06


 灰谷家に住むようになってから数週間。私は二人が出しっ放しにしているゴミを片付けたり、脱ぎ散らかされた服を洗濯したりと、ずっとハウスキーパーのようなことをしていた。たまに蘭くんの夜の相手をすることだけは通常のハウスキーパーの仕事とは異なるのだが。しょせん私は彼の奴隷である。嫌ではないからいいけれど。
 ここに来る前に勤めていた会社は退職代行を使われて知らない間に辞めさせられていたらしい。朝早くに起きて満員電車に揺られる生活をしなくて済むのは退屈ではあるが快適で、なおかつ自分で稼いでこなくても以前よりもずっと良い生活ができてしまうため、ごく一般的な人間の生活の仕方を忘れてしまった。これで晴れて私も社会不適合者の仲間入りだ。蘭くんがいつか私に飽きて解放されることがあったとしたら、そのとき私はきちんとした真人間に戻ることができるだろうか。漠然とした不安に苛まれる。

「オレ、明日・明後日は家帰って来れねぇかも」

 ソファでくつろいでいる蘭くんは、私に作らせたジントニックを飲みながらふとそう言った。長い足を組んでグラスを呷るその姿はまるで映画のワンシーンか何かのようだった。ポーズを取る癖は昔から変わっていない。

「へぇ、珍しいね。何かあったの?」
「最近チョーシ乗ってる半グレ集団がいるから分からせに行くの」
「ナ、ナルホドネェ……」

 分からせる、の内容はどうせロクでもないことなのだろう。聞いても良いことはないと分かっているので深くは聞かないことにする。
 蘭くんは普段、事務所で部下たちに指示を出したり、関係各所との会食をしたりが主な仕事らしく、帰宅が深夜や明け方になることが多かった。しかし、それでも家に帰ってくることがほとんどだった。反社会的組織の幹部ともなると関係各所に顔を出すだけでお金になるのだからすごい。もっとも、蘭くんがそういった仕事をメインにやっているせいなのか、反対に竜胆くんは現場に顔を出さなければならないらしく、蘭くんと違って忙しそうにしているのが少し可哀想なのだが。
 なので、蘭くんが泊まり込みになるというのは珍しかった。きっとそれだけ、その半グレ集団とやらの規模が大きいのだろう。

「オレが留守にしてるからって逃げたりすンじゃねぇぞー」
「逃げるつもりならとっくの昔に逃げてるよ」
「それもそうか」

 そう言って蘭くんは口角を上げた。蘭くんは私に対して「逃げるなよ」と一言伝えるだけで、首輪や手錠などの拘束具を使うことも監視をすることも一切なかった。そんなガバガバで良いのか、と思わないでもないが、監視の目が厳しくなってしまっては嫌なので、私はそれを口には出さずにいるのだが。
 蘭くんは私の弟を人質にとっているから私が逃げることはないとタカを括っているのか、それとも単純に監視しておくのが面倒臭かったのか。真意はよく分からないが、それでも私は彼の言う通りこの家に留まり続けていた。それは彼に対する恐怖による支配という側面もあるが、半分は自分の意思でもあった。今のところは蘭くんから逃げようという気は起きない。いつしか私は彼にかなり絆されてしまっていたらしい。

「あ、あとオレがいないからって竜胆とヤっても殺すから気を付けろよ?」
「しないよ、そんなこと……」
「どうせヤるならオレがいるときに三人でしよーね」
「だからしないってば! 私のことなんだと思ってるの!?」

 タチの悪い冗談だ。冗談だとしても言って良いことと悪いことがあるということを蘭くんは知らないのだろうか。きっと知らないのだろうな。誰かに咎められた経験なんて蘭くんにはないのだろう。六本木のカリスマに意見できる人なんていないのだから。
 私が彼の放つタチの悪い冗談に「私のこと尻軽みたいに言うのやめてよ」と文句をつけると、彼の口元に浮かべられていた微笑が立ちどころに消えた。サァ、と蘭くんの周りだけ温度が下がったような錯覚を覚えた。あ、またやっちゃった。蘭くんは無表情のまま口を開く。

「オレが手ぇ出さずに大事にしてやってたのに、オマエ勝手に別れ告げて知らねぇ間に男作ってただろ。それが尻軽じゃないなら何なんだよ」
「……別れてからのことじゃん。浮気したわけじゃないんだしノーカウントにしてよ」
「大事にしてやってたオレより、その辺の男を選んで股開いたのはオマエだろ。その時点で最悪なんだけど?」
「……それなら経験人数は私より蘭くんのが多いじゃん。自分はどうなのよ、人のこと言えるわけ?」
「は? 男と女はちげーから」
「…………」

