01


 弟から「ヤバい所からお金を借りてしまった」と連絡が来た。休職中に貯金もなくなってつい手を出してしまったのだと。利息が膨らみに膨らみ、もう手の施しようがないのだと。
 家には昼夜を問わず借金の取り立てがやってきて心の休まる暇がないと、私の家を訪ねてきてはわんわんと泣いている弟はそう言った。

「姉ちゃん、どうしよう……」
「大丈夫だから落ち着いて。お姉ちゃんがなんとかするから」
「うん。ごめん、ごめんね姉ちゃん……」

 弟の震える手は痩せ細っていて薄っすらと骨が浮いていた。ろくに食事も摂れていないのだろう。それがひどく哀れで、情けなくて、心が痛んだ。こんなことになる前にどうして私を頼ってくれなかったのか。もっと早くに助けを求めてくれていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。一人で解決しようとした弟のその気持ちは偉いと思う。それ自体は誇らしくもあるのだが、それと同時に、弟に頼ってもらえなかった自分の不甲斐なさがどうしようもなく苦しかった。

「借金は今いくらあるの?」
「えっと、それは…………」

 ピンポーン。弟の言葉を遮るようにインターホンの音が高らかに鳴り響く。弟はその音を聞いてビクリと体を跳ねさせた。借金の取り立てに追われすぎて、もはやインターホンの音すら怖いのだろう。
 ピーンポーン。もう一度鳴る。ピンポン、ピンポン、ピンポンと連続で高い音が響く。何度も執拗にインターホンを鳴らす様はあまりにも異様で、呆気に取られた私は体を動かすことができなかった。ただ弟と二人で恐怖に慄きながらインターホンの音を聞いていることしかできない。そうしてまた何度かインターホンが鳴った後、束の間の静寂が訪れる。

『ミョウジくーん。ここに逃げ込んだのバッチリ見てたから居留守なのバレてんぞ。早くドア開けろよー』

 インターホンが鳴り止んだ後、ドアの外から弟の名を呼ぶ男の声が聞こえてくる。弟は、ひぃ、と小さく悲鳴を上げて体を震わせた。

「や、ヤバいよ姉ちゃん……! ど、どうしよう…!?」
「……ッ! 私が出るから隠れてて」

 震えながら助けを求める弟の背中を撫で、その場に立ち上がる。私の心臓はドクドクと早鐘を打っていて、口から心臓が飛び出してしまいそうなほどに暴れ回っていた。恐怖心を押し殺し、そろそろと玄関へと向かう。

『おーい。さっさと開けろってば。お望みなら蹴破ってやったって良いんだぜー? どーせ困るのはアンタらだしなぁ』

 ガンガンと扉を叩く音が聞こえる。木造の扉ならまだ可能性があるかもしれないが、家の扉は鉄製なのでそう簡単に蹴破られることはないだろう。蹴破ると言うのはただの脅し文句に過ぎない、と自分に言い聞かせる。しかし、本当に扉が破壊されることはないと分かっていても、それでも怖いものは怖かった。

「……ッ」

 ひゅ、と恐怖で喉が鳴る。――今、私はこの扉一枚を隔ててヤバい奴と対峙している。
 頭の中で扉の前にいる男の姿を想像すると、背筋に悪寒が走った。外の男はパンチパーマのチンピラなのだろうか? それとも黒スーツにサングラス? 想像上の反社会的人物の姿が頭の中を駆け巡る。きっと見た目からして厳つい人物が扉の前にいるのだろう。私はそんな怖い人と対峙して、うまく喋ることができるだろうか。
 ――いや、少なくとも私は殴られようが何をされようが、姉として何としてでも弟のことだけは守ってあげなければならない。
 大きく息を吐き、覚悟を決める。サムターン錠のつまみに指をかけて回すと、ガチャリと音が鳴った。その音を掻き消すかのような勢いで、開錠とほぼ同時にドアが勢いよく開かれる。あまりのスピードに思わず私の口からは「ひっ」と悲鳴が漏れた。

