みとめてほしい


※梵天



「あ、財布の財布チャンじゃん。何してンのー?」

 大変失礼な物言いをしながら私の頭に腕を乗せ、体重をかけてくる男こと灰谷兄。近付くだけで彼のまとう強い香水の匂いが鼻腔をくすぐった。私の頭に乗せられた腕を払いのけて灰谷兄を睨む。彼はその顔にへらりとした笑みを浮かべ、肩をすくめた。そんな彼の後ろには灰谷弟の姿もあった。

「なぁ、そろそろ九井だけじゃなくてオレらにも貢いでよ」
「それな。九井より良い夢見せてやれるぜー?」

 私が九井さんに貢いでいることがバレてからというもの、兄弟はこうやって私に絡むようになった。それまでは私のことをまるで幽霊か何かのように無視していたくせに。彼らは人のものを奪りたい年頃なのだろうか。恐らくその顔の良さで数々の女を狂わせてきたプライドから、自分たち以外の男に狂っている女が許せないだけなのだろうけれど。私が九井さんではなく兄弟に貢ぎ始めたら、きっと彼らは一瞬で私への興味を失うのだろうけれど。

「九井さんに見返りとか求めてないので結構です」

 彼らの誘いをにべもなく断る。それは紛れもない本心だった。私が九井さんに貢ぐのは私がそうしたいからであって、決して見返りを求めてやっていることではない。見返りが欲しいのであればホストにでも通ったほうが早い。それは分かっている。分かっていてやっている。
 私は男に貢ぎたいのではなく、九井さんが好きで、九井さんに少しでも喜んで欲しくて、でも喜んでもらう方法が分からないから消去法で貢いでいるだけ。金品以外で喜んでもらう方法が分かりさえすればすぐにでも貢ぐのはやめるつもりだ。でも、どうしたら九井さんが喜んでくれるのかが分からないから、私はしばらく貢ぐことはやめないだろう。

「見返り求めてないって何? キモ」
「灰谷さんには関係ないじゃないですか」
「なー、灰谷さんじゃオレか兄貴か分かんねぇじゃん。竜胆さんって呼んでよ」
「嫌ですけど……」
「あ、てかソレ九井への貢ぎ物? チョコ? オレも食べたい」
「あげませんよ。九井さんの物なので」

 ケチくさ。灰谷弟はそう小さくぼやいた。悪口が全部聞こえているんですけど、と思ったけれど、言っても良いことはないのでそれを口には出さず心の中にしまう。
 あーあ、九井さんなら私のことを悪く言ったりはしないのに。やはり顔が良いだけの極悪兄弟より九井さんのほうが百倍は素敵だ。九井さんの優しさが沁みる。早く会いたい。そう思っているのが顔に出てしまったのか、灰谷兄は「うわ、キショ」なんて言って笑った。

「そういや九井もオマエのこと『キショい性癖の女』って呼んでたぜ」

 前言撤回。九井さんも私のことを悪く言っていたらしい。でも九井さんからの暴言であれば許せるので問題はない。だって私は九井さんのことが好きだから。

「九井はオマエのこと貢ぐのが趣味の女だと思ってるけど。愛が一ミリも伝わってなくてカワイソ」
「…………」
「キショいって言われてもまだ貢ぐのかよ」
「……貢ぎますけど。好きなので」
「ンだよそれ。地獄すぎねぇ?」
「良いんです。九井さんと同じ地獄に堕ちたいので」
「ハハッ。九井がオマエと一緒のとこに堕ちてくれるワケねぇじゃん。夢見がちでバカだなー、オマエ」
「…………」
「なぁ、特別に九井の好みのタイプ、教えてやろうか?」
「……結構です」

 九井さん本人の口から語られた情報しか信じないことにしているので。私が続けてそう言うと、兄弟は顔を見合わせてアハハと笑った。

「九井のこと信じてんの?」
「信者じゃん。九井の何がそんなに良いわけ?」

 全部。九井さんの良いところなんて挙げたらキリがない。三白眼の瞳も、釣り上がった眉毛も薄い唇も、舌を出す癖があるところも、仕事が早いところも、普段は優しいのに裏切り者には容赦のないところも、目が悪いのにメガネをかけないところも、全部が好きだ。

「九井はオマエのことなんて好きじゃないよ」

 分かっている。でも、私は九井さんが好きだ。誰に何を言われようと、その気持ちは変わらない。揺るがない。だって私は九井さんのことが好きだから。


 ◇◇◇


 部屋の扉を二回ノックして、失礼します、そう言いながら扉を開く。部屋の中央に置かれた革張りのソファに九井さんは腰掛けていた。休憩中だろうか。

「九井さん、チョコ食べます?」
「……また買ってきたのか?」
「はい。九井さんにあげようと思って」

 九井さんはピクリと眉を動かした。そうして私が手に持つチョコレートブランドの紙袋に視線を移すと、はぁ、と小さく溜め息を吐く。

「わざわざ買って来なくて良いって言ってんだろ」
「チョコ、嫌いでしたか?」
「そうじゃねぇよ。オレのために買ってくるなって言ってんの」

 九井さんのその言葉を無視して紙袋からチョコレートの箱を取り出す。机の上に置かれていたガラスの灰皿を退かし、机の中央に十二個入りのチョコレートを広げ、にこりと九井さんに向かって微笑んでみせる。

