07


 タワーマンションの地下駐車場には黒のセダンが停まっていた。竜胆くんの部下と思われる男性が運転するその車の、後部座席に竜胆くんとともに乗り込む。車が走っている間、私と竜胆くんの間に会話はなかった。スモークフィルムの貼られた車窓から流れていく景色を見る。法定速度を守って走る車がどうしようもなく遅く感じ、言いようのない焦りが私を包む。早く蘭くんに会いたかった。彼は無事だろうか、と、そればかり考えていた。
 そうして車はとある大学病院の裏口へと入った。患者用の駐車場ではなく、職員が使うような駐車場だ。どこかで名前だけは聞いたことのある有名な大学病院だったが、それが蘭くんたちの所属する反社会的組織の息がかかった病院であったことが少し意外だった。
 裏口から入ると、そこには院長らしき初老の男性が待っていた。彼は竜胆くんにペコペコと頭を下げる。竜胆くんはそれを片手で制し、挨拶もなしに「兄貴のとこ連れてけ」と一言だけ言った。そうしてその男性は慌てて「こちらです」と言って歩き出す。その後ろを黙ってついていくと、広い個室へと案内される。本来であれば表には入院患者のネームプレートが張り出されているはずだが、そこにはなんの表示もなかった。恐らく極秘扱いなのだろう。


「蘭くん……ッ!」

 部屋へと入ると、中央のベッドで眠る蘭くんの姿が見えて慌てて駆け寄る。その顔は殴られた跡なのか目元が紫色になっていて、唇の端も切れて赤くなっていた。美しかった蘭くんの顔がこんなにもボロボロになっている。思わずヒュッと喉が鳴った。
 蘭くんは目を瞑ったままピクリとも動かない。私が「蘭くん、大丈夫なの?」と声をかけても、その瞼が開かれることはなかった。布団から出ている彼の手に触れると、その手は蝋人形のように冷たくなっていて、私は反射的に手を離してしまった。冷たい。どうして? まるで死人みたいじゃないか。
 ゾッとして思わず後ろにいる竜胆くんの顔を見ると、竜胆くんは険しい表情を浮かべて蘭くんのことを見ていた。

「り、竜胆くん……! 蘭くんは寝てるだけなんだよね……? 待っていれば目、覚ますんだよね……?」
「…………」
「竜胆くん!」

 そう声を荒げると同時に、私の両の目からボロリと涙が溢れた。頬を伝って落ちる涙が、蘭くんの眠るベッドのシーツに灰色のシミを作る。涙腺が緩んでしまったが最後、私の涙は溢れて止まらなくなってしまった。
 そしてそれと同時に、蘭くんを失いたくないと思っている自分がいることに気付く。親しい人が怪我をしたら心配するのは人間として当然の感情ではあるが、私のこの感情はそれだけではなかった。人殺しだろうがなんだろうが、私は蘭くんのことが好きだ。苛烈で美しくて、人々の注目を集めて止まない彼を超える人なんていなかった。蘭くん以上に私を惹きつける人なんていない。私はやっぱり彼が好きだ。もう二度と彼を失うようなことになりたくない。

「蘭くん起きてよ……ッ! 私まだ、あなたに好きだって言えてない……!」

 蘭くんがやり直そうと言ってくれた時に返事ができなかったことを今さらながら後悔した。私はバカだ。失いそうになってから気が付くだなんて。私はどうしていつも間違えるのだろう。

「ねぇお願い、死なないで……!」

 私がそう言った瞬間、背後からガラリと扉の開く音が聞こえてきた。反射的にそちらへ振り向くと、入り口にピンク色の髪をした見目麗しい男性が部屋に入ってくるのが見えた。口元に残る傷が目立つ彼もまた、蘭くんたちと同じ反社会的な人物であるということは一目で分かった。

「おいおい、ンだよこの茶番はよォ」

 口元に傷のある彼は眉間に皺を寄せながらそう呟く。そうしてズカズカと病室内に入ってくると、「おい、そこの女」と私を指差した。ぶっきらぼうなその物言いに思わず体が跳ねる。

「コイツが撃たれたのは足。その程度で死ぬわけねンだからピーピー喚くな」
「え……」
「三途テメー! 勝手にバラしてンじゃねぇよ死ね!」
「アァ!? ウルセーなテメーが死ね!」

 竜胆くんが大声で抗議すると、傷のある彼もまたそれに負けない大声を出した。状況がうまく飲み込めない私がパッと蘭くんのほうを見ると、プルプルと小刻みに震える蘭くんの姿が見えた。先ほどまで蘭くんは死んだように眠ってはいなかっただろうか。これは何? 私は何を見せられているのだろう。
 ついに蘭くんは耐えきれなくなったのか、ふはっ、と吹き出した。そして笑いながら横たえていた体を起こす。そしてベッドの横で目を白黒させている私を見て、蘭くんはまた笑った。

「ナマエちゃんオレのこと大好きじゃん。オレ嬉しーなぁ」
「え、な、何これ……?」
「死んだフリしたらどーなんのかなって思って竜胆に協力させたんだけどよー、こんな上手くいくと思わなかった」
「は、えぇ……?」

 竜胆くんのほうを見ると、彼は不貞腐れたような表情を浮かべながら「だって兄貴がやれって言うから……」と呟く。それを見て確信する。私はこの兄弟に騙された。

「首領が見舞い行けっつーから来たけどよォ、テメーの女と茶番カマす元気あんならさっさと退院しろや」

 傷のある男性がそう言った。蘭くんは相変わらずヘラヘラと笑っている。

「ナマエちゃんが好きって言ってくれたんだもん、撃たれた甲斐あったな」

 蘭くんが何を言っているのか分からない。まるで宇宙人でも見ているような気分だ。



 ◇◇◇



 蘭くんの傷は幸いにも浅かったらしく、あれから一週間ほどで退院となった。しかし、傷が浅いと言えども銃で撃たれたことに変わりはなく、退院後もしばらくは自宅で安静にしていなければならないらしい。
 自宅のベッドで横になっている蘭くんは、「ナマエちゃんいつまで拗ねてンの」と薄く笑みを浮かべながらそう言った。

