すきでいさせてほしい


「荷物持つよ。貸して」
「え、あ……ありがとう」

 携帯電話と折りたたみ財布の二つくらいしか入らなさそうな小さいバッグは、ココくんの手には似合わないと思った。しかしココくんは私からそのバッグを受け取ると、満足そうに私の目を見つめながらにっこりと微笑んだ。その顔はとても優しい。まるで私のことが愛おしくて堪らないとでも言うような表情だ。

 ――いつからこんなことになってしまったのか。

 少し前までのココくんは私に対して冷たかったはずだ。私には少しも興味なんてなくて、ココくんは私のことを鬱陶しい虫くらいにしか思っていなかったはず。でも、私はそれが心地良かった。私に興味のない男性というものは安心する。下心を見せてこないし、私に何も求めてこない。私がその人に興味を失えば、その瞬間に終わってしまう関係。その一方的な関係が私にとっては心地良かった。
 期待されても苦しいだけ。求められても面倒臭いだけ。誰も私に期待しないでほしい。私のことなんて放っておいてほしい。だから、私はココくんのことが好きだった。鬱陶しそうに私をあしらうココくんが好きだった。彼は私にカケラも興味がない。だから私は安心して彼に近付くことができた。一方的に好きだと言うことができた。――それなのに。

 ココくんの態度がだんだんと軟化していくことに気付いた時点で、私は彼に近付くのをやめておけば良かったのだろうか。きっと、ココくんは何度あしらっても近付いてくる私に絆されてしまった。

 最初のうちは私の言葉に返事をしてくれるようになっただけ。私とココくんの間にぽつぽつと会話が生まれ、他愛のない話をするようになった。会話を繰り返すうち、ココくんの口調が少しずつ柔らかくなり始めたことには気付いていた。だが、私は「柔らかい口調のほうが素なのかな」なんて楽観的に考えていた。
 会話が増えれば、一緒にいる時間も増える。日が落ちて辺りが暗くなる時間まで一緒にいるようになった頃には、ココくんは私に「家まで送ろうか」なんて提案をするまでになった。たった一回、気まぐれの提案だと思って、私はそれを受け入れた。まさかそれが毎回のことになるなんて。そんなこと私は少しも思っていなかった。

 家まで送ってもらうようになり、次は休日にお互い時間を取って会うようになる。何度か出掛けるような関係になれば、その次に進むのは早い。私はココくんに告白された。
 正直、私はそれがとても悲しく、残念で、どうしようもなく虚しい気持ちになってしまった。ココくんには私のことなんて好きにならないでほしかった。ずっと私のことを無碍に扱っていてほしかった。なのに、それなのに。現実はあまりにも非情だ。ココくんは私のことを好きになってしまった。他の男たちと同じように。

 最初に好きだと言い始めたのは私のほうだ。ココくんはそんな私に応えただけ。だから、私はココくんを振るべきではない。私の気持ちに応えてくれただけの彼を拒否することは、どうしようもなく非常識で、身勝手で、残酷な行為である。それは私でも分かっていた。だから、本当は嫌だったけど、付き合いたくなんてなかったけれど、私はココくんの告白を受け入れた。
 私がそれを受け入れたときのココくんの表情は今でも鮮明に覚えている。彼は頬をわずかに赤く染め、「オレがオマエを守るから」と、恋愛ソングでしか聞かないようなフレーズを口にした。私はそんなココくんに「ありがとう」と返したが、内心ではとても冷めた気持ちでいた。

 ――守るって、何から?
 私は一般人だ。命を狙われるような状況にはそうそうならない。それに、私を弱者と決め付けるその姿勢にも疑問があった。確かに男女には力の差というものがある。腕相撲でもしようものなら、その勝敗は火を見るより明らかだろう。だが、だから何だと言うのか。守ってもらわなくても私は一人で生きていける。
 一人で生きていけるとは言え、人生においてうるおいと言うものは必要だ。だから、私はココくんを一方的に好きでいたかった。誰かを好きでいることは私にとって必要なこと。宗教と同じだ。何か信じられるものがほしかった。当然、それは見返りを求めての行為ではない。利益を得るために媚びを売っていたわけでは決してないのだ。

 それなのに「オレが守るから」だなんて。弱い人間だと思われ、勝手に庇護下に入れられることは、私にとってとても屈辱的なことだった。
 私に愛を返さないでほしい。私のことなんて好きにならないでほしい。私を守るべき対象だと思わないでほしい。私を求めてこないでほしい。私に何も期待しないでほしい。そう願っても、やっぱり駄目だった。
 ココくんのことをとても良い人だと思っていたけれど、私に愛が返ってくるとなると話は別だ。折を見て別れなければいけない。だが、別れたいけれど、だからと言って私はココくんのことを傷付けたいわけではない。別れ話を私から切り出さなければならないという事実は、私にとってとても億劫なことで、とても憂鬱なことだった。

