「…………ぐぇ」

 咳をした拍子に潰れた蛙のような声が出た。身体がだるい。視界はぐわんぐわんと揺れていて、指のひとつを動かすのも億劫だった。
 端的に言うと、風邪をひいた。滅多に出さない高熱を出していまい、絶賛療養中である。視界に映る木目の天井の染みが顔に見え、挙句の果てにはその顔がぐにゃぐにゃと笑い出したように見えた。私がこんなにも熱で苦しんでいるのに笑いやがって、と木目の天井に意味のない殺意が湧く。――こうやって幻覚が見え始めるから熱は出したくないんだよなぁ。

「……主、具合はいかがですか?」

「………………はせべ」

 心配そうに部屋の外から声をかけてきたのは、現在の近侍である長谷部だった。失礼します、と断ってから、音もなく入室してきた彼はすとん、と私の布団のすぐ横へと正座する。

「リンゴを剥いたのですが、食欲はありますか?」

 そう言った彼の手には、食べやすいように切られたリンゴの乗った皿とタオルがあった。長谷部には悪いが、正直なところ食欲なんてありはしなかった。朝から何も食べてはいないはずなのに、不思議とお腹が減ったようには感じない。むしろ、食べたくないと思うほど。
 しかし、せっかく長谷部がリンゴを剥いてくれたのだ。食欲がないからと何も食べないのも、きっと身体に悪い。そう思い身体を起こすと、ふらりと眩暈がした。頭が痛い。ぐるぐると視界が揺れているような気がする。気を抜いたら頭から倒れ込んでしまいそうだ。
 かすれた視界で長谷部のほうを見ると、彼は爪楊枝に刺さったリンゴを差し出しながら私を見ていた。

「主、あーん」

「…………………………」

 自分で食べられる、そう伝えるだけの体力も残っていない。ふわふわしている頭では正常な判断ができなければ、羞恥心と言うものも消え失せてしまうようだ。
 差し出されたそれをひとくち食べると、口の中でシャリ、と音がなった。シャリシャリと音を立ててリンゴは噛み潰されていく。食感はいつもと同じなはずなのに、不思議と味は感じなかった。味のしない物を噛み続ける違和感。――少しも美味しくない。

「主、もうひとついかがですか?」

「ん……、もういい、だいじょうぶ」

「ですが……」

 眉を下げて心配そうな表情を浮かべた長谷部に、どうせ寝ているだけなのだから大丈夫、と、痛む喉に鞭打って伝える。高熱に体力を奪われても、活動するわけではないから大丈夫。一食二食抜いたところで変わらない。そう伝えれば、やや不服そうにしながらも長谷部は引き下がる。

「まあ、寝ているだけと言われればそうですが、それでは身体が持たないのでは……いえ、主がそう仰るのならば無理にとは言いませんが」

 熱を出して働かない頭でも、勘と言うものは働くようだった。長谷部のその物言いにピンとくるものがあった。何となく、嫌な予感がする。長谷部の突拍子もない過去の行いを考えると、この想像は当たっているような気がする。たぶん、恐らく、この想像は現実のものとなる気がする。

「長谷部、まさかとは思うけど……」

「はい?」

「いかがわしい事をしようとか考えてないよね?」

「……汗をかくと熱が下がるそうですよ。前の主の部屋にあった書物で勉強しました!」

 パアッ、という効果音が似合いそうなほどの輝かしい笑顔でそう答えた長谷部に、くらりと眩暈がした。やっぱりそう言うと思った! 絶対にこういう展開になると読めていた事ではあるが、いざ言われると存外ダメージがでかい。熱でふわふわとしている頭では、どう怒ったらいいのかも浮かばない。代わりに出るのはため息だけだった。
 長谷部をあの男の審神者から譲り受けてそろそろ一年が経つ。それなのに、まだこんな事を言うのかこいつは。前の主がおかしい事くらい分かってもいいはずだ。世間一般の「常識」が何となくでも理解できていい頃だと思う。いや、頭の良い長谷部の事だ、それくらい理解できているはず。分からないわけがない。遠征も出陣も、何の問題もなく遂行させている長谷部が、これを察せないはずがない。この知識が間違っていると分かっていてもいいはずだ!

「長谷部」

「はい」

「その知識が間違ってるって本当は分かってるよね?」

「………………」

「長谷部?」

「……た、ただ俺が主とそういう事がしたいと思っているからではありません! ね、熱を出した際には汗をかくのが良いと! 確かにそう書いてあったんです!」

 大声で反論する長谷部の声が頭に響いた。顔を真っ赤に染めて「違うんです、違うんです!!」と長谷部は必死になって否定しようとしているが、その行動は逆効果なような気がする。反論しようとすればするほど、長谷部の言い分は信用を失っていく。
 とりあえず、長谷部とこのまま同じ部屋にいるのは危ない気がする。そう思い、痛む喉から声を絞り出して初期刀を呼べば、彼はすぐさまやって来てくれる。そして長谷部の頭に手刀をひとつ落とし、長谷部を連れて部屋を出て行った。「あとで飲み物を持ってくるから待っていて」と去り際に言ってくれた初期刀の優しさが心に沁みる。彼が近侍を務めていた頃の穏やかな日々が恋しくなってきたのは、熱で心が弱っているせいなのだろうか――。
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