抱薪救火


※暴力描写 ※倫理観の欠如
※元カレの(梵)蘭


 待ち合わせに遅刻しないよう、余裕を持って出掛けたら拉致された。スモークガラスの車が近付いてきた時点で警戒しておけば良かった、と後悔してももう遅い。浮かれすぎて頭がお花畑になっていた自分を呪うことしかできない。
 失恋を引きずっていた期間が長かったというのもあるが、私は長い間ずっと独り身だった。それが有難いことに最近やっと彼氏ができ、これからデートに行く予定だった。弾むような気持ちで目一杯のオシャレをして、新しく買ったばかりの靴を下ろしたりして、可愛い下着も身に付けたりなんかしちゃって、今日はとても楽しい一日になるはずだった。それがどうだ、今や私は見知らぬ場所にいる。

「…………」

 口には轡を噛まされていて、手足は縛られている。身動きは取れない。今いるここは貨物倉庫のようで、パレットに乗せられた荷物が高く積みあがっていた。ややホコリっぽい臭いが鼻に付く。それと同時に、わずかな鉄臭さも感じた。床には赤黒い色の汚れが付着していて、それは飛び散った血のようにも見えた。

 倉庫での作業中に怪我をするのはよくあることだろう。紙の端で指を切ったり、ダンボールを足の上に落としたり。だが、床に付着した汚れはそのような可愛らしい怪我で流れる血の量をはるかに超えていた。それこそ、ドラマや映画の中で見た殺人現場のようだった。というか、殺人現場のよう、なのではなく、実際にこの場所で殺人が起きていたのではないだろうか。現に私も拉致されてここに連れてこられた。拉致の時点で紛れもない犯罪だ。拉致をするくらいなのだから、それに加えて殺人が行われていてもおかしくはない。

 私もこのあと殺されるのだろうか。そんなことを考えていると、遠くからカツカツとこちらに近付いてくる足音が聞こえ始め、ビクリと体が跳ねた。心臓はドッ、ドッ、と大きな音を立てていて、動揺から私の額には汗が伝った。拘束されて身動きの取れない体では、振り向いて足音の主の姿を確認することはできない。私を拉致した人物は一体誰なのか。私はこれからどうなるのか。何も分からない。怖い。体が震える。
 近付いた足音は私の背後で止まった。

「ナマエ。久し振り」

 私の名を呼ぶ声がする。それは聞き覚えのある男の声だった。
 声の主――灰谷蘭は、私の元恋人だった。彼は長い三つ編みがトレードマークの人で、付き合っていた当時の私と蘭くんの仲は良好だったように思う。蘭くんはワガママだし前科持ちの不良だったけれど、それでも私は彼のことが好きだったし、彼も彼なりに私のことを大切にしてくれていたと思う。突然、別れを切り出されるまでは。

 特に喧嘩をしたわけではないし、倦怠期を迎えていたわけでもない。蘭くんの性格を考えて浮気をされたわけでもなさそうだが、突然、本当に何の脈絡もなく別れを切り出された。最初は冗談だと思ったくらいだ。でもその日は四月一日《エイプリルフール》ではなかったし、蘭くんは笑ってもいなかった。話し合いもままならず、音信不通にされることで私たちの関係は強制終了した。何故そんなことをされたのか理由も分からず、私は立ち直るまでに長い時間をかけてしまった。

 やっと蘭くんに対する気持ちが落ち着いて、新しい恋を始めようと前を向いたところだったと言うのに。新しい彼氏ができて、幸せな毎日が始まるところだったと言うのに。それなのにどうして。ああもう、本当に会いたくなかった。

