部屋へ歩いていった。その姿を見てほっとする。薬を作ってよかった。少しでもいつものセブルスが戻れば、また二人の暮らしが戻ってくるかもしれない。そこに私への好意はなかったとしても、私は咎めないし、ただそばにいられればいい。私はそれ以上何もいらない。セブルスの隣にいられさえすれば、それでいい。
 手に持ったトレーを強く掴む。そう、私はそれでいいのだ。

 
5
 
 
 それからゆっくりと、セブルスは立ち直っていったように思える。少なくとも私と話をする時に、何か違うことを考えているような、心ここにあらずな目をすることはなくなった。ただ、それ以外の時に遠い目をすることがあったため、まだ心配は尽きなかった。
 一緒にホグズミードへ行こうと誘ったのは、セブルスがここに帰ってきて一ヶ月が経った、クリスマスイブのことだった。このまま家に籠もっているのは、彼にとって逆効果のように思ったからだ。
「……ホグズミードか」
 セブルスはワインの入ったグラスを傾け、囁くように言った。
「……君は行きたいのか?」
「はい……あなたにとっても良い息抜きになるかと」
「では、行くか」
「えっ?」
 私はまじまじとセブルスを見た。こんなに早く承諾されるとは思っていなかった。
「……いいんですか?」
「ああ……確かに、ずっとここにいるからな。たまには外出でもしなければ」
「ありがとうございます……!」
 共に出かけるなど今までしたことがなく、喜びに胸が躍る。嬉しい。クリスマスの日に好きな人と出かけられるなんて。
「……そんなに嬉しいのか?」
 顔に表れていたのか、セブルスがこちらを困ったような顔で見ていた。
「はい……嬉しいです」
「……そうか」
 複雑そうな表情で彼はフォークを料理へ刺した。
「……悪いが、私は常に顔を隠していなければならん。ダークロード側だったからな」
 はっとする。そうだ、彼はデスイーターだった。人々はセブルスを憎み、恨んでいるだろう。
「ごめんなさい……そこまで考えてませんでした」
「いいんだ。ただ顔を隠せばいいだけだ」
 セブルスは気にする様子もなく答えた。彼はリスクを冒しても、私の意思を尊重して一緒に出かけようとしてくれている。その事実に胸がぎゅっと締め付けられた。

 クリスマスの日は、朝から雪が降っていた。私は、普段は薄くしているメイクを今日は少し濃くして、昨晩悩みに悩んで決めたコーディネートに着替えた。鏡に姿を写しながら、まるで学生のようだと苦笑する。好きな人とデートなど初めての経験だ。両親が厳しかったため、誰かと付き合ったこともない。予想通り政略結婚させられたけれど、まさかその相手とのデートに浮き足立つなんて、思ってもみなかった。
「……まだか?」
 時間がかかったからか、部屋をノックされる。「おまたせしました」と扉を開けると、セブルスの顔がなぜだか霞がかったようにぼんやりとしていた。
「……その顔は、魔法でやったんですか?」
「ああ」
「……私にだけ、その魔法を解除することはできますか?」
 どうしてもセブルスの顔が見たかった。そうお願いすれば、セブルスは杖を顔に向けて呪文を呟いた。すると靄が消え、彼の表情がわかるようになった。
「これでいいか?」
「はい……便利な魔法ですね。何かの本に書いてあったんですか?」
「……私が作った」
「えっ、作ったんですか? すごい!」
 まさか自分で作ったとは思わなかった。感嘆すると、セブルスはふいと後ろを向き玄関の方へ歩き出した。もしかして、照れているのだろうか。私はこっそり微笑んで、彼の後に続いた。
 ホグズミードはスピナーズ・エンドよりも雪が積もり、クリスマスらしく魔法で飾り付けられたもみの木が出迎えてくれた。
 その眩い光に目を瞬く。通りを歩く人々も多く、皆、例のあの人がいない初めてのクリスマスを楽しんでいた。
「綺麗ですね」
「ああ……どこへ行く?」
「とりあえず、グラドラグスで服を買いたいです。いいですか?」
「ああ。君に任せる」
 実家から持ってきた服は多くあったけれど、これから春にかけての服を買い足したかった。
 店内はたくさんの服が飾られていて、目移りしてしまう。気になったものを物色しながら、隣にいるセブルスを横目で見ると、彼はこういった洋装店にあまり入らないのか、物珍しげにあたりを見回りしていた。
「……セブルスさん、これ私に似合うと思いますか?」
 手持ち無沙汰な彼に、そう問いかけてみる。セブルスは眉根をひそめた。
「……似合わないと言ったらどうするんだ?」
「この服はやめます」
「この店のどれも君に似合わないと言ったら?」
「この店で買うのをやめます」
 即答すれば、セブルスは困ってしまったようだった。
「……じゃあ、似合うと言っておく」
 私は笑って、服をかごに入れた。困らせたいわけではないけれど、彼の反応がかわいくて、そんなことを聞いてしまう。
 欲しいものを買ったあとは三本の箒に入った。マダム・ロスメルタに私はバタービールを、セブルスは紅茶を注文し(ロスメルタはセブルスの顔を凝視していたが、やがて諦めたように去っていった)、一息つく。
「セブルスさんは、何か買いたいものはありますか?」
「いや、特にない。君はまだあるのか?」
「いえ、服だけ買えばあとは大丈夫です」
 本当はホグワーツ時代にデートスポットだった、マダム・パディフットの喫茶店に行ってみたかったが、セブルスがそのフリルで覆われた内装に困惑するのは目に見えているので言わなかった。
「そうか」
「おまたせ、バタービールと紅茶ね」
 注文したものがテーブルに置かれる。「ありがとう」と礼を言って、口をつけた。強いしょうがの香りと甘さ。あたたまる。
「……君には感謝している」
 思いがけない言葉に目を上げる。セブルスは少し照れているような、そんな表情をしていた。
「私は君に支えられた。私も君を、支えなければならないと思っている……共にいるのならば」
 言い慣れないことを言うように、セブルスはゆっくりと言った。私はその言葉に、目頭が熱くなった。セブルスは決めてくれたのだ。自分と一緒にいることを。
 堪えようとしたが、涙はこぼれてしまった。一度涙を流せば、それからは決壊したようにぽろぽろと頬をつたう。驚いた表情のセブルスがぼやけて見える。彼の顔に掛けられた魔法は解かれているのに。
「どうした――?」
「ちょっと! 何女の子泣かしてるの?」
 マダム・ロスメルタが気づいてセブルスに注意する。いつもより慌てているようなセブルスの声が面白くて、笑みがこぼれる。
「……セブルスさん」
 はっとこちらを向いた彼に、深々とお辞儀した。
「これから、よろしくお願いします……!」

