やくそくしてほしい


 同じクラスの九井一くんは悪いことをしてお金を稼いでいるらしい。そんな噂がまことしやかに囁かれていた。優等生だった九井くんがそんなことするわけないのに、なんて私は思っていた。しかし、私のそんな気持ちとは裏腹に九井くんはどんどんと変わっていき、あの噂は本当だったのだ、と嫌でも悟ってしまった。九井くんは学校を休みがちになり、目つきはどんどんと鋭くなっていく。まとう空気が、雰囲気が、殺伐としたものへと変わっていく。私はそれがとても恐ろしかった。

「九井くん、好きです」

 昇降口の下駄箱の前、たまたま鉢合わせた九井くんにそう告白する。九井くんは吊り目がちな目を丸く見開いた。そして少しの沈黙の後、九井くんはハッと鼻で笑う。

「何、オマエもオレの金目当て?」

 九井くんは中学生では到底稼げないような額を稼いでいるらしい。その噂があることは事実であるが、九井くんのその予想は外れだ。私は九井くんのお金には興味がない。悪事にも興味がない。ただただ、九井くんのことが心配だった。彼の雰囲気が変わっていくことが恐ろしかった。だから、力になりたかった。自分が九井くんのことを救うんだ、なんて思い上がりも甚だしいことを、思春期特有の万能感も相まって私は本気で考えていた。

「お金は興味ないです。九井くんが好きです」
「…………」

 九井くんの眉間にシワが寄る。理解できないものを目の当たりにしたような表情だ。そして目線を下に移して少し考えた後、九井くんは口を開く。

「恋愛ゴッコなら他の奴としてくれねぇかな。そういうことをしていられるほど暇じゃないんで」
「恋愛ゴッコじゃない」
「…………」
「九井くん、苦しそうだから」
「…………」
「力になりたいんです」

 九井くんの眉間に刻まれたシワがより深くなる。不快なものを見たような表情だ。あ、怒らせちゃったかも。そう思った。

「オマエにオレの何が分かるんだよ」

 そう吐き捨て、九井くんは踵を返して行ってしまった。九井くんの履いたローファーがコツコツと昇降口の床を踏み締める音が響く。上履きを履いたままの私は、九井くんを追いかけることができなかった。


  ◇◇◇


 九井くんはいつの間にか柴大寿くんとつるむようになって、黒龍なんていう不良チームに入ったらしい。よく知らないけれど。たまに街で特攻服、とでも言うのだろうか、お揃いの白い服に身を包んだ集団を見かける。それを身に纏った九井くんはたくさんの部下と思われる男性を引き連れていて、なんだか九井くんが遠い存在になってしまったような気がした。でも、つるむ仲間が増えても、九井くんは相変わらず幸せそうには見えない。

「九井くん、好きです」
「……。またオマエか」

 塾の帰り道、珍しく私服の九井くんと出会った。目が合ったのでまた告白をする。九井くんは呆れたような表情を浮かべた。私のn回目の告白。九井くんはもう慣れてしまったようだった。

「こんな夜中に一人かよ。危ないな」
「いつも一人だし平気だよ」
「…………」
「九井くんこそ今日は一人なの?」
「良いんだよ、オレは。でも女は危ないだろ」
「そうかなぁ」
「……送っていく」

 九井くんは私に向かって左手を差し出した。「荷物、持つよ」短い言葉ではあるが、九井くんの優しさに心臓が跳ねた。ドキドキと高鳴る胸を抑えながら肩にかけていたカバンを九井くんへと渡す。九井くんは私のカバンを受け取ると、「家どこ?」とまた短く言葉を吐いた。

「そうやって優しくされたら私、九井くんのこともっと好きになっちゃうよ」
「もう良いよ、そのガチ恋芸。飽きたし」
「芸じゃないってば」
「嘘つくな。オレに近付く奴ぁみんな金。分かってんだよ」

 相変わらず九井くんは私の告白を信じてくれない。それでも、何度も告白を続ける私に対して彼は多少なりとも心を開いてくれているらしい。ぽつぽつと会話をしてくれるようになった。

