「俺にとっては、主がどんな人間であろうともどうでも良い事なのです」

 長谷部の口から紡がれたその言葉に鈍器で頭を殴られたような衝撃をうけて目の前が一瞬真っ暗になる。心臓がどくどくと早鐘を打っているにもかかわらず、指先は異様な程に冷たくなっていく。動揺を悟られまいと震えを抑えて「そう、なんだ」と呟けば長谷部はにっこりと微笑む。

「貴女だから良いのです。貴女の命であれば、どんな事でもしてみせます」

 ああ、嘘ばっかり。とってつけたように紡がれる言葉はどうにも嘘臭く感じられた。やはり長谷部は私を主として認めていないのだろう。事あるごとに長谷部の口から語られる『前の主』の話。言葉の端々から感じられる彼への未練。長谷部の認める主は彼だけで、それ以外の人物はどうでも良いという事なのだろう。私は長谷部をこんなにも大切にしているのに。長谷部の主たる人物になろうと努力しているのに、長谷部は私を主として認めてはくれない。じわりと視界がにじむ。このまま黙っていては泣いてしまう、何か話さなければ、そう思えば思うほど頭はこんがらがって何を言えば良いのか分からなくなる。「何かする事はありますか?」と、沈黙を破る長谷部の言葉にこれ幸いとばかりに適当な用事を考える。

「あ、じゃあ……馬小屋の様子を見に行ってもらおうかな」

「…………馬小屋、ですか」

「いやだった?」

「いえ、主命とあらば」

 なんとなくいやそうな長谷部の声音。こんな命令しかできなくてごめんなさい。こんな主でごめんなさい。長谷部が部屋から出て行ったのを見届け、私はそっと涙を流した。

 私は貴方の事が好き。この想いが報われずともせめて主として認められたい、そう願うのはいけない事なのだろうか。



***



「俺にとっては、主がどんな人間であろうともどうでも良い事なのです」

 俺は主を愛している、その想いから出たそれは紛れもない本心であった。誰にでも分け隔てなくお優しい主だからこそ愛してしまった、その事実は覆せない。しかし、いまでは主がどんな人間であろうとも愛する自信がある。人畜無害そうな顔の裏にもしも暴君の心があったとしたら、俺を酷使して酷使して、一歩も動けなくなるくらいまで使い潰してほしい。もしも刀剣に夜伽をさせるような色好みな人間だったとしたら、俺はその精尽き果てるまで何日でも何回でも主の相手をしよう。
「そう、なんだ」と震える声で言葉を紡いだ主を見てはっとする。ああ、あの言葉だけでは語弊があるな。

「貴女だから良いのです。貴女の命であれば、どんな事でもしてみせます」

 主が不安に感じないように笑顔を作る。『主』なら誰でも良いわけじゃない、『貴女』ならばどんな内面でも良いというだけなのだ。しかし主の顔は依然として晴れなくて不安になる。卑しい心根が主に伝わってしまったのだろうか。やはりあんな事言わなければ良かった。訪れた沈黙に耐え切れなくて、「何かする事はありますか?」と主に問う。

「あ、じゃあ……馬小屋の様子を見に行ってもらおうかな」

「…………馬小屋、ですか」

「いやだった?」

「いえ、主命とあらば」

──いっその事、夜伽を命じてくれたら良かったのに。そう思ったら反応が少し遅れてしまった。結局のところは主と共寝をしたいだけ、その願望を叶えるために主が酷い人間だったら良いと願うだなんてなんと愚かな事だろう。こんな風にしか考えられない自分が恥ずかしい。これ以上主と顔を合わせてはならないような気がして、「失礼します」と一声掛けて早々に主の部屋を後にする。

 俺は主を愛している。この想いがいつか報われたら良いのに、そう願うのは罪なのだろうか。
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