酒と乱痴気
私の社畜生活(主に飲み会)の経験が人生で初めて役に立ったと思った。
徳利に入った熱燗を、太く節くれだった鬼の手に握られた小さなお猪口にそそぐ。おっと手が滑ったぁ、なんて言いながら並々とそそぐと、鬼はハハハと豪快に笑った。
「アンタはずいぶん呑ませるのがウメェじゃねぇか!」
「いえいえ、滅相もないですー」
西海の鬼こと長曾我部元親。彼は、突然戦国の世に放り出された私を拾ってくれた命の恩人とも呼べる人だった。
行き倒れていた私に食料を恵んでくれただけでなく、住む所がないと分かると城の一室を貸し与えてくれた。私がこの人に出会えたのは幸運中の幸運であり、私はこの人に対して頭が上がらない。彼の話にたまに出てくる「モウリモトナリ」さんとやらと出会っていたら、きっと私の命は今頃なかっただろう。
こうして彼の晩酌に付き合うのはある種の恩返しであり、会社の飲み会よりもずっと有意義で意味のあるもののように思えた。
「お、そろそろ酒がなくなってきたか? 待ってろ、今新しいの持って来させるからよ」
そう言って元親様は部屋の外にいた女中に声を掛ける。
そうしてしばらくすると、御盆に日本の徳利とおちょこを乗せた女中がやってきて、丁寧な仕草で酒を置いて帰っていった。私はあんな風にお淑やかにはできないなぁ。
元親様は女中の運んできた酒を素早く手に取り、お酒と一緒に新しく運ばれたおちょこを私の手に握らせた。
「俺ばっか呑んでてもつまんねぇからよぅ、ナマエも呑んだらどうだ?」
「えっ!? も、元親様にお酌させるなんてそんな……!」
「俺がいいっつーんだからいいんだよ! 鬼の目の黒いうちは手酌なんて野暮なマネはさせねぇって!」
元親様の目は黒というかすごく綺麗な蒼ですけど。
そんな突っ込みを入れる隙も彼の酌を拒む隙もなく、私の手に握らされたおちょこに酒を並々とそそがれてしまった。
酒を注がれてしまったら仕方がない。そう腹をくくり、ぐい、と一気に煽る。すると元親様は「案外呑めんじゃねぇか!」と言った。
戦国時代の酒なら現代のものより造りが粗いかと思ったけれど、悲しきかなまぁそんな事はなかった。アルコール独特のツンとした匂いが口の中に充満し、喉が熱を持つ。
「ほら、もう一杯!」
「う……は、はい」
そそがれた酒を、なるべく味合わないよう勢いよく飲み干す。それでも口の中に残るアルコールの匂いが私を苛んだ。
カクテルなんていう甘いお酒に慣れ親しんだ私には正直つらいものがある。テキーラのショットだのなんだのを飲まされるよりはいくらかマシだろうけど、それでもキツいものはキツい。
「も、元親様も呑みましょうよ! お酌交代しましょ!」
「あん? 今はアンタが呑む番だろうが」
「えぇー……」
私の思惑むなしく、交代する案は却下された。正直もう飲みたくない。下手に飲んだらリバースする。一気飲みダメ、絶対。
「ほら! 飲んだ飲んだ!」
有無を言わせぬ様子で元親様は酒を注いでいく。酒の入ったおちょこをじっと見て固まる私に、元親様は「飲まねぇのか?」と尋ねる。
「………………」
「ナマエ?」
「も、元親様が代わりに飲んでくださったら接吻してあげちゃいますー! ……な、なんちゃって…………」
酒を飲みたくない一心で意味の分からない事を言ってしまった。これは完全に合コンだのクラブだののノリだ。命の恩人、それも一国の城主に対して言う事ではない。
元親様は片方しかない目を丸く見開き、きょとんとした顔で私を見る。そうして一拍置いたあと、元親様は「ははは!」と笑った。
「なんだぁナマエ! 鬼と取り引きしようなんざいい度胸じゃねぇか!」
「あ、あはは……」
「言ったからには『嘘でした』なんてのは通用しねぇからな?」
そう言ったあと、元親様は私の手に握られていたおちょこを手に取り、ぐい、と一気に飲み干す。そして空になったおちょこを置き、「どうだ」と不敵な笑みを浮かべてみせた。
「きゃー元親様すごーい! ささ、お酒はまだまだありますよ!」
「コラ、はぐらかしてんじゃねぇよ」
「うぐ……ッ」
「言ったからにゃあ筋通してもらおうか? なぁ、ナマエ」
「し、仕方ないですね……!」
元親様はとても顔が良いのでキスする事は別にいやではない。というか自分で言い出した事なのだからその責任は取らなければならないだろう。
目をつぶって一瞬触れるだけのキスをする。すぐに顔を離し、「ほら、しましたよ!」と言うと、元親様は「たったのこれだけかよ」と笑った。
「イケズな事してんじゃねぇよう」
「元親様酔ってますね!?」
「あぁ? 酔ってねぇに決まってんだろ」
元親様は私の肩に自身の腕を回し、もう片方の手で私の頬をつつく。
酔っている人はみんな「酔ってない」と言う。それは今も昔も変わらないという事なのだろうか。しかも元親様はかなりの絡み酒と見た。
「ナマエ、アンタの頬はずいぶん柔らけぇんだな」
「……それ、もしかして私が太ってるって言いたいんですか?」
「ンなわけねぇだろうが! 抱き心地が良いのは強みだろ、女にとっちゃ」
「セ、セクハラ!」
「未来の言葉は分かんねぇなァ」
そう言いながら元親様は私の頬を撫でる。その指先にこもった熱っぽさから、元親様に変なスイッチが入ってしまった事を察した。端的に言えば、今の彼は欲情している。それも私に。
――マズい事になっちゃったなぁ。
元はと言えばキスなんかした私が悪い。自分の軽率さを呪うしかない。
これが現代社会で相手がナンパ男だったら、終電がなくなるだの電話が入っただのといくらでも言って逃げ切る事ができるが、今回はそうもいかない。相手は命の恩人、それも一国の主だ。元親様に限ってそんな事しないとは思いたいが、下手をしたら私の首が飛んだっておかしくない。
「も、元親様ー……う、腕が重いですって! 体重掛けるのやめてください!」
「ならアンタが俺の上にでも乗るかい?」
「えっ!? い、いや、それは恐れ多いと言うか、なんて言うか……」
さり気なく話題を変えようとしたけれど、やはり無理だった。新しい話題を見つけようと視線だけで部屋を見回すも、話題になりそうなものは見つからない。
運よく誰か部屋に入ったりしてこないだろうか。もういっそ敵襲でもいい。何でもいいから早くこの空気をなんとかしないと戻れなくなってしまう。お願いだから正気を保ってくれ元親様。
「ナマエ」
「ッ!」
元親様の低く掠れた声が、耳元で私の名を囁いた。平静を保つなんて不可能で、思わずびくりと身体が跳ねる。
「ちょ、ほんと元親様……おふざけはやめてくださいって……!」
「俺ァいつだって大真面目よ」
「なに言って……」
「俺がアンタをからかった事あるか? なぁ、ナマエ」
元親様の美しい隻眼に見つめられ、思わず言葉につまる。ここで黙ってしまったら負けだ。そう頭で分かっていても、言葉は私の口から紡ぎ出される事はなかった。
「鬼を挑発しちまった自分を恨むんだな」
そう言って元親様は私の唇をふさぐ。ああもう駄目だ、食われる。そう観念した私は、言葉とは裏腹に優しい鬼の手を黙って受け入れた。