3


 それ以降、私はこのマンションから一歩も外に出ていない。状況だけを見たら監禁されていることとほぼ同義だが、それはよく想像されるような監禁生活とは違っていて、私は放し飼いにされていた。檻もなければ鎖もない。部屋の中でさえあれば、私は自由に動き回ることができていた。これはいわゆる軟禁と言うものだろうか。
 逃げようと思えば逃げられるのかもしれない。だが、逃げたあとにどうなるのかを考えると、どうしても逃げる気にはならなかった。実家の場所も交友関係も、蘭くんにはすべてを把握されている。どうやって調べたのかは分からない。分かりたくもない。

 大人しくさえしていれば周りに手は出さない、と言った蘭くんの言葉を信じて、私はただ大人しくしていることしかできなかった。
 実際、彼に手を上げられたのは再会したその日だけだ。それ以外は付き合っていた頃と同じように優しく接してくれていた。ダラダラと一緒にテレビを見たり、昼過ぎまでただ抱き合って眠ったり。若い頃は二十四時間眠れると言っていた蘭くんだったが、流石にもう長時間ぶっ続けで眠ることはできなくなったらしい。その変化が、私たちの間に流れた時間の長さを物語っている。こんな風に昔を懐かしむ余裕もあるほど、この生活には危険性を感じられなかった。
 とりあえず身の危険を感じない以上、急いで逃げ出す必要はない。色々あったとは言え蘭くんのことは嫌いになれないし、しばらくはこのままでも良いかもしれない。そう思っていた。

「次のニュースです。××県の山林で全身を強く打って死亡したと見られる男性の遺体が発見されました。男性は行方不明だった×××××さんと見られており――……」

 何の気なしに点けたテレビには、ニュース原稿を神妙な面持ちで読み上げるキャスターが映っていた。キャスターの読み上げた名前を聞いて、私は思わず握っていたリモコンを落としてしまった。床に落ちたリモコンはゴトン、と鈍い音を立てる。

「え、な、なんで……?」

 テレビは亡くなった男性の生前の写真を映し出す。――それは私の彼氏だった。
 サァ、と全身から血の気が失せていくのを感じる。ドクンドクンと嫌な音を立てる心臓がうるさくて、キャスターの読み上げるニュースが頭に入ってこない。額には汗が浮かぶ。私の指先はわずかに震えていた。

「手、出さないって、言って……、え? な、に……どういうこと……?」

 視界が歪んでいくような錯覚に陥る。私の頭はひどく混乱していた。蘭くんは彼のことを解放してくれたのではなかっただろうか。私が大人しくしていれば、周りには手を出さないと言っていなかっただろうか。それなのにどうして。
 キャスターは「××さんは×月×日頃から行方不明となっており――……」と被害の詳細を語っている。その日付は私が彼とデートをする予定だった日だ。いや、それと同時に、その日は私が蘭くんに拉致された日でもある。その日から行方不明扱いになっているということは、蘭くんが彼を解放した、と言ったことは真っ赤な嘘だったのだと分かる。つまり、彼の死には蘭くんが関わっている。

 ――じゃあ、私の家族や友人は?

 ぶわ、と全身から脂汗が噴き出すのを感じた。蘭くんの言葉が嘘で、彼も殺されていたとなると、私の家族や友人が無事である保障はないのではないか。彼と同じように、すでに消されてしまっているかもしれない。嫌な想像が頭の中を駆け巡る。不安に圧し潰されそうで、私の呼吸はどんどんと荒くなっていった。上手く息ができない。苦しい。頭が痛い。今この部屋にいることが、どうしようもなく恐ろしくなった。
 今、私のスマホは取り上げられていて手元にない。固定電話やネットに繋がるような機器もこの部屋にはない。家族たちの安否を確認する術を私は持っていなかった。このマンションから出て行って、直接この目で確認する以外は。

「に……逃げ、なきゃ……ここから……」

 私の足はまっすぐに玄関へと向かった。持ち出したい荷物もない私は文字通り着の身着のままで、何度ももつれそうになる足を必死で奮い立たせながら歩みを進める。広いリビングと廊下が憎らしい。玄関までの道のりが非常に遠く感じた。
 何とか進み、玄関に設置されたシューズボックスを開く。中には蘭くんの革靴やブーツ、有名ブランドの限定スニーカーなどが入っていた。その中に一つ、私が履いていたパンプスもある。それを手に取って裸足のまま履き、ドアノブへと手を掛ける。オートロックのこのドアに内鍵は付いていなかった。
 とりあえずここから出て、交番を探そう。それで電話を借りて、実家に連絡しよう。どうか無事でいてほしい。そう思いながらドアを開く。早く逃げなくちゃ。早くここから出て行かなくちゃ。
 開いたドアからは、廊下が見えるはずだった。しかし目に飛び込んできたのは、見慣れたストライプのスーツ。ヒュッ、と私の喉が鳴った。

