容疑者は依然逃亡中


「どうした、ミョウジ? 何か悩みでもあンのか?」

 はぁ、と小さく溜め息を吐くと、隣の席に座っている場地くんがそう声をかけてきた。
 場地くんはとても真面目な男子生徒だ。厚い眼鏡をかけ、長い髪は一つにくくっており、『ガリ勉眼鏡のお手本』のような出で立ちをしている。だが、そんな見た目とは裏腹に頭はあまり良くないようで、彼は授業中いつも四苦八苦している。休み時間も辞書を広げて必死に手紙を書いているらしい。そんな彼を見かねて私から声をかけたのが始まりで、それからちょこちょこと話をするようになった。主に、私が勉強を教えているだけなのだが。

「うん。ちょっとね……」

 今、私の頭を占めているのは悩みというか心配事である。兄弟がトラブルに巻き込まれてしまったようで怪我を負ってしまったのだ。それが心配で勉強が手につかない。
 だが、それは真面目な場地くんとは無縁な話である。彼にこんな話をして心配させるのも忍びないと思い、言葉を濁す。

「嫌なことでもあったか?」

「ううん、私じゃないの。兄弟がちょっと怪我しちゃって」

 そう手短に伝える。普通の友達であればそう伝えれば、あまり詳細に話したくないと思っていることを察して「そうなんだ。大丈夫?」なんて言ってくれてそこで会話は終了だ。だが、場地くんは一筋縄ではいかなかった。彼には察するという発想がないのかもしれない。場地くんはなおも質問を続ける。

「怪我?」

「……うん。ちょっと不良に絡まれちゃったみたいで」

「ああ、喧嘩か? ンなもんツバ付けときゃ治るだろ」

「喧嘩っていうか、一方的に絡まれちゃったみたい。顔をすっごく腫らして帰ってきたからびっくりしちゃって」

 ボロボロになった兄弟の顔を思い出してしまい、じわりと目頭が熱くなる。兄弟の頬は殴られて赤く腫れ上がり、服は土と自身の流した血で汚れていて、転んでできた傷とは比べ物にならないほどに痛々しい姿をしていた。漫画の世界でしか見たことのないようなボロボロの姿を見て、現実にもそんなことが起きるのかと、ひどく怖くなったのを覚えている。
 血と涙を流した情けない表情を浮かべながら帰ってきた兄弟の姿を見たその瞬間の恐怖と心配が一気によみがえり、私の目からは一粒の涙が零れ落ちる。

「えっ、な、泣いてンのか!? だ、大丈夫かミョウジ!?」

 私の流した涙を見て場地くんは慌てだした。私の背をさすろうと伸ばした手を引っ込め、いややっぱり慰めよう、とばかりにまた手を伸ばす。そしてまた、私の体に触れる直前に手を引っ込める。オロオロと忙しなく動く彼のあまりにもひどい挙動不審さを見て、曇りかけていた心が少しだけ晴れた。

「ふふっ、場地くん今すごい変な動きしてる」

「そっ、そりゃ急に泣かれたら誰だってそうなるだろ!?」

「……ごめんね、泣いちゃって。大丈夫だよ」

 手で涙をぬぐい、笑顔でそう答える。兄弟のことがショックなのは事実だが、これ以上場地くんに心配をかけさせるわけにもいかない。気持ちを切り替えなければ。
 そう思った私とは違い、場地くんは変わらず心配そうな顔で私を見つめていた。彼は言葉を選んでいるのか、あー、とか、うー、とか口ごもり、そして意を決したように口を開く。

「あー……その、なんだ。誰にやられたか分かるか?」

「え?」

「ミョウジの兄弟を殴った奴だよ。俺がそいつらにお礼参り……じゃねぇ、もう絡んでこねぇよう話を付けてきてやるから」

「えっ!? いいよ、そんなこと! そんなことしたら場地くんが危ないじゃん!」

「舐めンな。こう見えて腕には自信あるんだワ」

 そう言って場地くんはニカッという効果音が付きそうな笑顔を浮かべる。場地くんの大きな口からは鋭い八重歯が顔を覗かせていて、七三分けに眼鏡という出で立ちに違和感を覚えてしまうほど、ヤンチャな印象を受けた。
 真面目な場地くんに迷惑をかけてはいけない、なんて思っていたけれど、場地くんなら何とかしてくれるかもしれない。そんな風に思えてしまうほど、彼が頼もしく見えたのだ。
 一度頼もしいと感じてしまったが最後、私の口からはとめどなく言葉があふれて止まらなくなってしまった。

「なんか背の高い黒髪と背の低い金髪の二人組で、そのうちの片方にやられたらしいんだけど」

「おう」

「黒髪のほうが『腹減ってイライラする』って言って殴りかかってきたみたいで」

「……んっ?」

「金髪のほうはそれを見てゲラゲラ笑ってたんだって。全然止めてはくれなかったみたい」

「………………」

「ひどいよね。何にもしてないのに」

「………………」

「……場地くん? 聞いてる?」

「えっ、お……、おう」

「たしかに私の兄弟もちょっとヤンチャな見た目してたよ? でも、だからってそんな理由で……」

「……あの、あのよミョウジ。その黒髪って……、その、長髪だったか?」

「うん、ちょうど場地くんと同じくらいの長さかも。有名な人なの?」

 私がそう問うた瞬間、ぶわ、と場地くんから滝のような汗が流れ始めた。まるでサウナにでも入っているかのようだ。突然の発汗に思わずぎょっとする。

「えっ!? ば、場地くん!? どうしたの、大丈夫!?」

「いいいいいいや、ななな何でもない」

「何でもないって言えるような汗の量じゃないよ!?」

「ままままじで、ほんと、ななな何でもねぇよ」

「何でもなくないってば! どうしよう、保健室行く!?」

「ああ。ちょ、ちょっと休んでくるワ。ごめんなミョウジ」

「ううん、大丈夫。一人で行ける? 一緒に行こうか?」

「おう。一人でダイジョブ……」

 場地くんはそう言うと、ふらふらとおぼつかない足取りで立ち上がり、歩き出した。先ほどまでの頼もしい印象だった場地くんとは対照的な、まるで今にも死にそうな病人のようになってしまっている彼の背中を心配しながら見守る。
 場地くんはガン、と教室のドアにぶつかった。そしてそのまま、ふらふらと歩いて出て行った。

「だ、大丈夫かな……場地くん……」

 場地くんが変になってしまったのは絡んできた不良の特徴を教えてからだ。もしかしてその不良は場地くんも知っている人なのだろうか。

 地元ではその存在を知らない人はいない最強最悪の不良とか?

 私の兄弟はなんて奴に絡まれてしまったんだと絶望する私には、その犯人がたった今教室を出て行った場地圭介、その人であることは知る由もなかった。


場地くんがお腹減ってやらかした行動は「車に火をつける」が正しかったです。すみません。




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