「ナマエは拉致なんてされたことないよな。どうよ、ドキドキした? 刺激的な再会だと思わねぇ?」

 彼は私の目の前まで歩いてくると、しゃがんで私と目線を合わせた。恐る恐る蘭くんの顔を見ると、そこにはトレードマークだった三つ編みはなく、髪色も変わっていた。黒と金で交互に染められていた髪は紫色の派手なものになっていて、長かった髪は短くなっている。そして変化はもう一つ、彼の喉元には昔はなかった新しい刺青が入っていた。
 オシャレな風貌であることに変わりはない。だが、受ける印象は付き合っていた頃のものとはまったく変わっていた。呆然と彼を見つめる私の視線に気付いた蘭くんは、「ハハッ。やっぱ髪型変えたの分かる?」と言いながら右手で自分の髪を触った。

「失恋したら髪切るってよく言うだろー? ナマエと別れてからバッサリ行ったの。短いのも似合ってるだろ。ほら、オレってばどんな髪型しててもカリスマ性が漏れ出ちゃうからさ」

 蘭くんは小さく笑いながらそう言った。昔よりもほんの少し口調が柔らかくなっていたが、自意識過剰なところは少しも変わっていなかった。
 いや、今はそんなことどうだっていい。彼は一体何がしたいのか。蘭くんは別れて他人に戻った私に一体何の用があってこんな風に拉致したのか。そう聞きたかったけれど、轡を噛まされているせいでそれを口に出すことはできなかった。
 そんな私に気付いているのかいないのか、蘭くんはヘラヘラと笑みを浮かべながら喋り出す。

「ンなことよりさぁ、ナマエの新しい男。オレより背も低いし顔も悪いし金も持ってねぇじゃん。何あれ、趣味悪くねぇ?」

 ピクリと体が跳ねる。蘭くんの語る「新しい男」とは、私の彼氏のことだろうか。これからデートをする予定だった私の彼氏。彼は蘭くんとは面識はないはずだ。どうして蘭くんの口から彼の話題が出るのか分からない。

「ナマエのこと拉致るついでにそいつもボコってみたけど、雑魚すぎてお話にもなんなかったぜ? 何が良かったんだよ」

 私を拉致したことに加え、まさか私の彼氏にまで手を出していただなんて。最悪だ。どうしてこんなことになってしまったのか。
 なんで、思わずそう口をつく。だが轡を噛まされているせいで、私のその発音は「なんで」ではなく「あんえ」にしかならなかった。案の定、蘭くんは私の言葉を聞き取れなかったようで「何言ってっか分かんねぇんだけど」と笑った。

「騒がねぇって約束すんならソレ、取ってやってもいいぜー?」

 蘭くんの長い指が轡を指し示す。こくこくと頷いて彼の言葉に従うという意思表示を見せると、蘭くんはまるで抱き締めるかのような姿勢で私の後頭部にある轡の結び目を解いた。彼の体が近付いた瞬間、強い香水の香りが鼻腔をくすぐった。付き合っていた頃とは違う香りだ。それが何だか無性に残念に感じた。

 口に噛まされていた轡がなくなり、開放感を覚える。はぁ、と大きく息を吸う。そんな私のことを、蘭くんはただじっと見ていた。

「――なんでこんなひどいことするの?」

 私がそう言うと、蘭くんは一瞬だけキョトンと目を丸くした後、あざけるような笑みを浮かべながら「オレ昔からひどいことしかできねぇ男だったけど」と言った。しかしそれを言い終わるや否や、蘭くんの顔からサッと表情が消える。

「でもオマエはオレのそういうとこも含めて好きっつってただろ」

「ッ、それは……」

 一瞬だけ言葉に詰まるも、それは付き合っていた当時の話であって今現在とは何の関係もない話なのではないか、と思い直す。いや、仮に付き合っていたとしても、私や私の周りの人物に被害が及ぶことまで許容する必要はない。少なくとも、私の彼氏に危害を加えたことに関しては糾弾しなければならないだろう。そう思って抗議の言葉を口にする。

