泡沫の夢



※新任ビジュの眞鍋
※イチャついてるだけ



「瑚太郎くん、教員試験合格おめでとう」

 そう言ってワインの入ったグラスのふちを重ね合わせると、チン、と小気味の良い音が響いた。祝われた本人である瑚太郎くんは、申し訳なさと恥ずかしさの混ざったような笑顔を浮かべながら「ありがとう」と返す。あどけなさの残るその表情を私は可愛いと思った。

「先生になるの、ずっと夢だったもんね」
「試験までの間、あまり連絡ができなくてごめんな。待っていてくれて嬉しいよ」
「ううん、いいの。瑚太郎くんの夢は私も応援したかったから」

 瑚太郎くんと会うのは久し振りのことだった。試験までの間は勉強に専念したいという彼の希望に応え、しばらく会うことを控えていた。そのおかげで瑚太郎くんは無事に合格し、来年からは晴れて小学校教師となる。瑚太郎くんが小学生たちに眞鍋先生と呼ばれている所を想像すると、なんだか面白くて思わず笑みがこぼれた。きっと彼は、夢と希望にあふれた良い教育者となるだろう。瑚太郎くんの前途を祝してもう一度乾杯をする。彼の喉仏がワインを飲み下そうと上下に動く様を、私はじっと見ていた。


 ◇


 ワインボトルの中身が半分ほどまで減り、酔いが少しずつまわって頭がふわふわとし始めた頃、グラスを持つ彼の指が私の目に留まった。節くれだっていない長い指。爪先はささくれ一つなく綺麗に整えられている。だが、さすが男の人なだけあってそのサイズは大きい。もしかして瑚太郎くんの指は私の倍ほどの長さがあるのではないだろうか、なんて荒唐無稽な考えが頭をよぎる。

「瑚太郎くん、指が綺麗だねぇ」
「ん? そうかな」
「そうだよ。綺麗だよ」
「自分ではあまり気にしたことがなかったな」
「えー、もったいないなぁ。綺麗なのに」

 そう言いながら瑚太郎くんの指をじっと見つめる。彼は指を見つめる私の熱い視線に苦笑しつつ、「触るか?」なんて言いながら手を差し出してきた。

「――いいの?」
「特別に、だけど」
「わぁい。じゃあ遠慮なく」

 瑚太郎くんの手の甲に指を滑らせる。キメの細かい肌が指の腹に触れた。二十代前半、まだ学生である彼の肌はしっとりとしていて、乾燥とは無縁の肌だった。手首から第三関節のあたりまでを指で数回往復したあと、するりと自分の手を瑚太郎くんの手の平へと滑り込ませる。そうして指の一本一本を絡ませるようにして手を繋ぐと、瑚太郎くんはピク、とわずかに腕を強張らせた。

「―― ナマエ」
「ん? うふふ」
「わざとやっているな? 意地悪だな、ナマエは」
「綺麗な指をしてる瑚太郎くんが悪いんだよ」
「言ったな」
「だって事実だもん」
「人のせいにしちゃいけません、って、学校で習わなかったか?」
「わ、先生ぶってる! まだ学生なのに」
「もうすぐ先生になるから良いんだよ」

 瑚太郎くんは目を細め、いたずらっぽく笑った。私もそんな彼に対して笑顔を返す。ほんの数秒ほど、お互いに微笑み合うだけの時間が流れる。

「ね、瑚太郎くん。ちゅうしよ」

 そう言うと、瑚太郎くんは一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。しかしそんな表情も束の間、す、と彼の顔が近付く。唇が触れた。彼からのキスを感じながら、まぶたを閉じた瑚太郎くんの目元を至近距離で見つめる。彼のまつ毛はとても短い。男性であることを差し引いても、ことさらに短いように思えた。

