心慌意乱
あの人から視力と聴力がなくなったら、あの人は私だけの物になるのだろうか。胸に渦巻くどうしようもない激情を感じながら、ぼんやりと私はそんなことを思う。
私の愛するあの人――天堂弓彦は、近所の教会に仕えている神父様だった。
あまり治安が良いとは言えないこの街に降り立った人。私はその人の神がかり的な美しさに一目で心を奪われた。
銀糸を思わせるような艶やかな髪に、ぶどう酒を思わせるような赤い唇。真っ黒な瞳は私の心の内を見透かすような、いっそ神秘的とも言えるほどの底知れなさを抱えている。宗教画に描かれる美の女神よりも美しい。愛さずにはいられない。そんな神父様のことがどうしようもなく好きで、私はどうしても彼が欲しかった。
だが、神父とは一般的に生涯独身を貫くものである。
神に身を捧げた彼が、私のこの思いに応えてくれるとは到底思えない。そもそも、神父様に対してこんな感情を抱くこと自体が「罪」だと言えるのかもしれない。私のこの感情は紛れもない劣情だ。
私のこの思いはそっと胸に秘めておくべきものだと理解している。だが、この感情は胸に秘めておけるような可愛らしい段階をとうの昔に過ぎてしまっていた。どうしようもなく彼が欲しい。あの人が手に入るのならば私は獣に成り下がったっていい。地獄に堕ちようが構わない。悪魔に魂を売ったっていい。犯罪だろうとなんだろうと、彼が手に入るのなら何だってする。そう思うところまで来てしまった。
心は手に入らずとも、せめてその体だけでも手中に収めたい。――神父様を監禁してしまおう。私がそう心に誓うまでに、時間はあまりかからなかった。
◇◇◇
「神父様、掃除が終わりました。今日はこれで終わりでしょうか?」
「ええ。いつもありがとうございます」
「いいんです。奉仕活動は信徒の務めなので」
そう言った私に対し神父様は微笑みを向ける。私は彼に近付くため、必死で興味のない宗教について勉強した。そして敬虔な信徒のふりをして教会の扉を叩き、奉仕活動と称して神父様との接触を増やした。
信徒であると騙ることに対する罪悪感はないわけではないが、彼の信用を勝ち取れるのなら何だっていい、という感情のほうが勝っていた。
幸いにもこの教会には懺悔をしに来る人は多くいても、信者らしい信者はいなかった。だから奉仕活動をさせてほしいと申し出れば、簡単に彼に近付くことができた。
「神父様。私、この前いいハーブティーを手に入れたんです。もし良かったらこの後一緒に飲みませんか? あ、もちろんご迷惑だったら断っていただいて構わないんですけど……」
「まさか。有難くいただきましょう」
「良かった! じゃあ用意してきますね」
奉仕活動の後にはいつも神父様と話をする機会が訪れる。それを利用してお茶に誘えば、神父様はにっこりと微笑みながら了承の言葉を発してくれた。
――計画の達成は目前まで迫っていた。
ポケットにそっと睡眠薬を忍ばせ、私は教会の奥へと向かう。私の立てた計画は単純だった。睡眠薬入りのハーブティーを飲んだ神父様が意識を失ったら、事前に用意していた台車に乗せて連れ去るだけ。防音設備の整った部屋は借りたし、綺麗なベッドと鎖も用意した。あとはそこに神父様を迎え入れるだけ。
神父様を監禁部屋に招き入れるのが今から楽しみで仕方がない。
ニヤけそうになる表情筋を必死で抑えながら、睡眠薬を混ぜたハーブティーを神父様の前に出す。テーブルの上には神父様が用意したと思われるキャラメルが置いてあった。このキャラメルは彼自身が買ったものだろうか。それとも信者からの貢ぎ物? どちらにせよ、キャラメルを頬張る神父様を想像すると「可愛いな」と言う感想が自然と胸の内から湧き出た。神父様はキャラメルがお好きなのだろうか。そうなのだとしたら、彼を監禁部屋へと招待した後は甘い物をたくさん食べさせてあげよう。私はそんなことを思った。
ティーカップを配膳して、神父様の目の前の椅子に座る。向かいに座る神父様と目が合うと、彼はその両目を細めて微笑んでくれた。ああ、やっぱり好きだ。どうして彼はこんなにも美しいのだろう。そう思いながら「いただきましょうか」と声を掛け、ティーカップに手を掛けようとした瞬間、
「――あ」
神父様は大きな目をさらに大きく開き、私の背後を見た。まるで化け物か何かを見たかのような表情。
――え、何? 何かいるの?