「……わ、私の彼氏にまで手を出すのは違うんじゃ」

「はぁ?」

 私の言葉を遮るように発されたドスの効いた声に思わず体が強張った。ビクリと体を震わせた私を見て、蘭くんは小さく鼻で笑う。

「つーかオマエさぁ、オレのことずっと好きっつってただろ。それは嘘だったってこと?」

「な、なに言って……」

「別れたくないって言ってたのに何で新しい男作ってんだよ。オマエの言葉を信じたオレがバカみてぇじゃん」

「…………」

「謝れよ。オレのこと傷付けてごめんなさいって」

「…………」

 ――何を言っているのか分からない。蘭くんの言っていることはめちゃくちゃだ。彼は元から少しズレているところがあったが、その性格が今は完全に悪い方向に作用している。

「ずっと好きだっつったのはオマエだろ、ナマエ。言ったからには相応の覚悟をしてもらわなきゃ困るんだけど?」

「……で、でも、別れたらそれでおしまいじゃ――……」

「あぁ? 別れたからってそれで終わりなワケねぇだろ」

「え……」

「オマエが『蘭くんのこと一生好きだから』っつーから安心して別れたを告げたってのにさー。裏切り? ヒデーなオマエ」

 絶句する私を見て眉をひそめた蘭くんは、そのまま怠そうに宙を見上げた。そしてハァー、と溜め息のように大きく息を吐く。宙を見上げながら一呼吸した蘭くんが視線を私に戻すと、彼は右手で自身のスラックスの尻ポケットをまさぐり始めた。

「ほら、これ見て」

 そう言って蘭くんはスマホの画面を私に向ける。そこには袋叩きに遭ったようにボロボロな姿で横たわる彼氏の姿が映っていた。蘭くんがスマホの画面をスワイプすると、今度は男性の左手をアップで写した画像が現れる。その手は血塗れで――小指がなかった。ショッキングなその画像に思わず息を呑む。まるで映画でも見ているかのようだ。現実感が湧かない。しかし、そんな感覚とは対照的に私の心臓はドクドクと嫌な音を立てる。胸が苦しい。心臓が口から飛び出してしまいそうだ。まさか、この手の持ち主は――……。

「これ、オマエの彼氏。小指がなきゃ運命の赤い糸も結べねぇよな。そんなヤツと付き合う意味ある?」

 ねぇよな、蘭くんは続けてそう言った。

「それと違ってオレは小指あるから今なら赤い糸も結び放題だぜー? どうよ、オレ優良物件だと思うんだけど」

 やはりあの手は私の彼氏のものだった。どうしてこんなことになってしまったのか。こんなにもひどいことをしておいて、どうして蘭くんは笑っていられるのだろう。蘭くんの口から紡がれた運命の赤い糸という言葉は、この緊迫した状況下ではひどく不釣り合いな響きのような気がした。

「な、何……? どういうこと……」

「だからぁ、オレとやり直そうよっつってんの」

 蘭くんが何を言っているのか分からない。やり直す? それは復縁の要求だと思って良いのだろうか。私のことを拉致しておいて、私の彼氏に危害を加えておいて、それなのに復縁要求? そもそも、一方的に別れを告げて音信不通にしたのは蘭くんのほうじゃないか。意味が分からない。目の前にいる蘭くんが、意思疎通のできない宇宙人か何かのように感じた。

 サァ、と血の気が引いていくのを感じる。うまく息ができない。唇が震える。体の底から冷えていくようだ。指先は氷水に漬けたように冷たくて、もはや痛いくらいだった。私の体の震えは寒さ故か、それとも恐怖故か、もはや区別が付けられない。それくらいに冷たくて、同時に怖かった。

「おい。何とか言えよ」

 蘭くんは黙り込む私の頬を裏手でペシペシと軽く叩く。痛くはない。が、この手にいつ力が込められるか分からず、さらなる恐怖心が私を襲った。彼の行動が読めない以上、いつ殴られるかも分からない。もしそうなったら私の体はきっと簡単に吹っ飛んでしまうだろう。彼と私の力の差は歴然だ。じわじわと恐怖が広がっていく。