 
 6
 
 
 穏やかな日々が続いた。朝昼晩、三食をテーブルで共に食べ、毎日他愛のない会話を楽しみ、時には共に出かけた。セブルスのショックは和らいだようで、時々こちらに薄く笑いかけてくれることもあった。
 私はその生活に満足していた。セブルスとの関係はこれ以上望んでいなかった。これからも、きっとこのまま生活が続いていくのだと思っていた。
 その関係性が変わったのは、ほんの些細なことがきっかけだった。三月の終わりのある日に、私は風邪をひいた。
「これを飲んでくれ」
 渡されたゴブレットには、セブルスが作った風邪薬が入っていた。私は礼を言って薬を飲んだ。途端、さっと頭と喉の痛みが消え、私は驚いた。こんなに効く風邪薬を飲んだのは初めてだった。
「すごい……熱が一気に下がった気がします」
「私が煎じたからな……喉はどうだ?」
「痛みはなくなりました、ありがとうございます」
 セブルスは満足気に頷いた。そのままゴブレットを片付けるため部屋を出るかと思えば、彼は私のいるベッドの端に腰を下ろした。
「セブルスさん……?」
「……ナマエ」
 初めて名前を呼ばれた。私はどきりとして、セブルスを見つめる。彼は真剣な表情をしていた。何か、大切なことを言われる予感がして背筋が伸びた。
「私は、開心術が使える」
「えっ……はい……」
「君には悪いが、度々君の心を見ることもあった」
「はい……」
「君が本当に私を好いてくれているのかを確かめるために……結果は、君が一番よくわかっているだろう」
 私は頷いた。セブルスは続ける。
「これほど誰かに好かれたのは初めてだった。私は困惑したが、受け入れることにした……そうして過ごすうちに、私の中で変化が生まれた」
 まさか、と思った。
「……私は君に惹かれ始めている」
 これは夢なのではないか。何度となく見てきた、理想の夢。けれど違うとわかる。彼の輪郭が、毛布越しに伝わってくる。
「……もちろん、リリーを忘れる事はできない。できないが、君に惹かれていることも否定できない。最初は認めたくなかった。だが私は自分の気持ちにも、君にも、嘘をつきたくない」
 セブルスはそう言って、こちらに近づいた。ほんの少し手を伸ばせば触れ合える距離。
「ナマエ……君が好きだ」
 彼の目に囚われてしまったように、身動きできない。より近づく距離。彼の黒い瞳に動揺する私の姿が映っている。私は目を閉じた。心の準備はできていた。そして――唇に、柔らかい感触が落とされた。
 リップ音とともに唇が離れる。恥ずかしさに顔が熱くなる。風邪の熱とは明らかに違う熱。
「……キス、初めてしました……」
「……私もだ」
 気恥ずかしさを誤魔化すように互いに笑い合う。夢のようだけれど夢ではない。熱を持った頬も彼の目も、現実にある。それが何より嬉しい。
「……改めて、これからもよろしく頼む」
「こちらこそ……」
 これからきっと困難もあるだろう。けれど通じあった二人なら乗り越えられると、私は信じている。なぜなら愛は、どんな魔法よりも強く、美しいから。

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