 これはもう何を言っても無駄だと悟り口を閉ざす。蘭くんが昔のことを持ち出し始めたらもう何を言っても無駄だ。大人しく謝り続けて彼の機嫌が治るのを待つしかない。それはこの数週間で嫌というほど経験した。

「黙ってンじゃねーよ。オレに言うことあんだろ」
「……ごめんなさい」
「ん。ナマエちゃんじゃなかったら許してねぇからな、コレ」

 竜胆くんを入れての複数プレイは冗談で済まされるのに、私の元カレの話には怒り出す。蘭くんの沸点がよく分からない。自分で言って自分でキレているのも理不尽極まりない。
 蘭くんのこの悪癖にはいまだ慣れそうにない。一方的に別れを告げたのは確かに私が悪かったのだが、いつまでも責められ続けるのは面倒だった。
 仕方がないので蘭くんのご機嫌を取るように、ちゅ、と頬にキスを落とす。「そんなんで誤魔化されねーからな」と蘭くんは言ったが、その顔は嬉しそうに破顔していた。本当に蘭くんのことはよく分からない。


 ◇◇◇


 蘭くんが例の半グレ集団とやらを分からせに行くために家を出てから二日が経った。竜胆くんも出突っ張りのようで、私は束の間の一人を満喫する。人の気配のない家はどこか寒々しく感じられた。私はいつの間にか彼らのいる生活にかなり慣れてしまっていたようだ。一人でいることがどこか寂しく思える。
 だが、そんな寂しさももうすぐ終わりを迎える。蘭くんはそろそろ帰ってくるだろう。二、三日で帰ると言っていたのだから、きっとその通りになるはずだ。
 もし蘭くんが返り血を浴びたまま帰ってきたらどうしよう、なんて考えながら彼の帰宅を待つ。私へのドッキリのつもりで、蘭くんならそのくらいのことはしてもおかしくない。スーツについた血はどうやって落とせば良いのだろう。綺麗にすることはできるのかなぁ。経験がないから分からない。
 そんなことを考えながら洗濯物を畳んでいると、玄関からバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。やっと帰ってきた。そう思いながら洗濯物を畳む手を止め、出迎えのため玄関へと向かう。

「ナマエさん! 兄ちゃんが撃たれた!」

 帰ってきたのは蘭くんではなく、顔を真っ青に染めた竜胆くんだった。

「――え、どういうこと? 何があったの……?」

 どっと全身から嫌な汗が噴き出る。立ち眩みがしたときのように視界が狭くなっていく感覚もする。私は震える唇で、そう言葉を紡ぐので精いっぱいだった。

「兄貴が潰しに行った奴らがチャカ隠し持ってやがったんだよ」

 半グレだと思って油断した、竜胆くんは苦虫をかみ潰したような表情を浮かべてそう言った。チャカ、それが何かは裏社会について詳しくない私でも知っている。
 ――拳銃のことだ。つまり、蘭くんは拳銃で撃たれたということ。
 サァ、と全身から血の気が引いていくのを感じた。聞こえていた雑音が遠くなって、一瞬だけ世界が静寂に包まれたような気がする。まるで自分が世界から一人取り残されてしまったかのようだ。

「ら、蘭くんは無事なの……?」

 唇が震える。自分が正常に言葉を発音できたか分からない。もしかしたら私は言葉をきちんと発音できていなくて、ただパクパクと口を動かしていただけかもしれない。口が乾く。今、自分が真っ直ぐに立っていられているのかも分からない。眩暈がする。
 しかし竜胆くんには私の言葉はきちんと聞こえていたようだ。彼は口を開いて何かを言いかけるも、すぐに口を閉じる。そして竜胆くんは私から目を逸らし、俯いた。
 その仕草を見て、私は頭にカッと血が上るのを感じた。

「ねぇ! 蘭くんは無事なの!?」
「…………」

 無言という返答、それが意味することは分かる。きっと無事ではない。むしろ、最悪の状況である可能性すらある。だが、それを信じたくなかった。私の想像が間違っていると証明してほしかった。竜胆くんの両腕を掴んで揺さぶるも、彼は俯いたまま何も答えない。

「ッ、竜胆くん!」
「…… ナマエさん」
「蘭くんは、今どこにいるの!?」
「病院に……。ナマエさんに知らせなきゃと思って、オレ……」

 蘭くんにスマホを取り上げられている私には、取れる連絡手段はない。だから竜胆くんが私のために急いで家に戻ってきてくれたのだと、その一言で分かった。重傷を負っているとしたら、きっと竜胆くんも蘭くんのそばにいたかっただろう。それなのに私に知らせに来てくれた。今はその気持ちをありがたく思うしかない。だが、気持ちの整理がつかない私には感謝の言葉を伝えるだけの余裕はなかった。

「私も……その病院に連れて行ってもらえる……?」

 その言葉に、竜胆くんは小さく頷いた。


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