femme fatale


 今日はバレンタインの日。赤音ちゃんがせっせとクラスメイトにチョコを配っている様を、私は教室の隅でただじっと見ていた。クラスの女子たちは自分の持ってきたチョコと赤音ちゃんのチョコとを交換。男子は義理だと分かっていても、赤音ちゃんから渡されるチョコにドギマギとしていた。まぁ、彼女は顔が整っているうえに性格も天真爛漫で可愛いから、男子が慌ててしまうのも仕方がないのだけど。彼女にチョコなんて貰ったら好きになっちゃうのも頷けるけど。本当に赤音ちゃんは人を狂わせるのが上手だなぁ。

 そんな風に冷静を装って観察している私も、何を隠そう赤音ちゃんに狂わされた人間の一人だった。女同士なのに何を狂わされているんだか。そう自虐してみても、私が赤音ちゃんに狂わされてしまった事実は覆らない。私は赤音ちゃんのことが好きだ。
 だが、当然のように私と赤音ちゃんは恋人同士でもなんでもなく、ただの友達でしかなかった。だから私もみんなと同じチョコを貰うんだろうな。そう思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだ。

 私は赤音ちゃんの特別になりたい。友達Aではなく、名前の付いた特別な関係になりたい。でも現実は非情だ。私は赤音ちゃんと同性の女で、私は彼女の王子様にはなれない。彼女を火事の中から救い出したという小学生の九井くんのほうが、私よりもよっぽど王子様らしい。私は小学生の男の子にも負けちゃうのかな。私も男の子に生まれたかった。だって私は赤音ちゃんのことが好きだから。私も彼女の王子様になりたかった。いくらそう願ってみても、現実の私は王子様でもなんでもない、赤音ちゃんにとってはただの友達でしかなかった。

「ね、ナマエちゃん。ちょっと来て?」

 ――昼休み。赤音ちゃんがおずおずと話し掛けてきた。私の机の前でしゃがみ込んで、私を上目遣いで見上げる赤音ちゃんの顔はとても可愛かった。彼女のうるんだ瞳は、窓から差し込む陽の光に照らされていて、まるで宝石か何かのようにキラキラと輝いていた。思わず頬に熱が集まる。鼻を掻くふりをしながら赤くなった顔を隠し、何でもないように「どうしたの?」と聞くと、赤音ちゃんは「いいからこっち来て」と言って立ち上がった。その瞬間、彼女の柔らかそうな髪がふわりと揺れた。

 可愛い赤音ちゃんからの誘いを断ることなんてできず、私は言われた通りに彼女の後ろをついていく。人気のない階段の踊り場まで行くと、彼女はキョロキョロと辺りを見回して人がいないことを確認していた。どうしてそんなに人目を気にしているのだろう。チョコを渡すくらいなら別に教室でも良かったのに。
 赤音ちゃんは私たち以外に誰もいないことを確認すると、「あのね」と恥ずかしそうにしながら綺麗にラッピングされた袋を差し出してきた。ああ、やっぱりチョコか。もしかして告白されるのでは、なんていう淡い期待が打ち砕かれるも、彼女からチョコを貰うこと自体は嬉しかった。お礼を言って差し出されたそれを受け取る。

「友チョコ? 教室で渡してくれても良かったのに」
「ううん。ナマエちゃんのは特別だから」
「――え?」

 思わず聞き返す。パッと赤音ちゃんから渡されたそれに視線を落とすと、たしかにそれは赤音ちゃんがクラスメイトに渡していたものとは違う包装をしていた。ずっと赤音ちゃんのことを見ていたから分かる。私が間違えるわけがない。

 ――もしかして私だけが他のみんなとは違うものを渡された?

 期待感と高揚感で心臓の鼓動が早くなる。手に持ったそれから視線を上げて赤音ちゃんの顔を見ると、ぱちりと視線が噛み合った。彼女は私の瞳をまっすぐ見つめながら、長いまつ毛にふち取られた大きな目を細める。そして薄ピンク色の唇に自身の人差し指を当て、しーっ、と息を漏らした。

「みんなには内緒だぞっ」

 その顔を見て、私の心臓は大きく跳ねた。口から心臓が飛び出てしまうのではないかと不安になるほど、ドキドキを超えてもはやドコドコと音が鳴るほど、私の心臓は暴れまわっている。動揺しすぎて私の口からは「ぅえ、あ……?」なんて間抜けな声が漏れた。そんな私を見て、赤音ちゃんは「あははっ」と声を上げて笑う。

「ナマエちゃん顔真っ赤だよ」
「あ、ご、ごめん。なんか、嬉しくて……」
「……本当?」
「うん。本当に」
「良かったぁ。実はね、ナマエちゃんの分だけ手作りなの」
「え」
「ううん、なんでもないっ!」
「え、ちょっと……、え?」
「恥ずかしいからお家帰ってから食べてね!」

 それだけ言って、赤音ちゃんは私をその場に残して走り去ってしまった。去り際に見えた赤音ちゃんの頬はいつもより赤く見えたような気がして、また私の心臓は一揆を起こしたかのように暴れ始める。

 それはズルいよ。これ以上私を狂わせないでほしい。私の手のひらに鎮座する彼女からのチョコを見ながら、私はそう考えていた。


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