ぐじゅ、と濡れた土を踏みしめる。土の感触を靴越しに感じ、その柔らかさに足をとられそうになる。よろけそうになるたびに横を歩く長谷部がこちらへ手を差し出してくれるので、転ぶ心配はないのが救いだろう。ぬかるんだ土へ飛び込むのはさすがにいやだ。息を大きく吸えば、湿った空気の独特なにおいがする。肺いっぱいに広がる空気は少しひんやりとしていて気持ちが良かった。視界は立ち込める霧のせいで広々とはしていなかったが、その景色でさえもとても美しい。徐々に濃紺から青へと変わっていく視界に、夜が明けるのが早くなったな、とぼんやりと思った。

「この世のなごり、夜もなごり。死ににゆく身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足ずつに消えていく……」

「どうしたんですか、主らしくない物言いですね」

「あれ、知らない? 曽根崎心中って有名だけど」

「…………申し訳ありません」

「いいよ謝らないで。そうだよね、長谷部が活躍していた時代より後にできた作品だもんね。知らなくても仕方ないよ」

 本当に申し訳なさそうに眉を下げる長谷部の顔を見て、言わなければ良かったかな、と少しだけ後悔した。しかし、いまの自分にぴったり合う表現はこれしかないとも思うのだ。この世の最後、夜も最後。死にゆくこの身は墓地の霜。一歩進むごとに消えていくような儚い存在でしかない――。
数いる審神者の中の一人である私など、霜も同然だ。消えたとて何の問題もないし、替わりなどいくらでもいる。

「……主、寒くはありませんか?」

 そっと私の肩を抱き寄せながら長谷部は問う。長谷部と触れ合う部分がじんわりと温かくなって安心する。冷たい空気と柔らかい土、そして感じる長谷部の体温。私はなんて幸せなのだろう。

「長谷部はあったかいね」

「ありがとうございます」

「…………ずっと一緒にいたいね」

「ええ、俺はずっと主のお側におりますよ」

 ぐっと私の肩を抱く長谷部の腕の力が強くなる。その仕草ひとつでさえも愛おしい。私の大切な近侍。私の愛しいひと。いまこの時が永遠に続けば良いのに、そう祈ったところでそれは叶うはずもないのだけれど。

「……駄目な主でごめんね」

「そんな事ありませんよ。主は頑張ってくださいました」

「でも私、審神者を辞めさせられちゃうんだよ?」

「主のお心を理解できない連中が悪いのです。俺を受け入れて愛してくださった、それだけで俺は幸せですから」

「…………ごめんね」

「いえ、謝るのは俺の方です。あなたにはご自分の生まれた地へ戻るという選択肢もあったはずなのに、俺があなたと添い遂げたいと願ったばかりに……」

 長谷部の言うとおり、審神者を辞めさせられたあとは元の世界に帰って新たな人生を始める選択肢もあった。でも、それでも私は長谷部と共に在りたかった。審神者を辞めろと上から通達が来たその日に、震える声で「もとの世界へ帰ってしまうくらいなら、俺と一緒に死んでください」と紡がれた長谷部のその願いを断るなどありえなかった。今日この日、私は長谷部と共に命を絶つ。魂の在り処をひとつにして、来世こそはと願うばかり。



 しばらく獣道を歩けば急に視界の開けたところへと出る。地平線を望めるこの景色は絶景と呼ぶにふさわしい。昇る朝日はきらきらと眩しく光っていて、私たちを白く染め上げる。

「ねえ見て長谷部! 日の出だよ、朝日だよ! 綺麗だね」

 そうですね、と柔らかい微笑みを返してくれる長谷部は朝日に照らされていてとても美しく、こちらへ来たばかりの頃と比べ物にならないほどに柔らかい表情を浮かべるようになったと思った。初めの頃の形だけの忠誠ではなく、きちんと心を通い合わせたうえでこんな私にずっと尽くしてきてくれて、本当に嬉しい。

「では主、そろそろいきましょうか」

「…………うん。そうだね」

「これで、あなたは俺だけのものですね。死んでも絶対に離しませんよ」

「……うん。ずっと一緒にいてね」

 お互いの存在を確かめるように強く強く手を握り合う。来世では何のしがらみもなく結ばれますように、と祈りながら。そして、私たちはふわりと宙を舞った――。
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