攻防戦



 マナブくんが兄貴と呼んで慕っているお医者さんがいると聞いて、私は彼に頼み込んでその人と食事に行く約束を取り付けた。聞けばそのお医者さん――村雨礼二さんと言うらしい――は、二十九歳だと言う。その年齢ならば、遊び人の男性でもぼちぼち結婚を意識し始める頃だろう。狙い目だと私は思った。マナブくんが慕うくらいなのだからその人は絶対にハイスペックなはずだし。会ったことはないけれど、きっと良い人に違いない。結婚相手の候補に数えるため、私はどうしてもその人に会ってみたいと思った。

 まずは敵を知り、とばかりにマナブくんから村雨さんの情報を聞き出す。マナブくんは「その人の趣味は手術だ」とかよく分からないことを言っていた。恐らくだが村雨さんは仕事第一で、趣味イコール仕事、みたいになっている人なのではないだろうか。人の命を救うのが趣味だなんて、きっと素晴らしい人なのだろう。それに仕事人間ならばプライベートでは女性との関りも薄いだろうし、結婚相手にもってこいだ。
 絶対に落としてみせる。そう意気込んで、私は綺麗なワンピースに身を包み薄ピンクのリップを塗ってから、意気揚々と待ち合わせ場所へと向かった。


 ◇◇◇


「あ、お会計は私いくら払えばいいですか?」

 フレンチのコースに舌鼓を打った後、控えめな態度でそう尋ねる。会計時に財布を出さない女は感じが悪い、と散々言われていること知っている私は、好感度アップのために支払いの意志があることだけは示しておく。だいたいの男性は俺が払うから大丈夫だよ、なんて言ってくれるが、村雨さんも例には漏れず「いや、貴女は出さなくていい」とバッグから財布を出そうとする私を制した。

「このような場面では女性に支払わせるべきではないと聞いている。故に私が全額負担しよう」
「いいんですか?」
「もちろんだ。女性の扱い方は兄から聞かされていたからな、この程度は私も心得ている」
「ありがとうございます、村雨さん。ご馳走になります」

 私がそうお礼の言葉を口にすると、村雨さんはその顔にお手本のような笑みを浮かべた。目は細めて口角は上向き。絵に描いたような笑顔は嘘臭い作り笑いのようにも見えたけれど、それを指摘することなく、私は村雨さんとの会話を続ける。

「村雨さんにはお兄さんがいるんですか? 仲が良さそうで羨ましいです」

 私がそう言うと、ふ、と小さく村雨さんが笑ったような気がした。分かりにくい一瞬の表情変化だったけれど、先ほどの嘘臭いほどの綺麗な笑顔と違って、その笑みは村雨さんの本心から溢れた笑みのように見えた。私はそれを見て、きっと村雨さんはお兄さんのことを愛しているのだろうな、と思った。
 現役のお医者さんで、なおかつ家族仲も良好となると、村雨さんがますます優良物件に思えてくる。このフレンチも一人当たり数万円かかりそうなお店だが、そんな金額をポンと出してくれるのもかなり『良い』と言えるだろう。支払い時に見えたカードはブラックだった。村雨さんがお金持ちであることは間違いない。

 たまに村雨さんとは会話が噛み合わないような気がするときもあるが、その程度であれば目を瞑れる。完全に話が通じないと言うわけではないのだから、私の読解力と空気読みでなんとかリカバリーできるだろう。それに、村雨さんはやや不健康そうな顔色をしているが、顔の造形は整っている。着ているスーツは上等な物に見えるし、何よりも彼の職業は医者である。傲慢な雰囲気と微妙な会話の噛み合わなさという二つの欠点を上回るスペックの持ち主だ。考えれば考えるほど、彼を逃すのは愚策に思える。

 結婚相手に選ぶならこの人だ。と、私は完全に村雨さんに狙いを定めていた。

「あの、良かったら別のお店で飲み直しませんか? 近くに良さそうなバーがあったのでどうかなって……」

 お酒の力を借りて距離を縮めよう。そう思って店を出てすぐにそう言うと、村雨さんは私の顔を見下ろしながらわずかに首を傾げた。何故、とでも言いたそうな首の角度だ。

「今日は『食事だけ』と聞いて来たのだが。飲酒の予定を私は聞いていない」
「えっ? あ、いや……村雨さんともう少し仲良くなりたいな、と思って……」
「ならば別の日に改めて食事の予定を取り付ければ良いのでは? スケジュールにない行動を取る必要があるとは思えんが」

 予想外の返答に思わず私は言葉を失う。夜にお酒を飲むことの意味なんて一つしかないのに、村雨さんにそれが伝わらないとは思わなかった。
 絶句する私を見下ろしていた村雨さんは手を自身のあごに添え、「ふむ」と考え込むような仕草をした。そしてすぐに何かしらの結論が出たのか、村雨さんは斜め上方向に向けられていた視線をふたたび私へと戻す。村雨さんと目が合い、反射的に私の体には緊張が走った。恐々と身構えた私のことなど気にする様子もなく、村雨さんは口を開く。

