05


 目覚めた瞬間から全身の倦怠感と下腹部の痛みが私を襲った。夜通し嬌声を上げさせられ、喉も痛い。満身創痍である。

「…………」

 私を犯し続けていた張本人はこちらに背を向けて眠っている。寝息も立てず静かに眠っていて、まるで死んでいるかのようだった。
 昔は蘭くんの寝姿があまりにも静かすぎて心配になり、息をしているか確かめたこともあった。だが、満身創痍の今は彼を心配する気にはなれない。痛む喉を癒すために一刻も早く水が飲みたかった。
 ベッドの下に散らばった衣服を集め、物音を立てないよう身に付ける。手櫛で乱れた髪を軽く整えながら部屋のドアを開け、広い廊下を進んでいく。リビングルームからはわずかにEDMの音が漏れ聞こえており、中には竜胆くんがいるのだと悟った。

「……おはよう、竜胆くん。朝早いんだね」

 無視をするわけにもいかないのでそう声を掛ける。ソファーに腰掛けてスマホを手にしていた彼はその手を止めて振り向いた。こちらを向いた竜胆くんは目の下にクマを作り、ひどく疲れた顔をしていて思わずギョッとする。昨日は元気そうな顔をしていたのに、たった一晩で何があったのか。あまりの変わりように困惑する。私の顔を見た竜胆くんは「ああ、アンタか」と呟いた。 
「……兄貴に伝えてほしいことがあンだけど、チョット頼まれてくれね?」
「え、うん。どんなこと?」
「オレが家にいるときはサカるのやめてって言っといて。うるさくて眠れねーんだワ」
「えっ……」

 さぁ、と全身から血の気が引いていくのを感じた。昨夜のやり取りを聞かれていたことに対する羞恥心と、竜胆くんの安眠を奪ってしまったことに対する罪悪感、それらが混ざった複雑な感情が胸中に渦巻く。

「ご、ごめんなさい……」
「どうせ兄貴に逆らえなかっただけって分かってるし。別にいーよ」

 申し訳なさから謝罪の言葉を口にすると、竜胆くんは気にするなと言うようにヒラヒラと手を振った。そして彼はその視線を手元のスマホに戻す。スマホを操作して新たな音楽を流し始めた彼を見て、竜胆くんとの会話が終了したと判断し、私は本来の目的である水分補給のため冷蔵庫へと歩みを戻した。
 自分より少し背の高い冷蔵庫の扉を開ける。自分の家の冷蔵庫とは収納位置が異なっており、一つ目に開けた扉の中には目当てのものは入っていなかった。静かに扉を閉め、すぐさま別の扉を開ける。二つ目に開けた扉の中にやっと飲み物を見つけた。二リットルのペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出し、グラスを探す。食器棚はすぐに見つかった。

「はぁ。水おいし……」

 冷たい水が渇いた喉を潤していく。じわ、と染み渡っていくその感覚に思わず嘆息が漏れた。一杯目はすぐに飲み終えてしまったので、再びグラスに水を注いでペットボトルを冷蔵庫に戻す。二杯目を手に持ってダイニングテーブルに置き、そこに腰掛ける。
 ホッと一息つくと、ふと視線を感じた。視線の先を向くと、こちらを見つめる竜胆くんと目が合う。竜胆くんは私を真っ直ぐ見つめたまま口を開いた。

「思ったより肝が座ってンのな」
「……え?」
「オレら兄弟を前にしたらビビって喋れなくなる奴らは少なくないのに、アンタは平気そうだなと思って。普通に喋ってるし」
「……別に平気ではないよ。怖いけど耐えてるだけ」
「あー、分かる。オレも兄貴は怖いからさ。急にキレっしマジで何なんだよって感じ」

 竜胆くんは私の言葉に共感を示した。だが、蘭くんよりはいくらかマシというだけで、私は竜胆くんのことも十二分に怖い人だと思っている。借金の取り立てに来る時点でカタギの人間ではないことは明白なのだから。そう思ったが、それは口には出さずに会話を続ける。

「竜胆くんも蘭くんのことが怖いの?」
「うん。ガキの頃に兄弟喧嘩で兄貴の腕折ったら仕返しに死ぬほどボコボコにされてさ、それ以来ずっと怖くて逆らえねぇもん。平気で武器使ってくるし卑怯だろ」
「…………」

 可愛らしい兄弟の思い出話が聞けると思ったら、急に血生臭い話が始まってしまい言葉を失う。喧嘩で骨を折るような事態に発展することがもう驚きだ。私も弟と取っ組み合いの喧嘩をしたことがないわけではないが、それでもせいぜい引っ掻き傷を作る程度でしかない。あまりにもスケールが違う。蘭くんよりはマシだと思えていた竜胆くんも、やっぱり何をしでかすか分からない怖い人なのだ、と再認識すると、恐怖で背中に冷や汗が伝った。

