ヒュッと風を切る音がしたーー。
それからバシンという音がして、左の頬が熱を持ち始める。鈍い痛みを訴える頬に顔が歪む。痛む頬を掌で抑えたい所だが、後ろ手に拘束されているためそれは叶わない。耐え難い痛みに、チクショウ、と吐き捨てるように言った。男はぴくりと眉を動かし、侮蔑を含んだ目で私を睨む。
「そんな口を聞くのか」
底冷えするような声だった。冷たい目で見下ろされている事も相まって気圧されそうになる。すっと男の腕が伸び、頬を掴まれる。先ほど打たれた左頬に爪を立てるように掴まれ新たな痛みが私を襲った。ジンジンと痛みを訴える頬に思わず涙が滲む。しかし泣いてはいけない。そんな事しては相手の思うツボだ。
「貴女の生殺与奪を握っているのはこの俺だと忘れたのか?」
眼前の男、長谷部は私に顔を近付けそう言った。目を合わせたくなくて顔を逸らそうとすれば、私の頬を掴む長谷部の手に力が込められる。骨がミシミシと音を立ててしまいそうな程に力を込められ、その痛みから逃れたくて仕方なく長谷部の方へ顔を向ければ頬を掴むその手の力は緩まった。しかし、そのせいで合わせたくなかった長谷部の藤色の目と視線が合ってしまう。
「何故、俺を置いていった」
咎めるような目でこちらを見つめながら長谷部は問うた。──違う、長谷部を置いていったわけじゃない。私は審神者という肩書きも、従ってくれていた刀剣も、あの本丸ごと全てを捨てたんだ。何十人もの刀剣の上に立って歴史を守るだなんて始めから無理だった。主、主と慕ってくれるのは純粋に嬉しかったが、次第にそれすら重荷になった。
──だから私は、審神者を辞めた。
審神者を辞めてどのくらい経っただろうか。一度関わってしまった身なので政府との繋がりを完全に断ち切る事はできなかったが、もうあの本丸へは少しも近付いてない。新しい審神者に全てを引き継いで第二の人生を歩んでいた、はずだった。
*
今日だって審神者を辞めてから始めた仕事を終えていつものように家に帰ってきた。晩御飯は冷蔵庫に残ってる食材で適当に作ろう、そう思いながら暗い部屋の電気を点ける。すると「おかえりなさいませ」と聞こえるはずのない声が聞こえ呼吸が一瞬止まった。声のした方向を見やると、そこには虚ろな目をした長谷部が立っていた。ここにいてはまずい、そう本能的に感じて逃げようと、手に持っていた鞄や上着などを投げ捨て一心不乱に今きた玄関へと戻ろうとする。
逃げても無駄だ、そう叫んだ長谷部に髪を掴まれ引き倒される。ブチリと嫌な音を立てて髪の毛が何本か抜けた。頭皮に走る痛みを気にするよりも、長谷部から逃げなくては、そう思い必死に抵抗する。しかし力では勝てず、チッと舌打ちした長谷部がどこからか取り出した紐で後ろ手に拘束される。本丸では決して私に見せる事のなかった荒々しい長谷部の言動に恐怖を感じた。
*
「何故、俺を置いていった」
長谷部はそう再度問うた。
「わ、わたしに、審神者なんて大役、できなかった……」
震える声で言葉を紡ぐ私を冷ややかな目で見下ろす長谷部の感情が読めない。
「そんな理由で、俺を新しい審神者だとか名乗る輩に下げ渡したのか?」
「そ、そんなつもりじゃ……ッ! ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「…………許さない」
バシン、また左頬を張られる。今度は口腔にじわりと鉄の味が滲むのを感じ、口の中を切った事を悟る。痛みと恐怖でついに涙腺が決壊した。泣きじゃくりながら長谷部に謝り、許しを請う。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! な、何でもするから許して……」
「…………何でも?」
「え……?」
「何でもすると言ったな?」
そう確認するように問うた長谷部は、私が口を開く前に私の服へと手をかけた。服が音を立てて引き裂かれていく。このあと私の身に降りかかるであろう行為を想像して、その恐怖で心臓が冷たくなっていくのを感じる。
「なら俺とまぐわう事くらい容易いな?」
「……ッ! そ、それで、許してくれる、なら…………」
「俺の主はそんなに淫乱な人間だったのか」
「ちが……あっ、ご、ごめんなさ、ごめんなさい……!」
思わず否定しようとしたら長谷部の目付きが鋭くなってしまい、慌てて謝る。下手に抵抗してこれ以上酷い扱いを受けるのはごめんだ。どんなに私の名誉や自尊心を傷付けるような事を言われても、受け入れなければ。
「この行為で貴女を孕ます。」
「ひっ…………!」
「そうしたら、貴女は俺の物になるな。あのとき俺は貴女の物だった。今度は貴女が俺の物になるんだ。」
恍惚とした表情で言われ寒気がする。この一度の行為で終わると思えば耐えられるが、まさかこの先もずっと続くのだろうか。長谷部にそんなに執着されていただなんて知らなかった。
「今さら抵抗したってもう無駄だ。これから貴女は俺の物になる。……これからは、"主"としてではなく、他でもない"貴女"をたっぷり愛してあげますから」
いつの間にか敬語に戻った長谷部に、このまま前のように優しい長谷部に戻ってくれないだろうかと一瞬思った。しかし長谷部の目はギラギラとした獣のようで、ああ私はもう一生逃げられないな、そう悟ってまた涙が滲んだ。