過ちて改めざる是を過ちと謂う


 蘭くんはいつも冷たい。メールは二回に一回しか返ってこないし、私を家に呼び出すだけでデートらしいデートもほとんどない。付き合う前の数回くらいはデートもしてくれたが、それ以降はした記憶がない。それに、蘭くんは私を揶揄うことはあっても愛を囁いてくれたことなんかない。

 私たちは名目上“付き合っている”ということになっているが、彼に愛されていないことは薄々感じていた。友人たちの恋バナや惚気に混ざれるようなエピソードを持たない自分が惨めで、私は蘭くんとの関係を終わらせたいと感じ始めていた。自分のことを愛してくれない人を一方的に好きでいるのはつらい。私の好意をいいように使われて、搾取され続けるのに疲れてしまった。私は私のことを愛してくれて、きちんと大切にしてくれる人と付き合いたい。

『今から家きて』

 その一言だけが記載されたメールを見て、今日こそお別れしよう、と思った。



 ◇◇◇


 
 ――六本木某所。蘭くんの住むマンションのインターホンを押す。ピンポーンという軽快な音が聞こえてから数十秒ほど待つと、玄関のドアが開かれる。私を出迎えた蘭くんは灰色のスウェット姿で、髪も整えられていない気の抜けた格好をしていた。彼は普段、その長い髪を三つ編みにセットしていることを私は知っている。仮にも彼女である私と会うというのにこの気の抜きようである。軽んじられていることは明白だった。きっとこれが本命の女が相手だったら、髪はきちんとセットして綺麗な洋服を着ているんだろうな。脳内で“蘭くんに愛されている本命彼女”の姿を想像し、胸がチクリと痛んだ。

「入れよ」

「……うん。お邪魔します」

 蘭くんに促されるまま家の中へと入る。私がしゃがんでブーツを脱ぐ間、蘭くんは無表情のまま私を見下ろしていた。じっと見つめる蘭くんの視線が、なんとなく急かされているように感じて居心地が悪い。だからと言って、慌ててブーツを脱ぐのも負けたような気がする。不自然にならない程度に急ぎつつブーツを脱ぎ、「ごめん、お待たせ」と声をかけると、蘭くんは「おー」と生返事をした。

 自室へと向かう蘭くんの二歩後ろをついていく。部屋に入るなり、蘭くんはベッドの上に腰かけた。部屋の扉を閉め、彼に近付く。隣に座るのはなんとなく嫌だったので、ベッドを背もたれにするようにして床に座ると、頭上から「なんで床に座ってンだよ」と揶揄うような蘭くんの声が降ってきた。

「隣に座れば?」

「ううん、私はここでいい」

「なんでだよ。そこじゃ顔見えねぇだろ」

「いいの」

 ベッドに座ったらセックスが始まってしまいそうで嫌だった。家に来てすぐにヤるなんて、それこそセフレみたいではないか。これ以上、自分が惨めになるようなことはしたくない。それに、セックスが始まってしまったら別れを切り出すタイミングを逃してしまう。早めに言わなければ。そう思うものの、何から話せば良いものか分からず話を切り出せない。
 言葉に迷う私に気付いたのか、蘭くんは「今日いつもと雰囲気違くねぇ?」と言った。

「なぁ、なんか怒ってンの? オレ何かした?」

「別に、怒ってるわけじゃないけど……」

「じゃあ何だよ。言いたいことあンなら言えよ」

「………………」

「黙ってちゃ分かんないンだけど?」

 その一言がとても威圧的に感じ、思わず体が跳ねた。話を切り出せない私に対して彼は腹立たしく思っているのだろうか。嫌いになっただろうか。いや、元から好かれているわけでもないのでそんな心配は不要だ、と思い直す。これ以上、蘭くんの機嫌が悪くなる前にさっさと別れてしまったほうが良いだろう。意を決して口を開く。

「わ、私……」

「うん」

「もう別れたい。今日で終わりにしよう」

 ――沈黙。私の言葉を受けても、蘭くんは「分かった」とも「嫌だ」とも言わなかった。彼は感嘆詞すら言わず、完全な静寂が部屋に流れる。蘭くんが今どんな顔をしているのかは怖くて見られない。気まずい沈黙だけが続く。
 その沈黙を破ったのは蘭くんだった。ハァ、と聞こえよがしに溜め息を吐く。