「ちょっと揶揄っただけじゃん。いつまで拗ねてんだよ」
「…………」
「ナマエちゃんがオレのこと好きって言ってくれたの嬉しかったぜ?」
「……ねぇ、騙してたこと私まだ蘭くんに謝ってもらってないんだけど」
「だってオレ悪いことしてねーじゃん。ナマエちゃんが勝手に勘違いしただけだろ」
「…………」

 蘭くんのその一言で確信する。彼は謝る気などさらさらないのだろう。よく考えたら、竜胆くんからも謝罪の言葉は聞いていなかった。彼らには怒るだけ無駄であると悟り、ハァと溜め息を吐いて蘭くんに向き直る。

「心配するからそういう冗談はもうやめて」
「はぁい」

 返事だけは元気だ。だがその顔には相変わらず笑みが浮かべられており、反省しているようには見えなかった。
 それを許す私も私だ。騙されていたことに対する怒りよりも、無事で良かったという安堵のほうが大きい。それに、あれがなければ私は蘭くんへの気持ちに気付けていなかったかもしれない。永遠の別れが来たあとに気付くのでは遅い。その一点においては、騙してくれて良かったとも言える。

「……蘭くん」
「ん、なに?」
「……私、蘭くんのこと好きだよ」
「うん。オレも」

 そう言って蘭くんは目を細めた。いつもの人を馬鹿にしたような笑みではなく、愛おしいものを見るような優しい目だ。その目に見つめられ、心臓が締め付けられるような感覚になった。
 ああ、やっぱり私は彼のことが好きだ。

「蘭くんが嫌じゃなかったら……やっぱり私、やり直したい」
「オレが嫌がるワケねぇじゃん。あーでも、次また一方的に別れたいとか言われたら今度こそ殺すかも」
「うん。二度と言わない」
「じゃあ逃げらンねーように結婚でもするかー?」

 ノリで入籍しちまえば良いじゃん、と蘭くんは続けた。彼が若者に流行っていた曲を知っていることがなんとなく面白くて吹き出すと、蘭くんは「なに笑ってンだよ」と言った。

「ナマエちゃん」

 蘭くんの大きな手が私の頬を撫でる。そのまま、私たちはどちらともなく唇を重ね合わせた。ちゅ、ちゅ、と音を立てて何度も唇を重ねること数回、わずかな物足りなさを感じ始めた頃、ぬるりと彼の温かい舌が私の唇を割って入ってくる。彼の温かい舌が私の舌を絡めとり、思考を奪った。くちゅ、と口内で響く水音。口内を蹂躙するその舌の動きに、乾いていたはずの下半身がきゅん、と疼く。

「んっ、はぁ……」

 そう声が漏れる。唇が離れると、お互いの舌と舌との間に唾液の糸が引いた。粘度の高いそれは、部屋の明かりを反射してキラリと光る。

「ッ、んんっ! ら、蘭く……ッ」

 ふいに耳たぶを食まれ、ビクリと体が跳ねた。蘭くんに息を吹きかけられたり、耳の軟骨を唇で甘噛みされるたび、ぞわぞわとした感覚が全身を駆け巡る。くすぐったさと恥ずかしさが入り混じり、耳に刺激が与えられるたびに私の口からは悲鳴のような声が漏れた。

「や、らんく……ッ、やめて、ってば……!」

 あまりの羞恥にじわりと目に涙が浮かぶ。顔は羞恥で熱くなっていて、蘭くんから見た私の顔は真っ赤に染まっていることだろう。それでも彼はやめることなく、面白がるように私の耳を甘噛みし続けた。

「ッ! や、ぁ……ッ!」
「あは、かぁわいい」

 そう言って笑い、ちゅ、と音を立てて耳にキスをした蘭くんはそこでやっと私の耳から唇を離した。そして彼は、私の頭を撫でながら耳元で囁く。

「勃っちゃったンだけど。ねぇ、ナマエちゃん。しよーよ」
「……ッ! ねぇ、絶対安静……なんじゃ、ないの……?」
「うん、そう。だからナマエちゃんが上に乗ってよ」
「……ばか」

 今度は私から蘭くんにキスをする。彼はなんの抵抗もなく、私を受け入れた。



  ◇



 そのまま何度も愛し合い、朝か夜かも分からない時間に目を覚ます。隣を見ると、そこには裸の蘭くんが静かに眠っていた。眠る蘭くんの顔にかかった髪を手櫛で整えると、彼は「んん……」と小さく声を上げる。しかし目を覚ますことはなく、蘭くんは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
 布団から飛び出ている蘭くんの手をじっと見つめる。弟の借金のために蘭くんのこの手を取ったとき、私はもう二度と生きては帰れないのだろうと思った。それでも、私はこの手を取った。
 彼は反社会的な人間で、人を殺すことに躊躇いなどない。この前のように、いつか本当に死んでしまうような事件に巻き込まれるかもしれない。怖くないと言えば嘘になるが、それでも私にはこの手を取る以外の選択肢はなかった。彼以上に輝いていて、美しくて、苛烈な人間は他にいない。私は彼に魅せられた人間だ。彼を知ってしまったら、私はもう二度と元には戻れない。

「蘭くん、愛してるよ」

 握った蘭くんの手は変わらず、大きくて温かかった。


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