「だからオレ兄貴にボコられてないアンタのことスゲーなって思ってンだよ。マジで大事にされてんだなって」
「そ、それは大事にされてるカウントなの……?」
「そーだろ。てか、十年以上も前の女のことまだ好きとかスゲーじゃん」
「…………」
「執念だよな。オレには分かんねー感情だワ」
「……そうなんだ」

 大事にしている、好き、という言葉の意味について考える。蘭くんもそれを口にしていたが、私は信じていなかった。弟を人質に取られているし、選択肢のないこの状況はとてもじゃないが大事にされているとは思えなかった。普通は好きならその人の幸せを願うものではないのだろうか。私の置かれているこの状況を幸せと呼ぶのは難しい。
 そもそも、蘭くんは少し大袈裟に物を言う癖がある。格好付けというか、まるでお芝居か何かの最中のような言動を取ることが多々あった。大事にしていた、だの、私のことが好きだった、だの、それらも同じようなアピールの一つだと思っていた。今の状況だって、刑務所にいる間に一方的に振られたことに対する復讐でしかないだろうと思っている。蘭くんが私のことを好きである、というのはにわかには信じられなかった。

「つーか、アンタは兄貴の何が好きだったの? あの頃の兄貴マジで怖かったと思うんだけど」
「え……」
「まさか顔?」
「それもある、けど……。初めて会ったときは運命の人だと思ったの」
「へー。ならマジで運命なのかもな。こんな再会の仕方なかなかねぇもん」

 そう言うと、竜胆くんはもう私に興味を失ったのか再びスマホに目を向けた。そしてスマホを少し触った後、「あ、てか今なら寝れるな」と呟いてリビングから出て行ってしまった。私に対して少しも気を遣わず、傍若無人な態度を取るところは蘭くんと似ているような気がした。さすが兄弟、と感心にも似た気持ちを抱く。

「運命、かぁ……」

 呟いた私の声は静寂の中に消えた。少女漫画に出てくる運命の人はもっとキラキラと輝いていたと思うのだが、こんな血生臭い運命があっても良いのだろうか。でも確かに、出会った頃は蘭くんのことが輝いて見えていた。彼が人殺しの前科持ちであると知ってからはその輝きは陰ってしまったが、その後に出会う男性の中に蘭くん以上に輝いて見える人はいなかった。記憶に残る蘭くんとの思い出だけは綺麗だ。


◇◇◇


「おいテメー……どこ行ってたんだよ……」
「お水飲みに行ってただけだよ」
「勝手にいなくなったら殺す……」

 私が部屋に戻ると、目覚めたらしい蘭くんが布団にくるまったまま掠れた声でそう言った。まだ半分くらい夢の中なのか、少し舌足らずなその言葉にはいつものような鋭さがなく、殺すと凄まれても怖いとは思えなかった。
 蘭くんは横になったまま布団から片腕だけを出し、こちらに腕を伸ばす。目を瞑ったままなせいか腕はふらふらと宙を彷徨っていた。ベッドへと近寄り、握手をするように伸ばされた腕を取る。すると、思いのほか強い力でその手を握り返され驚くのと同時に、引っ張られて体勢を崩した私は寝ている蘭くんの上へと倒れ込んでしまった。

「うわっ、痛ッ」
「は? 知らねー。勝手にいなくなったナマエちゃんが悪い」
「いたたた! 骨折れるってば!」

 倒れ込んだ私を抱き締めるように両腕で捕まえた蘭くんは、そのまま両腕に力を込めたので私の骨はミシミシと鳴った。骨折の危機に思わず抗議の声を上げるとわずかに腕の力は緩んだが、それでも私がこの拘束から抜け出せるほどにその力が緩むことはなかった。これ以上の抵抗は体力の無駄だと思い、仕方なく抵抗を諦める。

「……ねぇ、さっきリビングで竜胆くんに会ったよ」

 そう言うと、蘭くんは「ふーん」と呟いた。聞いているんだか聞いていないんだか分からない微妙な声音だったが、気にせず言葉を続ける。

「竜胆くんに『オレがいるときはサカるのやめて』って蘭くんに伝えてって言われたんだけど。声聞かれたの恥ずかしすぎるしもうやめてよ」
「ハハ、聞いてたンなら竜胆も混ざれば良かったのに。バカだなアイツ」
「なにそれ! 私が嫌だよ!」
「えー何、オレのこと好きすぎるから弟と言えども他の男には触りたくねぇって? あは、照れちゃうなぁ」
「いや、そんなこと一言も言ってないんだけど」
「あ? 言えや、オレのこと好きだって」
「理不尽なキレやめてよ……」

 呆れながら蘭くんの顔を見ると、彼はニコニコと笑顔を浮かべて私を見ていた。その笑顔の意味が分からず「なに?」と聞くと、蘭くんは「別にー」と返した。

「セックスしてから昔のナマエちゃんみたいに戻ったなーと思って。早めにヤっといて正解だったなァ。やっぱ速攻が大事」
「…………」
「照れンなよ。もう一発ヤっとく?」
「……竜胆くん寝てるし遠慮します」