「私は九井くんのこと本当に好きなんだけどなぁ」
「……オレは不良だぞ」
「関係ないよ。九井くんが本当は優しい人なのは知っているし」

 九井くんは私の一歩前を歩いている。九井くんの表情は見えない。彼の左耳についたピアスが、歩くたびに揺れている。

「私、九井くんのこと一生好きだと思う」
「…………」
「女のくせに何言ってんだって思われるかもしれないけど、私は九井くんのこと守りたいと思ってるの。それくらい好き」
「…………」
「本当に。一生好きだよ」
「……。約束」
「え?」
「約束できんの? それ、一生好きってやつ。オマエは大人になっても、オレのこと好きでいられるって言うのかよ」
「うん、できる。ずっと好き」

 私がそう言うと、九井くんは歩みを止めて振り返った。私よりも背の高い九井くんが、私をまっすぐに見下ろす。

「大人になっても同じこと言えンなら、そのときは信じてやっても良いぜ」
「……えっ!?」

 九井くんはいつも私の告白をとりつく島もなく断っていた。それがどうだ、この反応は。ドキドキと胸が高鳴る。これは脈ありだと思っても良いのだろうか。顔に熱が集まる。心臓は耳元にあるのではと錯覚するくらいうるさく鳴っている。
 目を見開いて固まる私を見下ろす九井くんは、ペロリと舌を出した。いつもの飄々とした意地悪そうな笑みを浮かべて。

「大人になるまで待ってるな」


  ◇◇◇


 その日から、私は九井くんと一度も会えていない。いつの間にか黒龍は解散していたし、ニュースでは関東事変なんて呼ばれる不良集団による抗争が報道されていた。なんとなく、私はココくんがそれに関わっているのではないかと思った。

『都内での“梵天”の抗争は激化する一方。ついに一般人にまで被害が――』

 何の気なしに点けたテレビでは、ニュースキャスターが真剣な顔をして原稿を読んでいた。――あれから十数年。すっかり私も大人になってしまった。それでも、私はいまだに九井くんを忘れられずにいる。

『番組が独占入手した梵天メンバーの映像です』

 テレビの映像が切り替わり、スマホで撮影したような映像が流れた。黒い服を着た白髪の男性を取り囲むように何人ものスーツ姿の男性が歩いていく。私には関係のないニュースだな。そう思ってチャンネルを変えようとリモコンを手に取った瞬間、手が止まる。私は画面に一瞬だけ映り込んだ男性に目を奪われた。

「九井くん……?」

 手ぶれの激しい映像で顔はよく分からなかった。白い長髪。思い出の中にいる九井くんとは似ても似つかない。それでも、何故か私はそれを九井くんだと確信していた。
 どうして九井くんはあんな犯罪組織の人間と一緒にいるのだろう。まさか彼もその一員なのか? 何も知らない。聞いていない。
 九井くんの生死すら分かっていなかったが、少なくとも生きてはいるようでホッとする。でも、生きているから何だと言うのか。九井くんは今、幸せだろうか。中学生時代ですらつらそうだったのに、あんな犯罪組織の一員になって、苦しくはないのだろうか。

 ――私が九井くんを救いたい。学生時代の感情がよみがえる。私が彼を守ってあげたい。今すぐまた、彼にこの思いを告白したい。でも、もう九井くんは私の手の届かないところへ行ってしまった。
 大人になっても九井くんのことを好きだと言ったら、九井くんは私の気持ちを信じてくれると言ったのに。九井くんは大人になるまで待っていると言ってくれたのに。どうして私の手の届かないところへ行ってしまうのか。ひどい。ひどいよ。
 ぎゅ、と拳を握る。まるで呪いだ。私の前から消えてしまうのなら、待っている、なんて言わないで欲しかった。そのせいで私は、今も九井くんのことを忘れられずにいるのに。

「九井くん、好きです。会いたい……」

 私の言葉はニュースキャスターの読み上げる報道の声にかき消され、誰にも届かなかった。


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