※バレンタインいぬべ
俺はあなたの犬です。そう長谷部は常々言っていた。その言葉通り彼は犬のように従順に私に尽くしてくれていたし、その働きぶりはまさに狩猟犬、私に媚びる態度はまさに「愛玩動物」と呼ぶに相応しい。まさに犬。どこからどう見ても犬。彼に耳と尻尾が生えていない事が逆に不思議に思えるほどだった。
だがしかし、いくら「長谷部に耳と尻尾が生えていないのが不思議」だと思っていたとしても、本当に生えてほしいと思った事はなかった。まさか生える日が来るなんて。
いや、ていうかおかしいでしょ。何で耳と尻尾が生えてるの。おかしいのはこの世界か? それとも私の頭か? 分からない。
「主……俺はどうしたら……」
しゅん、と生えた耳を伏せながらそう言った長谷部は、見るからに「困っています」と言いたげな様子だった。耳と尻尾のせいで感情を隠し切れていない。普段なら隠していたであろう不安も焦燥も、すべてその生えてしまった耳と尻尾が如実に表してしまっている。それはそれで可愛く見えない事もないけれど、問題はそこじゃない。
「う〜ん……こんのすけは『原因が分からない以上、様子見しておいてください』って言ってたけど……」
「他の連中はこんな事になっていないのに……どうして俺だけ……」
犬を自称していたのは長谷部だけだったから、というのは関係のない事だろうか。まぁそれが関係していたとしても、生えてしまった以上もうどうする事もできない。から、とりあえずは黙っていよう。こんのすけから何か打開策を提案されるまでは、私たちには待つ事しかできないのだ。最悪の場合、この耳と尻尾と一生付き合っていくしかない。
「長谷部」
「? はい」
「おて」
そう言って右手を出せば、私の手のひらの上に長谷部の左手がぽん、と置かれる。そして、はっとしたような表情を浮かべた長谷部は見る見るうちに顔を赤く染め上げた。
「あっ、主……!? そのように遊んでいる場合では……ッ!」
「いや、ごめん……。そんな素直にやってくれると思ってなかった……」
長谷部のこの反応を見る限り、条件反射でやってしまった事だったのだろう。見た目が犬になれば心も犬に近付いてしまうのだろうか。
長谷部には申し訳ないが、この反応はかなり可愛い。すごく、からかいたくなる。
笑いを堪えるのに必死で、ふるふると身体を震わせる私を長谷部は真っ赤な顔で睨んでいる。ああ、可愛い。本当に可愛い。
「ふっ、ふふ……。長谷部、本当にワンちゃんなんだね……」
「主! からかうのも大概にしてください!」
「え〜、そんなに怒らないでよ」
わしゃわしゃと両手で長谷部の頭を撫でると、また彼は「主!」と咎めるような声を上げた。しかし、その尻尾はブンブンと忙しなく振られていて、口で言うほど長谷部は怒ってんかいないのだと一目で分かる。
本当は嬉しいくせに、素直じゃないな! そんな風に思いながら長谷部の頭を撫で続ける。彼の尻尾は相変わらずブンブンと振られていた。
そうしていると、ふいに両手首を長谷部にがしりと掴まれる。ぐぐぐ、と力を込められ、長谷部の頭を撫でていた手を無理やりに引き剥がされる。
「は、長谷部……?」
「からかうのも大概にしてください、と俺は言いましたよね……? 主が犬扱いを止めないのでしたら俺にも考えがあります」
「えっ、な、何するつもり……!?」
そのまま重心を後ろに倒され、視界には見慣れた天井と耳の生えた長谷部の顔だけになる。簡単に言えば押し倒された。舌舐めずりをした長谷部の口には、八重歯と呼ぶにはあまりにも鋭すぎる犬歯が生えている。愛玩動物と侮ったのが間違いだったかもしれない、とわずかに後悔する程度に、長谷部のそれは獣のものと同じだった。
「は、長谷部……!? 何するつもり? ステイ、ステイ!!」
「どうもしませんよ。ただ犬なりの愛情表現でもしようと思いまして」
「ど、どういう……ひぇッ!?」
べろり。そんな効果音がなりそうな勢いで長谷部は私の首筋を舐め上げた。
「まっ、まだ昼間でしょ!? 盛るのは早……ひっ、うぅ……ッ」
「サカる? まさか。犬の愛情表現は舐める事ですよ」
「ちょっ、や、やめて……ッ!」
「ワンワン。俺は主をお慕いしています」
長谷部のその言葉にはまったく気持ちがこもっているように聞こえない! 完全に私をからかって遊んでいる。忠臣キャラはどこに行ったんだ。そんなツッコミを入れたい所だが、首筋を舐め上げる生温かい舌の感触とぬめる唾液、それから肌にわずかに当たる犬歯の感触に何も言葉が出なくなる。
「はっ、長谷部……! 私が悪かった、からぁ……ッ!」
「……? いつもより甘い香りがしますね」
首筋を舐め上げるのを止め、長谷部はスン、と鼻を鳴らした。
私の言葉を丸っと無視した事はこの際水に流すとして、長谷部の言ったその言葉は私にとって助け舟になりえるものだった。この愛情表現という名の意趣返しから逃れられるチャンスになるかもしれない。
「そ、そうなの! 実はバレンタインだからチョコを作ってて……」
「ああ、だから甘い香りがするんですね」
「犬になっちゃったから嗅覚も鋭くなってるのかな? 長谷部の分、ちゃんと用意してあるんだよ。それ、食べよ?」
だからちょっと退いて、そう言っても長谷部は私の上から退こうとはしなかった。何故だ。今さらバレンタインの意味が分からないなんて言い出すほど長谷部も馬鹿じゃない。普段だったら「主からチョコをいただけるなんて……!」と感動してもおかしくないはずなのに。
「は、長谷部……? あの、チョコ……食べないの?」
「……俺はいま、犬じゃないですか」
「え? ああ、うん。そうだね……?」
「ご存知ですか? 犬にとってチョコレートは劇薬なのだそうですよ」
ああ、なるほど。つまりいまの長谷部にとってもチョコは毒かもしれない、と言いたいのか。確かに安全の保証のない冒険は避けるべきだろう。いまはチョコは食べず、この原因不明の異常現象が治ってから食べたほうが安心に違いない。
その言い分は分かる。よぉく理解できる。だが、どうして長谷部がいまなおニヤニヤとした笑顔を浮かべて私を見下ろしているのかは全くもって分からない。
「俺のためにチョコレートを用意してくださった、という主からのお気持ちだけで十分です。犬になってしまったいま、下手に食べて主をお守りできなくなっても困りますからね」
ですから今年は逆チョコ、とまでは行かずとも俺からの気持ちを受け取ってください。そう言って長谷部はふたたび私を舐め出した。
「ひっ、は、長谷部!? や……ッ、うぅ……ッ!」
唇を舐め、閉じた唇の隙間から舌をねじ込もうとする様なんて普段行おうとしているキスとなんら変わりないじゃないか! のしかかられているが故に密着した身体の、下半身をぐり、と押し付けられて私の焦りはより強くなる。盛ってない、なんてやっぱり嘘じゃないか!
「先ほども言いましたように、犬の愛情表現は『舐める』事です。俺からの気持ち、しっかり受け取ってくださいね」
視界の端にはブンブンと忙しなく振られている長谷部の尻尾がある。振られる尻尾と頭に生えた耳だけを見たら彼は可愛らしい犬なのに、そう言った長谷部のギラついた瞳には可愛らしい犬の面影なんてなかった。
狼のような、恐ろしい獣が舌舐めずりをひとつしていた。