「なあってば。ナマエ、聞いてる?」

「……ご、ごめ、なさ……。許して……」

 ガチガチと震える奥歯を噛み締めながら必死で口を動かす。もはや何に対する謝罪かも分からない。ただ単純に、私はこの状況から一刻も早く解放されたかった。いつ危害を加えられるかも分からないこの状況が恐ろしくて堪らなかった。早く家に帰りたい。こんな所にはもういたくない。その一心で謝罪の言葉を口にする。

「あ、謝ります……。ごめんなさい。ゆる、許して、くださ……」

 蘭くんは何も喋らない。沈黙が流れる。もう一度「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口に出すも、やはり蘭くんは何も喋らなかった。彼の感情が読めない。それが余計に私の恐怖心を煽る。

「ごめ、なさ……許して、お願い……」

「…………」

「お願い……もう家に帰して……」

「はぁ?」

 苛立ったように発されたその一言にビクリと体が跳ねた。恐る恐る蘭くんの表情を伺うと、彼は眉間にしわを寄せ、綺麗に手入れされた眉を歪めているのが見えた。その表情を見て、また私の体は恐怖で跳ねる。きっと私は発言を間違えてしまった。呼吸もままならず、ヒュ、と喉が鳴る。

「帰りてぇからって心にもない謝罪したわけ?」

「ち、ちが……ッ!」

「嘘つきは泥棒の始まりって言うよなァ。ナマエ、犯罪者じゃん」

「ご、ごめんなさい! 蘭くんごめんなさい! 許して!」

「あーあ、許す気失せちまったなァー」

「ごめんなさい! ごめんなさい! お願い蘭くん、許して……!」

「謝って済むわけねぇだろ」

 ――バチン。鋭い破裂音が鼓膜を震わせると同時に、私の頬に衝撃が走った。殴られたのだ。縛られた手足では受け身を取ることもできず、私の体は無様にも床に倒れ込む。

「……ッ!!」

 頬はジンジンと熱を持っていた。紙に垂らしたインクが広がっていくように、じわじわと痛みが私を蝕み始める。

「……っう、あ……」

 痛みと恐怖で呼吸が荒くなる。奥歯はガチガチと震えていて、言葉がうまく出てこない。ただ床に転がりながら、ハッ、ハッ、と荒い呼吸を繰り返す。痛い。怖い。痛い。頭がうまく働かず、私はただそれだけを考え続けた。

「オレさぁ、ナマエのこと良い子だと思ってたけど、オレの思い違いだったみたいだな」

 蘭くんが倒れた私に近付く。彼の足が動いた瞬間、蹴られるのではないかと思って思わず身構えた。しかし彼はただ移動するために足を動かしただけで、その長い足が私を襲うことはなかった。
 倒れた私の目の前に蘭くんはしゃがみ込む。綺麗に磨かれた革靴が私の目に映った。艶やかなその靴は高級そうに見える。

「最近ニュースで日本一の犯罪組織とか言われてるヤツ、ナマエ知ってる?」

 ――犯罪組織。都内での抗争が激化して一般人にも被害が出た、なんてニュースが放送されていた記憶がある。つい最近もメンバーの映像を独占入手した、なんて言って大々的に放送されていたっけ。
 だが、それが何なのか。脈絡なく語られる内容に私の頭には疑問符が浮かぶ。しかしそんな私を気にすることなく、蘭くんは言葉を続けた。

「オレね、そこの幹部なの。堅気じゃなくなっちまったしもう別れっかー、って思って。ナマエが危険な目に遭うのは嫌だったし。オレってば優しいよなぁ」

 蘭くんの語る言葉、彼が反社会的組織に属しているという事実はストンと私の腹に落ちた。蘭くんはもともと前科持ちの不良少年だったし、彼が真っ当な職に就けるとは思えない。それは当然の帰結だと思った。