「開けるの遅えよ――……って、誰? アンタ」

 目の前に立つ男は、ぱちくりと目を大きく開けながら私を見た。そこに立っていたのは、くびれのあるハイレイヤーカットを施し、髪色を紺と紫のツートンカラーに染め上げたロングヘアのオシャレな男性だった。私の想像していたようなパンチパーマのチンピラとは真逆の姿に拍子抜けする。
 そしてその後ろには男がもう一人。しかしもう一人の男は借金の取り立てにあまり興味がないのか、はたまた実行役と思われるロングヘアの男に全てを任せているのか、男はこちらに背を向け、柵に肘をつきながら煙草を吸っているようだった。吐き出された煙が空気中に消えていくのが見て取れる。
 どちらの男もスラっとした長身で、まるで芸能人か何かのようだった。ドアを蹴っていたロングヘアの男もどちらかと言えば可愛らしい顔付きをしており、異性にモテそうな見た目をしている。しかし、首に入っている刺青がスーツの襟から見えていて、近寄りがたい異様な存在感を放っていた。
 男は私の頭のてっぺんから爪先までをじろじろと見ると、あー、と怠そうに空を見上げた。恐らく弟ではなく私が出てきたのが予想外だったのだろう。

「アンタ、ミョウジくんの家族か何か? それとも彼女?」
「……姉です」
「ふぅん。まぁどっちでもいーけど。なんでオレらが家に来たのか、弟くんからなんか聞いてる?」
「は、はい。お金を借りたって……」
「知ってるなら話は早いな。オレら弟くんがなかなかお金返してくれないから困っててさー。一千万、耳揃えて返すようアンタからも言ってくれない?」
「いっ、一千万!? な、なんでそんな金額……!?」

 想像よりも大きい額にギョッとする。私の貯金をすべて支払いに充てたとしても完済できるかどうかの額だ。
 借金一千万。あまりにも現実味のない金額であるが故、まるで夢か何かを見てるのではないかと錯覚してしまう。

「いつまで経っても返してくれねーんだもん、利息が溜まってんだワ。あとはー、オレらの部下をぶん殴って逃げ回った慰謝料もちょっと、な」

 弟が人を殴った? にわかには信じがたい話に開いた口が塞がらない。弟がそんなことをするような人ではないのは私が一番分かっている。弟は嵌められたのではないだろうか。いわゆる当たり屋のようなことを、彼らにされたのではないだろうか。
 呆然としている私を見下ろしていた男は、ニンマリと目を細めて言葉を続ける。

「臓器を売らせて死なれるのも寝覚め悪いしさぁ、せっかくだしお姉ちゃんが弟の返済に協力してやるのはどうよ? ウチ売春斡旋もやってるから丁度いいだろ」

 臓器を売るだの売春斡旋だの、おぞましい言葉の数々に思わず体が震える。漫画や映画の中でしか聞いたことのない言葉だ。
 私が動揺していることに気付いた男は「うんうん、ビビる気持ちはよぉく分かるよ」と薄っぺらい言葉を吐いた。

「兄弟がロクでもないのは大変だよなぁ、オレも兄貴がいるから気持ちは分かる。でもさ、やっぱ家族は助け合わなきゃだろ。なぁ、兄貴」

 男がそう言うと、後ろで煙草を吸っていたもう一人の男がこちらを振り向いて「そうそう」と口を挟み出した。

「風俗でもAVでも何でも紹介してやれるぜー、海外出稼ぎなんてのも最近オススメなんだ、けど――……」

 振り向いた男は私の顔を見るなり目を丸く見開き、ぴたりと言葉を紡ぐのをやめてしまった。薄ら笑いを浮かべていた表情が一瞬にして驚愕の表情へと変わる。ロングヘアのほうの男もその様子にただならぬ気配を感じたのか、「何、どうかした?」と不安そうに呼び掛ける。しかし男はその問いには答えず、ただじっと私の顔を見つめていた。

「………… ナマエちゃん?」
「え、どうして私の名前を……?」

 突然名前を呼ばれ、反射的に聞き返す。私にこんな知り合いがいただろうか。必死に記憶を辿るも思い出せない。真面目に生きてきた私に反社会的な知り合いなどいるはずもない。彼は一体何者なのだろう。
 私が覚えていないだけで、どうやら私と彼は知り合いのようである。バカ正直に覚えていません、なんて言うのも失礼かと思って次の言葉を言えずにいると、男は小さく「ははっ」と自虐的に笑った。