「どうしたんだよナマエ、もしかしてオレのこと出迎えに来たとか? ハハッ、熱烈」

 口角を上げて笑みを浮かべる蘭くんが、私にはとても恐ろしいものに見えた。私の心臓はドクドクと音を立てている。もし逃げようとしていたことがバレたら、そうなったら私は一体どうなってしまうのだろう。
 家族の安否も気になるが、すぐに自分の身の安全を心配してしまった私が、ひどく利己的な人間のように思えた。しかし、そんな風に自分に嫌悪感を抱く余裕などなかった。私にはただ恐怖に震えながら、目の前に立つ蘭くんを見上げることしかできない。

「――まさかとは思うけど、逃げようとしてたなんて言わねぇよな?」

 私の足元にチラリと視線をやった蘭くんは、その顔に笑みを残したまま私に問いかけた。それに対し、私はブンブンと首を左右に振る。あまりの恐怖に声が出ない。だが、その問いを否定しなければもっと恐ろしいことが起こるはず。そう思って、私は私にできる精一杯の否定を表した。
 真っ青な顔をして、挙動不審な様子で首を振る女。傍から見たら私のこの否定は苦し紛れの嘘であるとすぐに分かってしまうだろう。しかし、蘭くんはそれについて深く追求はしなかった。彼は優しい微笑みを浮かべる。

「家入りてぇからさ、ソコどいてよ」
「あ……ご、ごめんなさ……」
「ナマエも早くリビング戻れよ。今日さ、取引先から貰ってきたブランデー持って帰って来たの。一緒に飲もうぜ」

 蘭くんは手に持っていた紙袋を掲げて見せる。そうして彼は後ろ手で玄関のドアを閉めた。オートロックが掛かる音が部屋に響く。その音は私にとって、とても絶望的な音のように聞こえた。

 蘭くんに促されるまま広いリビングへと戻る。点けっぱなしのテレビの放送は、いつの間にかニュースから旅番組へと切り替わっていた。私がニュースを見たことが蘭くんに知られなくて良かった、と少しだけホッとする。
 床に落ちたままのリモコンを蘭くんは拾い上げ、「ナマエ、慌てすぎだろ」なんて言って笑った。そして蘭くんはリモコンをテーブルの上に置いてから、氷の入ったグラスを二つ持って来ると、そのグラスに貰ってきたと言うブランデーを注ぐ。ブランデーがグラスに注がれた瞬間、強いアルコールの香りが鼻腔をくすぐった。

「イエ、乾杯」

 蘭くんはグラスの片方を私に渡すと、チン、と音を立ててグラスを重ねた。そうして蘭くんはグラスに口を付け、ブランデーを飲み下した。花札柄の刺青が入った彼の喉仏が上下に動く。

「ナマエは飲まねぇの?」
「あ……、ううん。い、いただきます……」

 私の指先は未だかすかに震えている。手に持ったグラスを落とさないようにすることに必死で、それを飲んでみても私には風味なんて分からなかった。ただ喉を焼くような刺激だけを感じる。
 強いストレスとブランデーの刺激が重なり、胃液が食道を競り上がってきた。吐き戻したりしないよう、私はそれをグッと飲み込む。苦しい。怖い。気持ち悪い。蘭くんの隣にいることが恐ろしくて堪らない。
 どうして解放すると言いながらも彼を殺したのか。私の家族や友人たちは無事なのか。いっそ蘭くんに直接聞いてしまおうかとも思う。しかし、それを聞いたことによって蘭くんの機嫌を損ねてしまったら。私まで酷い目に遭ってしまったら。そう思うと、聞くに聞けない。

「ナマエ、あのニュース見た?」

 ――蘭くんの突然のその問いに、心臓が口から飛び出してしまいそうなほどに跳ねた。ドッ、ドッと、心臓は大きな音を立てる。
 どうしよう、蘭くんに気付かれた。これは素直に肯定したほうが良いのだろうか? それとも、知らぬふりをしたほうが良いのか? 分からない。何を選択するのがベストなのだろう。ああ、でも肯定してしまったら、私が逃げ出そうとしたことも芋づる式に気付かれてしまうかもしれない。それはかなり、まずいのではないだろうか。
 彼氏の死は確定してしまったけれど、まだ家族や友人にまで手を出されたと決まったわけではない。私が逃げ出そうとしたことが蘭くんにバレてしまったせいで、無事であったはずの人たちにも被害が及んでしまったら。それだけは避けたい事態だ。きっと知らぬふりをするのが正解だろう。そう思いながら、震える唇を開く。

「……し、知らない。見てない……」
「へぇ、本当に?」
「ほ、本当。何も知らない、から……」
「……。毎日いろんなニュースが流れてっけどさぁ、ナマエは『あのニュース』って言われただけで何か分かんの?」

