ねぇ、せんせい



 宇宙について。授業のたった数時間、しかも「月の満ち欠け」という局所的なことしか習わなかったが、私はそれにひどく魅せられた。

 眞鍋先生が教室の中央に光源を置き、手に持ったバスケットボールに当たる影について実演しながら「これが月が満ちたり欠けたりするように見える仕組みだ」なんて説明してくれたことが面白かったのも、私が宇宙について興味を持った理由の一つでもあった。普段とても格好良い先生が、ボールを手に持って教室をぐるぐると歩き回る姿がなんとなく滑稽で、私は今でもその光景を鮮明に記憶している。

 それと同時に、月が地球の周りをずっと回り続けていることをとても面白いと思った。何故、月は地球の周りを回っているのだろう。地球の周囲を回ろうと決めたのはいつからなのだろう。そもそも、月はいつできたのか? 一度抱いた疑問は膨らみ続け、どうしても答えを知りたくなった。

「まなべ先生、いつから月は地球のまわりを回っているんですか?」

 授業が終わり次第、使用した教材を片付ける眞鍋先生のところへ一目散に向かっていき、そう質問を投げかける。眞鍋先生は教材を片付ける手を止め、その場にしゃがみ込んで私と目線を合わせた。

「ずっと昔からだ。先生が生まれるよりもうんと昔から。何千年、何億年と回り続けているよ」

「生まれたときからですか? 月はどうやって生まれたんだろうって思って……」

 私がそう聞くと、眞鍋先生は一瞬だけ困ったような笑顔を浮かべた。そうして先生は「月の誕生についてはいくつか説があるんだ。まだ正解は見つかっていないんだけど」と言った。私は眞鍋先生のその言葉を「まだせいかいは見つかってない……」と拙く復唱する。この世界に正解の見つかっていない問題が存在することは、当時小学生だった私には驚きだった。眞鍋先生にも分からないことがあるのかと、まだ解明されていない謎がこの世にあるのかと。それがあまりにも不思議で、私はますますそれについて知りたくなった。

「ナマエは月の成り立ちに興味があるのか?」

 眞鍋先生のその問いに対し、こくりと頷く。興味がある、と口に出すのはなんとなく恥ずかしかった。宇宙博士になりたいだとか、そのような高尚な興味があるわけではなく、私はただ月の成り立ちが不思議で誕生理由を知りたいと思っただけだったからだ。もしかしたら明日には興味を無くして、この感情を忘れているかもしれない。本当に宇宙に興味がある人と比べて、きっと私の持った興味というものはちっぽけだ。そんな感情を、「興味がある」なんて形容して良いものか分からなかった。

 しかし、首の動きだけで肯定の意を示した私を見た眞鍋先生は、その前髪で隠れた顔に弾けるような笑みを浮かべた。

「何かに興味を持つのは良いことだ! 偉いぞナマエ!」

 ストレートな誉め言葉。眞鍋先生のその一言で、私は自分のすべてを肯定されたような気持ちになった。ちっぽけだとしても何かに興味を持って良いのだと、興味があると口に出して良いのだと、私の感情を肯定してもらえたような気がした。

 それから私は必死に教科書を読み込んで、分からない所があれば眞鍋先生に聞きに行った。テストは百点。通知表のコメントには「意欲的に勉強に取り組んでおり優秀です」なんて書かれた。私の小さな興味から生まれた行動が実を結び、結果として表れる。それはとても気持ちのいいものだった。
 眞鍋先生に肯定されたあの瞬間から、私は生まれ変わったように思う。



 ◇◇◇



 ――××小学校卒業の日。卒業証書の授与式が終わり、最後のホームルームも終わった放課後、眞鍋先生から「帰る前に職員室に来てくれ」と呼び出しがかかる。職員室に呼び出されるという経験なんてそうない。私は何か怒られるようなことをしてしまったのだろうか。内心ドキドキしながら職員室へと向かう。

 スライド式のドアを二回ノックし、学年とクラス、自分の名前を大きく名乗る。眞鍋先生に呼ばれて来ました。続けてそう言うと、デスクに座っていた眞鍋先生は「ナマエ、こっちだ!」と手を振った。

「卒業式に呼び出してごめんな。友達との別れは済んだか?」

「はい、だいじょうぶです」

「渡したいものがあったんだ。ナマエは月に興味があったろう?」

 そう言って眞鍋先生は書店のブックカバーのついた一冊の本を取り出す。カバーのせいでタイトルは分からない。手渡されたそれは、当時小学生だった私にはずっしりと重く感じた。表紙を一枚めくって中表紙を見る。そこには「マンガで分かる宇宙について」と書いてあった。

「授業の後、何度も僕に質問しに来ていたよな。テストの点も良かったし、ナマエは本当にこれが好きなんだって僕にはよく伝わった。だから、ナマエにはこれを持っていてほしいと思ったんだ」

 ペラペラと本のページをめくる。中のイラストには、先生が説明のために配ったプリントに使用されたことのある、見覚えのあるものが含まれていた。この本が眞鍋先生の私物で、眞鍋先生が授業にも使っていたものだと悟る。
「私がもらってもいいんですか?」

「ああ。ナマエにあげたかったんだ」

「……! うれしいです」

「中学に上がっても熱意を持って勉強してくれると嬉しいな」

「がんばります! ありがとうございます!」

 本を胸に抱き、頭を下げる。眞鍋先生は笑っていた。眞鍋先生が私のことを見ていてくれたことが、私物を下賜してくれたことが、とても嬉しかった。卒業証書を授与された瞬間よりも、クラス対抗の合唱祭で優勝したときよりも、通知表で最高評価をもらったときよりも、私が経験した小学校時代のどんな思い出よりも、この瞬間が何よりも嬉しかった。

 眞鍋先生は私の頑張りを見ていてくれた。評価してくれた。眞鍋先生に職員室に来るよう呼ばれたのは私だけだ。他のクラスメートたちと違って、私は眞鍋先生に特別に目を掛けられたのだ。優越感にも似たむずがゆい気持ちが胸を満たす。私はこの日の記憶を、大人になった今もずっと忘れられずにいた。

 眞鍋先生。私はあなたに出会えて良かったです。勉強を続けて立派になった私を、眞鍋先生にも見てほしいです。眞鍋先生。大好きでした。





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