「…………」
「…………」

 到着したココくんの家。ココくんは何やらソワソワとしている。
 駅から家までのほんの数十分しかない距離でも、私の荷物を持ってくれたのはココくんなりの愛情表現なのだろう。ずっと車道側を歩いてくれたことも、きっと彼の愛だ。ここ座って、と座布団を出してくれたことも、間違いなく彼の愛だ。ココくんは私を大事にしてくれている。それは分かっている。ただ私がそれを受け入れられないだけ。

「…………」

 ゴク、とココくんが生唾を飲む音が耳に届いた。熱烈な視線を感じる。彼女を自宅に呼んだ男が、その彼女に何を期待して何を求めているのか、それは分かっている。人目のない空間にいる恋仲の男女。その状況で何が始まるかと言えば、それはもう一つしかない。

 私は息の詰まるような居心地の悪さを感じながら目を閉じていた。私が男女の営みを回避するためにとった行動――それは寝たふりだ。正直、賭けではある。悪い男は意識のない相手にも平気で手を出すものだ。だが、今までの行動から、ココくんはきっと何もしてこないだろう、と踏んでいた。ココくんは私のバカみたいに小さいバッグすら持とうとしてくる男だ、そんな無体を働くはずがない。私はココくんの善性に賭けていた。だがそれと同時に、もしココくんが手を出してきたらそれを理由に別れを告げることもできるのに、とも思っていた。ココくんには善人でいてほしいが、それと同時に悪人でもいてほしい。私の感情はもうグチャグチャだ。こんなことになるから、私は彼に愛されたくなかったのに。

「…………」

 衣擦れの音が耳に届く。ココくんが私に近付いてくる気配がした。伏せているおかげで私の顔にかかっていた髪をココくんは指ですくって、私の肌に指が触れないよう慎重に私の髪を耳にかける。髪で隠されていた私の顔が露わになり、肌にひんやりとした外気が触れた。

「…………」

 ちゅ、と唇が触れる。ああ、やっぱりココくんも手を出してくるタイプの人間だったのか。そう落胆しながら、もし舌でも入れてきたらその瞬間に引っ叩こう、と決意する。だが、それ以上の接触は待てど暮らせどなかった。

 ――え、一瞬キスしただけ?
 それも、偶然ぶつかってしまっただけ、と言い訳できそうなくらいに短いキス。たったそれだけの行動。ココくんのその行動を咎めようにも、唇に触れた時間が短すぎて咎めるに咎められない。あまりにも一瞬の出来事であったため、私は起きるタイミングを失ってしまった。唇が離れてからもう数十秒は経っている。今さら目覚めるのも不自然だ。どうしようかと思いながら目をつぶり、寝たふりを続行する。本当に、どうしたものか。

「……今度は絶対守るから」

 ぼそりと呟かれたココくんの言葉が私の鼓膜を震わせた。
 今度“は”とは、どういう意味なのだろう。ココくんには誰かを守りきれなかった経験でもあるのだろうか。と言うことは、ココくんはわたしを通じて、その守れなかった誰かに対する贖罪をしようとしている、ということなのだろうか? ココくんはその人の面影を私に重ねて、私を守り切ることでその人への過去を清算しようとしている? もしかして、ココくんは私のことなんて見ていない?

 ――なんだ、やっぱりココくんは私のことなんて好きではなかったんだ。

 ココくんは私を通じて他の誰かを見ていたんだ。ココくんの目に私は映っていなかったんだ。ああ、良かった。ココくんが私のことを好きではないと言うことは、これからも私はココくんのことを一方的に好きでいられるということだ。良かった。良かった。私は誰にも愛されていなかったんだ。ああ、本当に良かった!

「ココくん、大好き」

 思わずそう口から漏れる。ココくんは私が眠っていると思い込んでいたせいか、私の言葉を聞いてビクリと体を跳ねさせた。文字通り、それは飛び跳ねるような勢いだった。

「……お、起きてたの」
「えへへ。うん」
「……い、いつから……?」

 ココくんのその声は上擦っていた。彼はダラダラと冷や汗を流していて、その視線は右往左往している。どうやらココくんは私にキスをしたことに負い目を感じているようだ。そんなに焦るくらいならキスなんてしなければ良かったのに。
 気まずそうに私の返答を待つココくんに向かって微笑んで見せると、ココくんは頬を赤く染め、ほっとしたような表情を浮かべた。勝手にキスしたことを、私に許されたのだと思ったらしい。本当は許してなんていないのだけれど。でも、私はそれを口には出さない。

 ココくんが私に誰かを重ねていることを隠しているように、私もココくんからの好意をいらないと思っていることを隠している。私たちはどこまでも一方通行で、どこまでも孤独だ。


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