「覚えてない? オレ、灰谷蘭。忘れるなんてヒデーなぁ」

 まぁでも十年以上も前のことだもんな、しょうがねえのかなぁ。男はそう続ける。
 ――灰谷蘭。その名前には覚えがあった。長い髪を三つ編みにした美しい彼の姿が脳裏に浮かぶ。十数年ほど前に一瞬だけ付き合っていた私の元カレだ。記憶が一気に蘇り、背中に汗が伝う。
 たしかに言われてみれば、髪型などは変わっていてもその顔には過去の面影が残っていた。平行に整えられた眉毛に、アンニュイな雰囲気の目元。彼は間違いなく灰谷蘭、その人だった。

「え……、蘭くん……?」
「そうそう。久し振りだなぁ」

 私と蘭くんの会話を聞いていたロングヘアの男は目を丸くし、きょろきょろと私と蘭くんの顔を交互に見る。話の流れについて行けず、困惑した様子だった。

「兄ちゃん、コイツと知り合い?」
「うん、オレの元カノな。ナマエちゃん、こっちは弟の竜胆。会わせたことあったよな? ああ、でも昔すぎて忘れてっか」

 蘭くんはそう言って笑う。借金の取り立てに元カレが来たことだけでも驚きだが、先ほどまで緊迫した空気が流れていたことがまるで嘘のように、昔と同じように笑う蘭くんの姿も信じられなかった。
 私は悪い夢でも見ているのだろうか。もう二度と会うことはないと思っていた蘭くんと再び対峙することになるなんて。

「オレずっとナマエちゃんに会いたかったんだよ」

 蘭くんは穏やかな笑みを浮かべてそう言った。昔を懐かしむような、それでいて気恥ずかしそうにはにかむような、そんな笑顔だった。そして次の瞬間、蘭くんの顔から急に笑みが消える。

「テメーよくもオレのこと一方的に振ってくれやがったな。ずっと殺したいと思ってたんだよ」
「……ッ!」

 びく、と体が跳ねる。私を見下ろす彼の目はひどく冷たく、本当に殺されてしまいそうな迫力があった。いや、違う。殺されてしまいそう、なんてものじゃない。蘭くんは人を殺すことができる男だ。彼には傷害致死の前科があって、それで私は――……。
 サァ、と全身から血の気が引いていくのを感じる。恐怖で息を呑む私を見下ろす蘭くんは、嘲るように小さく笑った。

「ちょっと邪魔するなー」
「えっ!? ちょ、ちょっと……ッ!」

 私を押し退け、蘭くんは我が物顔で部屋の中へ入っていく。よろけた体を立て直して蘭くんの背中を追おうとすると、部屋の奥からは弟の「うわぁっ」という悲鳴が聞こえた。
 慌てて部屋へと戻ると、弟の肩へと手を掛ける蘭くんと目が合った。ニコニコと笑みを浮かべる蘭くんの自己イメージとしては、きっと私の弟と仲良く肩を組んでいるつもりなのかもしれない。しかし、弟の怯えきった表情からはとてもじゃないがそんな風には見えなかった。ただヘッドロックをキメられているようにしか見えない。弟は顔を真っ青に染めてガタガタと震えている。

「弟くんがバラバラに出荷される前になんか話しておきたいことある?」
「ちょっと……! 弟に手は出さないでよ!」
「金さえ返してくれたら許すつもりだったけどなー、オマエの弟だと思ったら気が変わった。あーあ、ナマエちゃんのせいで弟くん死んじゃうなんて、ほんと可哀想だなぁ」

 蘭くんはニヤニヤとした笑みを浮かべながら言葉を続ける。可哀想だなんて言っているが、これっぽっちも思ってないことがその声音から伝わった。ガタガタと震える弟がひどく哀れで、早く弟から蘭くんを引き剥がさなければ、と思った。

「やめて! 弟には手ぇ出さないでってば!」
「あぁでも、そーだな。ナマエちゃんがオレを振ったこと詫びてこれから一生奴隷として生きるって言うんなら特別にオレが借金肩代わりしてやるし、弟くんの命を助けてやってもいーよ?」
「な、何言って……」
「本当は殺したいほどムカついてたけど、でも今までのこと反省して謝ってくるなら許してやるって言ってンの。オレってすっごい優しくねー?」