 そう言うと、蘭くんは楽しそうに笑った。そして犬が飼い主にじゃれつくように蘭くんは私の胸に顔を埋める。首筋に当たる彼のふわふわとした髪の毛がくすぐったかった。

「こうやってベッドの中でナマエちゃんと話すの好きだったなー。ナマエちゃんはどう? つまんなかった?」
「ううん。私も……あのときは、蘭くんと一緒にいるだけで楽しかったよ」
「じゃあ何で別れようとか言ったワケ? オレ何かした? 記憶にねぇんだけど」
「それは……」

 蘭くんに傷害致死の前科があるのを知って怖くなったから。それを口に出して良いものか分からず、思わず言い淀む。
 あの頃の蘭くんは私には優しかった。噂では喧嘩相手を背後からブロック片で殴ったり武器を使ったりと、かなり苛烈なことをしていると聞いたが、そんな蘭くんは私に手を上げたことは一度もない。自分が何かされたわけでもないのに、過去の行いに恐怖して嫌になった、と伝えることは果たして正解なのだろうか。現に、今も彼は反社会的な職業に就いているのだろう。詳しく聞いたわけではないが、マトモな職に就いているはずがない。今では傷害致死の他にも様々な罪状があるに違いない。今さらその一件のことを伝えたとして、納得してもらえるとは思えなかった。

「……あのときはちょっと怖くなっちゃって。ごめんなさい」

 悩んだ末にその一言だけを絞り出す。すると蘭くんは当時のことを思い出したのか、「あー……」と呟いた。

「オレが逮捕されたから? でもあんときは殺してねぇよ、大将が負けたから責任とっただけで」
「…………」
「逮捕されたのが嫌だったワケ? 今なら身代わり立て放題だから逮捕されねぇし平気だよな?」
「……それはそれで怖い」

 ンだよこんな優良物件ほかにねぇだろ、と蘭くんは笑った。不良物件の間違いだろうと思ったが、私はそれを口には出さずにいた。
 ふいに蘭くんの手が私の髪に触れる。手櫛で梳くように触れた後、彼は真っ直ぐに私の目を見つめた。その目はまるで愛おしいものを見つめるかのように優しい。

「弟くんの借金の取り立てしに行ったときナマエちゃんに奴隷になれとか言ったけどさァ、やっぱオレたちやり直さねぇ?」
「え……」
「オレはやっぱりナマエちゃんのこと好きだよ。ナマエちゃんはオレのこともう好きじゃねぇの?」

 私はその問いに即答することができなかった。私は蘭くんのことを好きだと言えるのだろうか?
 今でも蘭くんに対して「怖い」という感情がないわけではないが、普通に会話をすることが出来る程度には慣れてきた。しかし、少なくとも弟を人質に取られているせいで仕方なくここにいる、というのは変えられない事実ではあるし、下手を打てば何をされるか分からないという緊張感もまだ失われてはいない。
 けれど、彼以上に苛烈で美しい男性がいないこともまた事実だった。あの頃は蘭くんが怖くて逃げてしまったが、その後も蘭くんほどの人に出会えなくて何度も別れてしまった。無意識に私は蘭くんの面影を追っていたのかもしれない。きっと私は蘭くんのことが嫌いではないのだろう。だが、嫌いではないことと好きであることはイコールとは言えなかった。

「え、えっと……」

 どう答えるべきか分からず、だからと言って沈黙するわけにもいかず、無意味な繋ぎ言葉が口から出た。
 これが普通の人間からの告白であれば、お試し感覚でヨリを戻してみても良かったかもしれない。だが、相手は蘭くんだ。生半可な覚悟で返事をすることは憚られた。過去の私だって一度は恐怖で逃げ出しているし、また同じことが起こらないとも限らない。次また逃げたら今度こそ殺される。恋人に戻るよりは、奴隷でいたほうがまだ精神的に楽だ。恋人に戻ってしまったら、私は彼と対等な立場にあると錯覚してしまうだろう。また嫌になって似げ出したい気持ちになるかもしれない。下手を打って弟共々殺されるのは御免こうむる。

「……なぁんて、冗談だよ。わざわざナマエちゃんと付き合わなくてもオレ女に困ってねぇし」

 私が答えに困っていたことを察してくれたのか、はたまた本当に冗談だったのか。蘭くんは唇の端だけを上げながらそう言った。口元は笑っているが目は笑っていない。だが、蘭くんには悪いが、正直「助かった」と思った。

「蘭くんモテそうだもんね。泣かせた女の子は星の数ほどいそう」

 この話を続けたくないがために話題を変える。蘭くんは私の言葉を受けて「オレは女泣かせのカリスマでもあるからさ」とだけ言った。


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