「瑚太郎くん、すき」

 両手を彼の頬に添わせる。瑚太郎くんの頬の肉は薄く、骨の角張った感触がした。

「すき。すきだよ、瑚太郎くん」

 瑚太郎くんの頬に添わせた手を滑らせ、彼の輪郭をなぞる。そのまま首筋へと手を滑らせ、鎖骨を通って胸元へと下ろしていく。

「ッ、…… ナマエ」

 ピク、と瑚太郎くんが体を震わせる。そんな彼に構わずするすると撫で続ける私の手首を、瑚太郎くんは急に掴んで引き離した。

「……シャワーを浴びてからにしよう」

 瑚太郎くんはそう言ってソファから立ち上がる。ラックから白いバスタオルを取り出すと、瑚太郎くんは「ほら」と私にそれを差し出した。それを受け取った拍子に、柔軟剤の清潔な香りが鼻腔をくすぐった。

「………………」
「…… ナマエ?」

 ぶすくれる私を瑚太郎くんは不思議そうに見つめる。あんなにも良いムードだったのに中断させるなんて、と瑚太郎くんの行動を不満に思った私に彼は気付いていないらしい。据え膳食わぬは男の恥、なんて言葉を瑚太郎くんは知らないのだろうか。まぁ、彼のことなので知ってはいても恥とは思っていないだけなのだろうが。
 欲に流されない所は瑚太郎くんらしいが、彼はいささか潔癖すぎるきらいがある。まるで温室育ちのお坊ちゃんのようだ。綺麗なものだけを見て育ったような清廉で潔白な彼は、俗物的な私から見ればもはや潔癖なまでに見える。
 ――ああ、そうだ潔癖と言えば。
 瑚太郎くんと初めて夜を過ごそうとしたときのことを急に思い出し、思わず「あははっ」と笑い声が漏れる。突然笑い出した私を見て、瑚太郎くんは訝し気に眉をひそめた。

「急にどうしたんだ?」
「いや、初めての日のこと思い出しちゃって……瑚太郎くん、すごかったなと思って」
「……? 僕が何かしたか?」

 あの日、瑚太郎くんはムードもへったくれもなく性教育の遅れを嘆く話をしていたことを覚えている。最初は突然「ピルは飲んでいるか?」なんて聞いてくるから、彼も誠実そうに見えてその腹の内は他と変わらない無責任な男だったのかと落胆しかけたが、瑚太郎くんは続けて「コンドームの成功率は何%か分かるか?」「無責任な行為は理性ある人間のすることとは思えない。畜生にも劣る行為だ」なんて言い出して、挙句の果てには「責任とは何か」を懇々と語ってくれた。
 友達からは「彼氏が避妊に協力してくれなくて」なんて言う愚痴ばかりを聞いていたので、こんな男性が存在するのかと、自分の耳を疑ったくらいだった。彼の清廉潔白さは魅力の一つではあるが、もはや病的とも言える。正直、あのとき私は彼の思想の強さに少しだけ引いてしまった。だが、それも過去の話だ。瑚太郎くんの真面目さ、高潔さにも随分と慣れた。今では私は彼のその性格を「良き教育者になれるだろう」なんて評価するほどだ。
 その頃と比べると、私もかなり瑚太郎くんの色に染まってきたように思う。朱に交われば赤くなる、なんてよく言ったものだ。

「瑚太郎くんはいつも色んなことを考えていて偉いよね」
「ははっ、ありがとう! 何のことか分からないけど」

 そう言って瑚太郎くんは笑顔を浮かべる。そして、いつまでもソファから立ち上がろうとしない私に向かって右手を差し出す。その手を取ると、ぐい、と引っ張られ、私は瑚太郎くんによって強制的に立ち上がらされた。
 瑚太郎くんは背が高い。立ち上がって彼と並ぶと、私の目線は彼の肩あたりになる。瑚太郎くんの顔を見上げながら、こてん、と首をかしげる。

「ね、瑚太郎くんも一緒に入らない?」
「子供じゃないんだ、一人で行けるだろう?」
「えー、さみしーい」
「終わった後にたくさん構うから」

 瑚太郎くんは苦笑しつつ、私の頭を撫でた。彼は今間違いなく私のことを子供扱いしている、なんて思ったけれど、言葉には出さず「はぁい」と返事をする。すると瑚太郎くんは「良い子だ」と言った。






- ナノ -