 蘭くんはいつになく饒舌に話を続けた。付き合っていた頃はこんなに喋るような人ではなかった気がする。もっと口数が少なくて飄々とした雰囲気の人ではなかっただろうか。こんなことを言うような人ではなかったはずだ。あの頃とのギャップを感じてしまい、どうしようもなく怖くなる。

「オレももう大人だから前みたいに逃げられねーように躾できるようになったしさ。オマエのこと大事に飼ってやれるぜ? 悪い提案じゃねーと思うけど」

 後から追ってきた竜胆くんは、蘭くんのその言葉を聞いてギョッとしたような表情を浮かべる。

「兄ちゃん!? 何で勝手に女囲おうとしてんだよ!? やめろよ!」
「黙ってろ竜胆。今オレはナマエちゃんと喋ってんだよ」
「ハァ!? もー、兄ちゃんのそういうとこ本当嫌い! 勝手なことするなって言ってンの!」

 緊張感のない竜胆くんの声が部屋に響く。まるで子供の喧嘩だ。しかし、そんな竜胆くんに癒されていられるような余裕は私にはない。
 ガタガタと震える弟と、呆然と立ち尽くす私。拗ねた様子の竜胆くんと、笑顔だけど目の笑っていない蘭くん。お互いの間には異常なほどの温度差があった。

「ナマエちゃん、どうするか早く決めてくンない? オレせっかちだからさー、早くしないとイライラして弟くんの首絞めちゃうかも」
「ひぃ……ッ!!」

 肩に回されていた蘭くんの手が弟の首にかかる。幸いにもまだ首に触れているだけで絞め上げられてはいない。しかし、彼のその手に力が込められるのは時間の問題だ。いつ弟がその毒手の餌食になるか分かったものじゃない。

「わ、分かった! 蘭くんの言うこと聞くから弟から手を離して……ッ!」

 弟を助けるためにそう叫ぶ。すると蘭くんは満面の笑みを浮かべて「本当? やったー」と、まるでおもちゃを貰った子供のように声を上げた。

「じゃあナマエちゃん今すぐ土下座してオレに謝ってよ。『蘭くんのこと裏切ってごめんなさい』って。できるよな? 弟くんの命と自分のプライドだったらどっちを捨てるべきかなんて考えなくても分かるもんな?」

 それはひどく穏やかな声音だった。しかし、内容は穏やかさの欠片もなく、その声音とは裏腹に有無を言わさぬ強制力を含んでいる。私に選択肢などなく、震える足に鞭を打って床に膝をつく。
 あのときはごめんなさい。そう言いながら上体を曲げて額を床に擦り付けると、私の頭上から「あはは」と楽しそうな声が降り注いだ。ひどく屈辱的だ。

「うんうん。それで?」
「……私はどうなってもいいので弟には手を出さないでください」
「いーよ。許してあげる」
「……。ありがとう、ございます……」
「じゃあ竜胆、コイツの借用書こっちに渡せ。オレがあとで処理しておくから」

 私の弟から手を離した蘭くんは、竜胆くんに向かってそう言った。竜胆くんはそれに対して面倒臭そうに舌打ちし、「はーい」と一言。それから竜胆くんは私の弟のことをチラリと見下ろしてこう言った。

「せっかく姉ちゃんが体張って助けてくれたんだから余計なことは考えないほうがいいぜ。オマエが無駄死にすることになったら姉ちゃん悲しむからな」

 それは警察に届け出たりするな、という警告なのだろう。余計なことをしたら殺す。そういう脅しだ。

「……姉ちゃん」
「うん。私は大丈夫だから」

 不安そうに私を見つめる弟を元気付けるように口角を上げる。私は大丈夫だから心配しないで。そう伝えたかった。だが、今の私は上手く笑えていたかどうか分からない。
 じゃあ帰ろうか、そう言いながら差し出された蘭くんの手をじっと見つめる。この手を取ったら最後、私はもう二度と生きては帰れないのだろう。怖くないと言えば嘘になるが、それでも私にはこの手を取る以外の選択肢はない。握った蘭くんの手は昔と変わらず、大きくて温かかった。


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