02


 ――十数年前。
 当時の私は無駄に行動力があり、たまたま遊びに行った街で見かけた蘭くんに私から話し掛けたことが、彼と私の出会ったきっかけだった。一目見た瞬間にこの機会を逃してしまったら彼とはもう二度と会えないと、ある種の運命的なものを感じて、私は彼に話し掛けずにはいられなくなってしまったのだ。

「あっ、あの! すみません、お名前を教えてくれませんか……!?」

 初対面の人間に話し掛けるのだから失礼があってはいけない。そう思ってお辞儀の角度で頭を下げる。突然話し掛けたにも関わらず、彼はほんの少し目を開いただけでほとんど表情を変えなかった。見た目の美しさもさることながら、表情をほとんど変えないその様はまるでお人形のようだ。

「誰、オマエ」

 彼は相変わらず無表情で私を見下ろしながら、薄い唇だけを動かしてそう言った。

「わ、私ミョウジナマエと言います! あ、あの、あまりにも格好良い人だなと思って……その、突然話し掛けてしまってすみません!」
「ふーん」

 彼はそれ以上の言葉を発さない。まったく会話が続かないというか、彼には会話を続ける意思がないのだろう。強制終了させられる感覚だ。

「…………」
「…………」

 怖い。訪れた沈黙がつらすぎて、じわりと視界が涙で滲む。絶対に変な女だと思われた。というか、彼はこんなに美しいのだから私のような平凡な女とは会話する価値もないと思われたのかもしれない。彼は私とは住む世界が違う人間だったのだ。やっぱり話し掛けなければ良かった。自分の行動力の高さを恨めしく思うが、今さら後悔してももう遅い。時間はもう戻すことなどできないのだ。話し掛けてしまったからには、せめて彼の名前だけでも聞いて帰りたい。その一心で震える唇を開く。

「ご、ごめんなさい。ナンパみたいで迷惑でしたよね……。大人しく帰るので、その……もし嫌じゃなかったら、お、お名前だけでも教えてもらえませんか? 本当に、その、素敵な方だなって思ったので……」

 やっとの思いで絞り出した言葉はひどく震えていて、何度も言葉を詰まらせながらも私は必死で口を動かし続けた。これでも駄目ならもう潔く帰ろう。そう思いながら彼の言葉を待つ。

「……マジか。本当にオレのこと知らねぇで声掛けてきたの?」

 返ってきた言葉は予想外のものだった。てっきり私とは話す価値がないと判断されて無視されているのかと思っていたが、どうやら彼は驚いて言葉を失っていただけのようだった。
 この辺じゃちょっとした有名人だと思ってたンだけどなー、と、彼は続けて不満を口にする。

「あーあ、ショックだわ。灰谷の名もこんなモンかぁー」
「す、すみません。私が田舎者なせいで……知らなくてすみません……」

 反射的にそう謝る。即座に謝罪の言葉を口にした私が彼の目には面白く映ったのか、彼は何故か目を細めながら「ふぅん」と呟いた。

「まぁいーや。特別に教えてあげんね。オレは灰谷蘭。漢字は灰色のハイに谷底のタニ、ランは花の蘭。覚えた?」
「……! はっ、はい! ありがとうございます!」
「それで、他にはなんもねえの? オレの名前知るだけで満足なのかよ、オマエは?」

 首を傾げながら、彼は意地悪そうに言葉を続けた。まるで私を挑発するような言い方だ。もっと求めてこいとでも言うような、むしろ、私が名前を知るだけで満足するような人間ではないことを期待しているような、そんな感じだった。
 先ほどまでの会話強制終了のときとは違って、彼は私と会話をしてくれる気になってくれたらしい。それが嬉しくて、私は口を開く。

「も、もし良かったら名前以外にも、あなたのことが知りたいです! 何が好きで普段どんなことをしているのか、とか……い、嫌じゃなければ、教えてほしいです!」

 いいよ、と彼は言った。そこから私と蘭くんの付き合いが始まった。
 それからというもの、蘭くんは私にいろいろなことを教えてくれた。楽しいことも悪いことも、なんでも教えてくれた。

「原宿にカリスマ美容師がいるんだけど来る? すげぇんだよ、オレの言いたいこと全部分かってくれてさ」

「ナマエちゃんってピアス開けてねーの? オレ左耳しか開けてないから片方あげようと思って。開けてやろうか?」

「えぇー、オマエ夜遊びしてみてぇの? ……たしかにオレがいれば六本木のクラブなら顔パスだけどさぁ。でも夜更かし嫌いなんだよなー。終電までに帰るんならいいけど」

「なぁんもしねーで一日中寝てンのがやっぱ一番楽しいよな。ほら、こっちおいで」

 私が知ったのは蘭くんに教えられた遊びだけではない。当然、彼についての情報も自然と耳に入るようになる。彼が六本木のカリスマと呼ばれていることも、街の不良たちが道を開けて彼に頭を下げることも。――彼が数年前に人を殺して少年院に入っていたことも。すべてを知った。知ってしまった。
 人を殺めたことがあるという事実を知ってしまった瞬間から、あんなに輝いて見えていた蘭くんのことを私は怖いと思うようになってしまった。今はまだ優しくても、いつその暴力性が私に向かうか分からない。最悪の想像が脳裏に浮かび、ついには夢にまで見るようになってしまった。彼があの美しい顔に微笑を浮かべたまま、顔色ひとつ変えずに私を殴り殺す様を。その悪夢のせいで夜も眠れなくなってしまい、私の心は疲弊していく。一刻も早く、私は蘭くんから離れたかった。
 しかし、彼から離れようにも、もし別れ話をして怒らせてしまったら、と考えるとどうにも実行に移すことができなかった。私から別れ話を切り出すことは彼のプライドを傷つけてしまわないだろうか。痴情のもつれで女性死亡、なんていうニュースを見ながら考える。
 蘭くんはもうすでに喧嘩の延長で人を殺している。それでも飄々としているのだ、今さら私一人殺したところで蘭くんは何とも思わないだろう。私はどうしたら良いのだろう。離れたいのに、離れられない。精神的な疲労感で気がおかしくなりそうだった。

 ――そんな折、私は関東事変と呼ばれる暴走族同士の抗争によって蘭くんが再び逮捕されたことを知った。
 これはまたとないチャンスである。神様がくれた奇跡かと思うほどだった。私はすぐに別れたい旨と謝罪の言葉を手紙にしたため、刑務所にいるはずの蘭くん宛に送る。そしてメールアドレスも電話番号もまったく違うものに変え、もう二度と六本木には近寄らないと決めた。
 これでもう二度と蘭くんと会うことはないと、愚かにも私はそう思っていた。十数年後に再会することになるなんて、このときの私は夢にも思っていなかったのだ。


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