 彼が私に別れを告げたのは反社会的組織に身を置くことを決意したからだったのか。だから一般人である私を捨てたのか。そうならそうと言ってくれたら良かったのに。何も言わずに音信不通にされたものだから、立ち直るまでにかなりの時間をかけてしまったじゃないか。
 あの頃の私がそれを知っていたら、きっと私は危険を承知の上で蘭くんと付き合い続けることを選択していただろう。世間のルールに反することより、私は蘭くんと離れることのほうが嫌だった。それなのに私の意見は聞かずに一方的に別れを告げておいて、今度もまた一方的に復縁の要求をするなんて。なんて自分勝手で残酷な人なのだろう。

「オレの優しさに心打たれて声も出ねぇって? ハハッ、ウケる」

 この人は一体何を言っているのだろうか。頭の中でそう考える。だが、殴られた頬が痛くて、これ以上の暴力が怖くて、それを口には出せず、私はただ床に転がったままじっと恐怖に耐えていた。
 蘭くんの手が私の頬に触れる。熱を持ったそこは彼の手が触れるだけでも痛かった。きっと赤く腫れているのだろう。ズキズキと鈍い痛みが私を襲う。

「今度はもう別れるなんて言わねぇからさ。許してよ」

「……ぅ、」

「オレもオマエが男作ったの許してやるから」

 浮気するようなクズとオレみたいな反社ならお似合いだろ、蘭くんはそう言った。

「早く謝ってオレとやり直すって言って」

「…………」

「言えよ」

「…………」

「言え。言えってば。ナマエ、早くしろよ」

 舌がカラカラに乾いていて声が出ない。震える唇を必死に動かしてみても、餌を求めるコイのようにぱくぱくと開閉するだけで、私の口は少しも声を出してはくれなかった。
 蘭くんは眉をひそめ、怠そうに首を傾げる。私がうんともすんとも言わないことに苛立っているらしい。そのわずかな仕草すらも恐ろしかった。

「ナマエ」

 名を呼ばれ、ビクリと体が跳ねる。私を見下ろす蘭くんと目が合った。菫色の蘭くんの瞳は相変わらず美しかったが、その瞳に映った私の姿はまるで芋虫のように見えた。恐怖に耐えるだけの私はひどく惨めで、ひどく愚かだ。

「あの男みてぇに痛い目遭わなきゃ分かんねえ?」

 その言葉にブンブンと首を左右に振って答える。

「じゃああの男と別れてオレとやり直す?」

 今度は首をコクコクと上下に振る。そんな私を見て、蘭くんは目を細めて笑った。その表情に少なからずほっとする。彼の機嫌が良くなれば、手酷く扱われる可能性は減るだろう。私は必死だった。頬はまだ痛みを放っている。これ以上の痛い思いはしたくない。

 蘭くんは私の腕を掴んで、倒れていた私を無理やり起き上がらせた。私はそれに抵抗せず、されるがまま。蘭くんは私の肩に腕を回すと、スマホカメラを起動させながら頬と頬が触れ合いそうになるくらいに顔を近付けた。カメラ見て、そう言いながら蘭くんはスマホの画面を指差す。

「復縁記念。イエー」

 カシャリ。スマホのシャッター音が鳴る。写真に写った私の顔は、笑顔の蘭くんと違って引き攣っていて、しかも殴られた頬は赤く腫れていた。一目で無理やり撮らされた写真だと分かる出来栄えだ。だが、それでも蘭くんは満足らしい。上機嫌で「これナマエの彼氏に送りつけてやろっかな。寝取られビデオレター、オレ好きなんだよね」なんて言っていた。そんな性癖なんて聞きたくない。し、そんなもの撮られたくもない。フィクションとして見るのは良くても当事者にはなりたくない。そう思っても、蘭くんを拒否するだけの気力は私には残っていなかった。

「ちょっと浮気しちまっただけで、本当にナマエが好きなのはオレだけだもんなー? オレしか好きじゃねぇってコト、カメラの前で証明してよ」

 この言葉に頷いても、頷かなくても、きっと私にとって良くないことしか起こらない。だったらもう、いっそのこと何も考えないほうが良い。
 そう自分に言い聞かせながら、私は蘭くんにキスをした。蘭くんは満足そうに微笑みながら「血の味がする」なんて言っていた。


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