「新手のかまちょ? そういうのダルいんだけど」

「……違うよ。本当に別れたい」

「はぁ?」

「もう疲れちゃった」

 蘭くんは私のことなんて好きじゃない。メールもほとんど返さずデートもせず、家に呼んでただヤるだけ。そんなの、都合の良い女としか思われていない。なんなら、付き合っていると思っているのは私だけだったのかもしれない。顔の良い蘭くんであれば代わりの女の子はいくらでもいるだろう。今さら私一人がいなくなったところで彼は困ることなんてないはずだ。きっと「別れたくない」なんて言葉も言ってはくれないと思う。せいぜい「じゃあ別れっか」なんて言われてお終いだ。

「今日はそれだけ言いにきたから。じゃあ帰るね」

 あっさり別れを了承されたらきっと私は傷付くだろう。だから蘭くんの言葉を待たずにそう言い切って立ち上がる。蘭くんが今どんな顔をしているのか、怖くて見ることはできない。彼の顔を見たら私は泣いてしまうだろう。目も合わせずにサヨナラするのはどうかとも思うが、今の私にできる最善の選択はこれしかなかった。
 部屋の出入り口まで行こうと一歩を踏み出した瞬間、手首を掴まれる。今この部屋には蘭くんと私しかいない。私の手首を掴んだのは蘭くんだ。予想外の行動にギョッとして振り向こうとした瞬間、強い力で引っ張られベッドの上に転倒する。

「……ッ!?」

 強く掴まれた手首がズキズキと痛む。倒れた私の上に蘭くんが覆い被さり、私の上に影を落とす。

「聞こえなかったからもう一回言って」

 私を見下ろす蘭くんは無表情で、何を考えているか分からなかった。能面のような表情にゾッと背筋に悪寒が走る。

「だ、だから……もう別れ、」

 言葉を言い切るより先に、蘭くんの大きな手が私の口を塞いだ。

「おかしいな、オレの聞き間違いかー? なぁんか変なこと言ってるように聞こえンだけど」

 私の口を塞ぐその手を退かそうと両手でその手を掴むと、蘭くんはもう片方の手で私の両手をまとめ上げた。いとも簡単に身動きを封じられてしまう。全力で抵抗しようとしても、私の力では蘭くんには到底及ばなかった。彼の腕はビクともしない。

「一方的に別れたいとか言ってるように聞こえンだけど、そんな自分勝手なことされたら竜胆みたいにカッチーンてなるワケよ、オレもさぁ」

「…………ッ!」

「別れたいって本気で言ってる?」

 ぱ、と口を塞いでいた蘭くんの手が離れる。私を見下ろす彼の目は冷たく怖いが、ここで引いたとしても辛い時間が長引くだけだと思い、意を決してその問いに頷く。

「……うん。別れたい」

「理由は?」

「……蘭くん、私のこと好きじゃないでしょ?」

「はぁ?」

 また蘭くんの表情が歪む。短い言葉であるにも関わらず、その破壊力は抜群だった。ビクリと体が強張る。

「オレ、ナマエのこと好きじゃないなんて言った記憶これっぽっちもねぇンだけど」

「………………」

「誰かに何か言われた? シメてきてやるから教えてよ」

「………………」

「何とか言えよ。オレの声聞こえてねーの?」

「……だ、だって、蘭くん全然メール返してくれないし。デートとかなくて家でセックスするだけだし。好きって言ってくれないし……」

「………………」

「都合の良い女扱いされるだけならもう別れたいって、思って……」

 蘭くんの視線が恐ろしくて、言葉尻がどんどんと小さくなって最後には消え入りそうな声になっていた。
 そのとき、頭上からハァー、という蘭くんの大きな溜め息が聞こえた。「いつオマエのこと都合良い女扱いしたよ」と呆れたように言葉を紡ぐ。

「……寝てるから返信は遅ぇかもしんないけどナマエのメールには返信してるだろ、無視してるつもりはねぇよ。デートしないのは単純に大好きなベッドの中で大好きなナマエと一緒にいるのが好きだから」

「え…………」

「それから、オレが付き合うって形式を取ってる以上は言わなくても好きなことくらいナマエなら分かってくれてると思ってた」

「………………」

「そもそもさぁ、オレが好きでもない女と会うほどヒマな人間に見えてンの?」

「そ、れは……違う、けど……」

「答え出たじゃん。オレはちゃんとナマエのこと好きだし絶対に別れない。話し合い終わり」

「………………」

「ハイ、んじゃ『別れたいって言ってごめんなさい』しろー?」

 言われた通り謝ると、蘭くんはニッコリと笑った。これで仲直りな、そう言いながら蘭くんは私にキスを落とす。
 蘭くんからのキスを感じながら私はそこでふと気付く。蘭くんは一言も謝ってくれてないな。


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