「まさか貴女、私とまぐわいたいのか?」
「まっ――、えっ!?」
「その反応を見るにどうやら図星のようだが」

 心拍数の上昇が見られる、と村雨さんは言葉を続けた。たしかに私の心臓は音を立てていて、村雨さんの言う通り平常時とは違う鼓動を刻んでいる。しかしそれは図星だからではなく、ただ純粋に悪い意味で緊張しているからだ。
 まぐわうだなんて、そんなムードもなければデリカシーもない言葉を発されて、平静を保てる人間が一体どれだけいるだろう。ヤリモクのナンパ男だってもう少しマシな言い方をするはずだ。そもそも、親睦を深めようと誘っただけで私にはそんな意図はない。村雨さんには私が体を安売りするような女に見えているのだろうか? そうだとしたら心外だ。私に対する侮辱だ。カッと頭に血が上り、ひとこと言ってやらないと気が済まない、という気持ちにさせられた。

「そんなつもりで誘ったんじゃないです! 私と軽々しく寝られるなんて思わないでください!」
「貴女の猫撫で声や私に対する態度から、私は貴女から媚びる意図を感じたが?」
「だからぁ! その解釈が間違ってるって言ってるんです! 私は自分の価値を下げるようなことしませんし! こう見えて私まだ男性と一線は越えたことありませんし! 私はただ最高の男性と結婚したいだけで――……あっ」

 頭に血が上りすぎて余計なことを言ってしまった。ハッとして言葉を止めるも、重要な単語はもうすでに口から出たあとだった。しまった、と思って視線を村雨さんへやると、眉をひそめ訝しげに私を見下ろしている彼の顔が見えた。

「……貴女は私と結婚がしたいのか?」
「それ、は……」
「どんな言い訳を探そうと意味はない。感情はすべて身体反応として表れるからな、私に嘘が通じると思うな」
「……ッ!」

 村雨さんはじっくりと観察するように私を見つめている。すべてを見透かすような目だ。どんなに言い訳を並べても、どんな嘘を吐こうと、すべて無駄な気がした。きっと村雨さんには私の考えていることなどすべて分かってしまうだろう。「ああもう!」私は自分の頭を乱暴に掻きながら叫ぶ。

「そうです! 私は結婚がしたいんです! 村雨さんはお金持ちそうだし見た目も悪くないし、結婚相手として良いなって思ったんです! だから仲良くなりたいなって思って! お酒が入ればもう少し踏み込んだ話もできるかなって! まさか二軒目に誘っただけでヤリモク呼ばわりされるとは思わなかったですけど! 私傷つきました!」

 感情のままに言葉を発する。興奮して私の息は上がっていた。肩で息をする私を見下ろす村雨さんは、私がこんなにも感情的になるとは思っていなかったのか、驚いたように目を丸くしていた。
 しかしそんな表情は一瞬のことで、すぐに彼は「ふははっ」と声を上げて笑い始める。それは嘘臭い笑顔でも家族愛から溢れた笑顔でもなく、邪悪な笑顔だった。まるで悪役か何かのような高笑いをした村雨さんは唐突に、ふぅ、と息を吐いて平静を取り戻す。私はその一連の流れを呆然と見ていることしかできなかった。意味が分からないを通り越して、もはや怖かった。

「貴女のような女性の目に私はこうも魅力的に映るのだな。フフ、まぁ思いやりに目覚めた私なのだから当然か。モテると言うのは困ったものだな、初めての感情だ」
「えっ!?」
「貴女の気持ちはありがたく受け取ろう。だが、私にとっては綺麗に整えられた外見よりも『中身』の美しさのほうが重要だ。私からの愛を得たいと言うのであれば、まずはその乱れた食生活を直す所から始めたらどうだ?」 
 匂いで内臓が悲鳴を上げているのが分かる。村雨さんはそう言葉を続けた。

「誠実さを身に付けたらまた私に連絡しろ。貴女が外見と中身の両方が美しい女性になったなら、そのときは結婚してやらんこともない」
「は、はぁぁ!?」

 上機嫌な村雨さんとは対照的に、私の脳は怒りで燃えていた。どうしてこんなにも上から目線なことを言われなければならないのか、と。悔しさと腹立たしさから、私は「絶対に村雨さんを落としてみせる」と誓った。心底惚れさせて、村雨さんが「私と付き合ってくれ」と懇願してくるまでにならなければ、きっと私の悔しさは払拭できないだろう。舐められっぱなしは性に合わない。絶対に落としてみせる。
 試合開始のゴングが鳴った気がした。それはもちろん、私と村雨さんの攻防戦のゴングだ。先に惚れたほうが負けのデスマッチ。私のプライドに賭け、絶対に勝ってやる。そう誓った。





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