「…………」

 九井さんは無言で、諦めたようにチョコレートを一粒つまむと、それを口に運んだ。チョコレートは一口で九井さんの口の中に収まる。もぐもぐと彼の顎が数回動いたのち、彼の喉仏が上下に動いた。九井さんがチョコレートを飲み込んだのを見届け、声をかける。

「美味しいですか?」
「……まぁ」
「良かった! いっぱい食べてくださいね」

 私がそう言うと、九井さんは「オマエは食べないのかよ」と一言。それに対し「九井さんのために買ったものなので九井さんに食べて欲しいんです」と返すと、九井さんは気まずそうに目を伏せながらチョコレートをもう一粒つまんだ。

「オマエ、恋人いないの? オレ以外の男に買ってやればいいだろ」
「いないです。欲しくもないですし」
「…………」
「九井さん以外に興味ないので」
「……キショい趣味だな」
「それ灰谷さんにも言われました。私のことキショい性癖の女だと思ってるって本当なんですね」

 九井さんは「しまった」とでも言いたそうな表情を浮かべる。兄弟が私に告げ口しているとは思っていなかったのだろう。ここで下手に取り繕ったりせず、気まずそうな顔をするだけの九井さんは素直で優しい人だと思った。
 これがホストだったら「そんなこと思ってないよ。君が一番大事だよ」なんて歯の浮くような嘘のセリフを吐いていたのだろう。本心を隠さない九井さんは誠実だ。

「別に私は貢ぐのが趣味なわけじゃないですよ。九井さんが好きだからやってることなので」
「……オレの何が好きなワケ?」
「全部ですけど」
「……ンなこと言ったって組織の口座番号は教えねぇし株も渡さねぇぞ」
「え、私がお金目当てだと思ったんですか? だとしたら九井さんに貢ぐのはアプローチ効率悪すぎませんか。あり得ないです」
「金目当てじゃねぇのが余計に怖いんだよ」

 九井さんはたまにこういうことを言う。まるで自分にはお金以外の価値がないとでも思っているみたいだ。どうしてこんなにも自尊心が低いのだろう。九井さんはとっても素敵なのに。

「九井さんは無償の愛って信じませんか?」
「この世にあるワケねぇだろ、そんなモン」
「ありますよ、ここに。私の愛はそれです」

 そう言って微笑んでみせる。しかし、九井さんは眉間にシワを寄せるだけで、ときめいてはくれなかった。これが他の男だったら、私の微笑み一つで頬くらいは染めてくれるのに。

「本当にキショいな、オマエ」
「そう思うなら訴えてくださいよ」
「反社が司法に助けを求めるワケねぇだろ」
「示談で済ませてくださいね。貯金、全部渡すので」
「聞けよ」
「九井さんに貢ぎますので」

 はぁ、と九井さんは溜め息を吐き、手で眉間を押さえた。どうしたのだろう。頭でも痛いのだろうか。

「軽々しく言うなよ、そういうこと」
「本気ですよ」
「嘘つけ。全部捨てる覚悟もねぇくせに」

 そう言った九井さんの目は、とても遠いところを見ているように見えた。ここではないどこか。私の知らない誰かを思い浮かべているような目だった。
 九井さんの過去に何があったのかは知らない。教えてくれない。けれど、何を言われたって私は受け止める覚悟がある。だから教えて欲しいのに、九井さんは私に何も教えてくれない。何も背負わせてくれない。キャリアも健全な人間関係も捨てて、こうして反社会的組織の片棒を担いでいる時点で私も全てを捨てているも同然なのに。その覚悟を九井さんは認めてくれない。

「私は九井さんのこと好きですよ」

 見返りを求めていない、なんて嘘だ。私は九井さんに私の気持ちを認めてほしい。私の愛が本物であると知ってほしい。愛は返してくれなくていい。愛された分だけ愛し返すなんてルールはこの世にないし。ただ、私が九井さんを好きであるということだけ、知っておいてほしい。私のことは好きになってくれなくていいから、私が九井さんのことを本当に好きだと言うことだけは知っていてほしい。

「好きなんです」

 極悪な兄弟に財布チャンなんて呼ばれてバカにされてもいい。貯金なんてなくなってもいい。私にできることなら何でもする。これがまともではないことは理解しているが、どうしても止められない。私は九井さんのことが好きだ。

「九井さん、好きです」
「……。早くそのキショい性癖直したほうが良いぜ」

 九井さんはチョコレートで汚れた指をぺろりと舐めた。九井さんは私の愛を認めてくれない。受け取ってくれない。だから今日も、私は愛をお金に代えて受け取ってもらう。食べ物であれば彼の体の一部になれる。衣服であれば防寒の役目くらいは果たせる。
 早く九井さんの求めていることを知りたい。貢ぐ以外の方法で彼に愛を伝える術があれば良いのに。そうしたら彼も少しは、一ミリくらいは、私の愛を認めてくれるかもしれないのに。

「どうしたら信じてくれるんですか」
「じゃあ四千万、稼いでこいよ」
「分かりました」
「おい。冗談に決まってんだろ。本気にすんな」
「え、でも九井さんが言ったんじゃないですか」
「金には困ってねーし。いらねぇよ」
「…………」
「貢ぎ物もいらねぇ」
「…………」
「オレはもう何もいらねぇんだよ」

 どうしてそんなに寂しいことを言うのだろう。


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