滅多に人の寄り付かない、広間から離れた一室。物置としてすら使われていないこの空き部屋は少しだけ埃臭さが残っていた。そんな部屋の隅で彼――大倶利伽羅は瞳を閉じて壁にもたれかかっていた。こんな所で何をしているの、と声をかけようと思ったが、もしかしたら大倶利伽羅は寝ているのかもしれない、そう思い直し、息を殺してそっと彼に近付く。彼の真横にしゃがみ込んで耳を澄ますと、かすかにすう、と規則正しい寝息が聞こえてきた。

(大倶利伽羅が寝てる……)

 珍しいこの状況に感動すら覚えた。勘の鋭い大倶利伽羅が近付く人物に気付かず、寝姿をさらすなんて事、きっと年に一度あるかないかの大事件なのではないだろうか。そして、大倶利伽羅も昼寝なんてするのか、と少しだけ驚いた。

 こんなチャンスもう二度と来ないかもしれない、そう思って寝ている大倶利伽羅の顔をまじまじと見つめる。男らしく通った鼻筋に下がり気味の眉。顔にかかった癖のある髪の毛はふわふわと柔らかそうに見えた。男であるにも関わらず、長い彼のまつ毛は下まぶたに影を落とすほどで、ほんの少しだけ女としてのプライドが傷ついた。何もしなくてもこんなにも整った顔をした大倶利伽羅は、私のようなちんちくりんな小娘に興味なんてないかもしれない。私はこんなにも彼の事が好きなのに。彼は私を好きになってはくれないのかもしれない。そう思うと、じわりと目頭が熱くなる。鼻にツンとした痛みが走って、今にも泣きそうだった。

「大倶利伽羅……」

 そう一言彼の名を呟けば、好き、という感情が噴水のように湧き上がる。大倶利伽羅が私を好きになってくれなくてもいい。友達としてでもいいから、一分一秒でも長く傍にいさせてほしい。いや、やっぱり友達として、では耐えられない。少しでいいから女として見てほしい。せめて、せめて少しだけでも触れたい。
 大倶利伽羅の手をとると、皮の手袋越しでもじわりと温かい彼の体温を感じた。私よりも一回りも二回りも大きい、男の人の手。大倶利伽羅の手に触れている、そう思うだけで心臓は大きく脈打つ。耳の真横に心臓があるのではないか、と思ってしまうほどに、それはドキドキとうるさく鳴っていた。
 彼の手を持ち上げて、そっと自分の頬に当てる。押し当てた彼の手のひらに頬を擦り付けると、何だか恋人同士になれたような気がした。きっと大倶利伽羅と付き合っても、彼はこんな触れ合いはしてくれないかもしれない。光忠ならこういう事をしてくれるかもしれないけれど、きっと大倶利伽羅は淡泊な付き合い方しかしてくれないだろう。だからこれは、彼が寝ているからこそできる仮初めの睦み事だ。

「好き、大倶利伽羅、好き……」

 そう口に出してしまえば、もう歯止めはきかなかった。いや、彼の手に触れた瞬間から、もうすでに私の理性はなくなっていたのかもしれない。――彼に触れられたい。朝も夜も、ずっとそう思っていた。男の人とろくに付き合ってこなかった私が、こんなにもはしたない事ばかりを考えるようになってしまった。初めて持つこの感情を、どう処理していいのか分からない。ただただ、大倶利伽羅の事が好き、という気持ちでいっぱいだった。
 頬に当てていた手をするりと滑らせ、自分の胸元に持っていく。彼の手が私の胸にある、そう思うだけで顔に熱が集まる。あまりの緊張に溜まった涙は視界を歪ませた。――口から心臓が飛び出て死んでしまう! そう思う反面、もっとしてほしい、という気持ちも確かに私の中に存在していた。
 もっと強く触って、そう思った瞬間に、おい、と聞こえてきた声に身体がびくりと跳ねる。

「俺が黙っていれば、あんたは何をしているんだ」

「おっ、おお、くりから……!? お、起きてたの!?」

「ああ」

「い、いつ……いつから……!?」

「………………あんたが部屋に入ってきた時から」

「…………ッ!」

 それはつまり、初めからではないか! 私が彼の寝顔(だと思っていたもの)をまじまじと見つめていた事も、長いまつ毛にショックを受けていた事も、彼の手に触れた事も、すべて知られていた! いや、それよりも、私は彼の手に触れながら何を口走っていた!? 好き、と、溢れ出る思いをそのまま口に出してはいなかっただろうか!

「あっ、ご、ごめ、なさ……! わ、忘れて!!」

 いっそ死んでしまいたい。これまで生きてきた中で、これほどまでに死を望んだ瞬間があっただろうか。先ほどまではあんなにも彼の傍にいたい、と思っていたのに、今は一秒でも早くこの場を離れたかった。耐えられない、恥ずかしい、死にたい!
 自分至上最速の速さで立ち上がろうとした私の手首を、今度は大倶利伽羅が掴む。ぐい、と引っ張られ、中途半端に立ち上がろうとしていた体勢がべしゃりと崩れ落ちる。

「どこに行くつもりだ」

「………………」

 そう問うた大倶利伽羅の顔は見られない。ちらりと見えた彼の目は真剣そのもので、それを見てしまえば、きっと私はその目に射抜かれて死ぬだろう、と思った。先ほどの行為を知られてしまった気まずさも、彼の顔を見られない要因のひとつなのだが。

「………………」

「あそこまでされて黙っているほど俺も馬鹿じゃない」

「………………」

「責任はとってもらうぞ」

「……え?」

 てっきり何を考えている、と幻滅され、怒られるものだとばかり思っていた。驚いて顔を上げると、獣のようにぎらついた彼の瞳と目が合った。大倶利伽羅に、石のように動かなくなった私の身体を押され、視界がぐるりと反転する。視界には木目の天井と彼の顔。彼に掴まれた両の手首はびくともしなかった。

  これから起こるであろう出来事を想像して心臓が早鐘を打つ。胸は期待に膨らむが、それでも心のどこかでは不安を感じていた。はっ、と、反転する視界の端に捕らえた景色を思い出す。

「ま、まって、部屋の障子が……」

 開いている。そう私が言い切る前に、ここに誰も来ないのは俺が知っている、そう言った彼によって口をふさがれた。
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