 私を見下ろす蘭くんは無表情で、何を考えているかが分からない。ただ、私は選択を間違えてしまった、ということだけは分かった。

「あ……ご、ごめ、なさ……」
「えー、別に怒ってねぇよ? さっきからオマエ挙動不審だったし、バレたのには気付いてた」
「…………」
「アイツがどうやって死んでいったかは言わねぇけどさ、ナマエに聞いてほしいことあんの」

 蘭くんはまるで学校であった出来事を母親に語る子供のように、嬉々とした様子で私に体を向けた。

「アイツに動画見せたんだよ、やっぱナマエはオレの物だって教えておきたかったからさ。そしたらさぁ、アイツなんて言ったと思う?」

 蘭くんの語る動画とは、あの動画のことか? ここに連れて来られた日に撮影された性行為の動画。
 見せないでと言ったのに。私との約束はことごとく破られている。どうしてこんなにも非道なことができるのだろう。しかし蘭くんにはその自覚がないのか、彼は悪びれもせず言葉を続けた。

「オマエのこと『クソ女』っつっててさー、なんかムカついちまって。オレが言うのは良いけど他人に言われんのは嫌、みたいな? 年甲斐もなく竜胆に止められるまで殴っちゃった」

 オレってワガママなのかなー、蘭くんは独り言のようにそう呟く。私はそんな蘭くんのことが信じられなかった。あまりにも自分勝手で、他人のことなんて少しも考えていない。あまりにもひどい。ひどすぎる。
 私の体の震えは恐怖からか、それとも怒りからか。頭の中がぐちゃぐちゃで区別がつかない。ただ私はどうしても、蘭くんへの非難の言葉を口にしたくなった。

「……や、約束……したじゃん。なんで、そんなことするの……?」
「はぁ? 何の話?」
「ど、動画見せないでって……。あと、彼のことも……解放してほしいって、私……言ったよね……?」
「ああ、それ? 了承した覚えはねぇけど。オレ言った? 『アイツのこと解放してやる』って。言ってないけど」

 蘭くんはあっけらかんとした様子でそう言った。開いた口が塞がらない、とは、今のような状況のことを言うのではないだろうか。返す言葉が見つからない。ただただ絶望的で、目の前が真っ暗になるような錯覚に陥った。
 どうして蘭くんはそんな風に平然としていられるのだろう。罪の意識とか、良心の呵責とか、そういったものは彼の中には存在しないのだろうか。――存在しないのかもしれない。そんなものがあったら、反社会的組織の幹部なんてやっていられないのだろう。『梵天』は暴力も薬物も売買春も、なんでもありの組織だとニュースでも放送していた。蘭くんはそんな組織の幹部なのだ。まともなはずがない。過去に長く付き合っていたからと言って、私には優しくしてくれていたからと言って、それを忘れるべきではなかった。

「それにナマエも言ったじゃん、『オレだけいればいい』って。元彼が死んだくらい別にどーでもよくね?」

 蘭くんはそう言うと、肩に腕を回して私を抱き寄せた。スーツ姿の彼からはいつも強い香水の香りがする。その香水にかすかに混ざった血の臭いに、私はずっと気付けなかった。彼が狡猾で恐ろしい人であると、私は気付けていなかった。私が愚かだったせいで、私が軽率な言葉を口にしてしまったせいで、人が死んでしまった。胸が張り裂けるような思いだ。ああもう、死んでしまいたい。

「オレにはナマエと竜胆がいればいーの。だから今オレ超幸せ。極上人生って感じ」

 蘭くんは目を細めて笑っている。その表情から、彼の言葉は嘘偽りではないと感じた。きっと彼は本当に幸せを感じていて、きっと本当に人生を楽しんでいる。

「ナマエもオレといられて幸せだろ?」

 この問いに否と答えられたら何か変わるのだろうか。蘭くんは考えを改めてくれるのだろうか。いや、きっと変わらない。亡くなった人は戻ってこない。ならもういっそ、すべてを諦めてしまったほうがいいのではないか。
 蘭くんに拉致された日のことを思い出す。あのときの私も、すべてを諦めた。あのときはこれが人生のどん底だと思っていたけれど、それよりももっと下があるなんて思わなかった。あのとき蘭くんの言葉に否を唱えられていたら何かが変わったのだろうか。良かれと思って取った行動がすべて裏目に出て、取り返しのつかない事態になってしまった。
 体の奥がぞわぞわとする。頭の中がぼんやりとして、すべてが麻痺していくような気がした。

 ――私が好きなのは蘭くんだ。世界で一番残酷で、世界で一番素敵な人。彼のいない人生なんて意味がない。復縁できて本当に良かった。私も彼と同じで、とっても幸せだ。

 もう私には、そうやって自分に言い聞かせることしかできない。すべてを諦めてそう思い込まなければ、正気を保っていられない。
 彼の問いに答えるように蘭くんにキスをすると、わずかにブランデーの味がした。



抱薪救火【ほうしん-きゅうか】
害を除こうとして、かえってその害を大きくすることのたとえ。 火を消すのに薪を抱えて行く意から。




- ナノ -