驚いたように私の背後を見つめる神父様につられるよう、私は勢いよく振り向いて背後を見る。――が、そこには何もない。キョロキョロと視線を動かして辺りを確認しても、やっぱり不審なものは何も見つけられなかった。神父様には一体何が見えたのだろう。何も分からない。疑問に思いながら、神父様へと顔を向ける。
「神父様、何かありましたか……?」
「失礼。私の見間違いでした」
「あ、そうだったんですね! ビックリしちゃいました。じゃあ冷めないうちに飲んじゃいましょう」
何もなかったのならば一刻も早く計画を遂行させたい。そう思って私がお茶を飲むことを促すと、神父様はにっこりと微笑んでからティーカップに口を付けた。カソックの襟から覗く彼の喉仏が、ゆっくりと上下に動くのが見える。
――良かった、彼は睡眠薬入りのお茶を飲んでくれた。あとは薬の効果が表れるのを待つだけだ。
私の前にあるのは何も混ざっていないただのハーブティー。彼が睡眠薬入りのお茶を飲んだことを見届けて、私は安心して自身の前にあるティーカップに口を付ける。立ち上る湯気が肌に当たった。それと同時に、ふわりと芳ばしいハーブの香りが鼻腔をくすぐる。カップに注がれたそれを口に含んで飲み下すと、温かいお茶が食道を通って私の胃に落ちていく。高価な茶葉だけあって、やはり味は美味しかった。
「……あれ?」
ぐわん、と視界が揺れる。平衡感覚を失ったみたいに目の前の世界が歪む。頭がぼんやりとして何も考えられなくなる。それは睡眠薬の効果を試すために、自分で薬を飲んでみた日の症状に似ていた。
「あ……なん、で……」
私は間違いなく神父様のティーカップに薬を入れたはずなのに。絶対に間違えないよう何度も確認したから、私がそんなバカみたいなミスを犯すはずがない。ならどうして私はこんなにも眠いのだろう。それともまさか、いつの間にか私と神父様のティーカップがすり替わっていたとでも言うのだろうか。まさか天罰が下った? まさかね。そんなことを考えている間に、視界はブラックアウトして私は意識を失った。
◇◇◇
目が覚めたとき、まず視界に飛び込んできたのはペット用ゲージのような小さな檻だった。私の四方は鉄製の柵で囲われていて、私は自分が檻の中に閉じ込められていることを悟る。幸いにも手足は縛られておらず自由だった。鉄の檻を掴んで揺らしてみる。しかし、ガシャンと音が鳴るだけで壊せそうにはなかった。何これ、どこなんだここは。先ほどまで私は神父様と一緒にお茶をしていたはずなのに。どうして私はこんなところにいるのだろう。
私の心臓は変な音を立てていて、背中には冷や汗がつたう。不安に押し潰されそうだった。
――自力で出られないのならば外部に助けを求めなければ。
ハッとしてポケットを探るも、入っていたはずのスマホはなくなっていた。助けを呼ぶ手段がないことに絶望する。どうしてこんなことになってしまったんだろう。そう悲観的な気持ちになったが、かぶりを振ってその感情を打ち消す。どうにかして脱出する術を見つけないと。
檻をなんとか壊せないかと試行錯誤していると、不意に部屋の扉がキィと音を立てた。きっと私が檻を開けようと音を立てていたせいで、私を閉じ込めた犯人が部屋に戻って来てしまったのだ。
全身の毛穴から汗が噴き出すような感覚があった。それと同時に、私の心臓は口から飛びてしまうのでは、と心配になるほどに大きく跳ねる。
部屋へと入ってきた人物の姿に、私の目は奪われる。
「――もう目が覚めたのか」
私の鼓膜を震わせる美しい声。扉を開けて部屋へと入って来たのは、愛しの神父様だった。彼は檻の中に入っている私を見ても顔色一つ変えず、いつものような微笑みを浮かべている。私は神父様のその表情を見て、「私をここに閉じ込めたのは神父様だ」と直感的に感じた。
「し、神父様……ど、どうして……」
「私の茶に薬を混ぜようとしただろう。神は全てを見ている」
「え、あ……」
「私の茶とお前の茶が入れ替わったのがそんなに不思議か?」
嘲笑うような言い方。神父様は私に対して丁寧に接することはやめたらしい。いや、普通に考えたら睡眠薬入りのお茶を飲ませようとした私に対し、それでもなお丁寧に接するわけがない、なんて思い直す。彼のその態度の変化は当然だった。
「正義と信仰によって護られた私に薬物を飲ませることなどできない。どんな策を講じようとも意味はなく、お前には私を害することなどできないのだ。絶対に」
神父様の唇が弧を描く。高圧的なその物言いも、彼をより神々しく見せている。こんな時でも私は、神父様のその姿を綺麗だと思った。
「悪魔に魅入られたお前には私が直々に天罰を下す」
神父様は手に持ったロープを掲げるようにして私に見せる。私はきっとあのロープで神父様に首を絞められて殺されるのだ、と、漠然とそんなことを思った。神に仕える神父様が人を殺すなんておかしなことだけど、何故かそれは違和感がなかった。そして不思議と恐怖はなく、私は当たり前のことであるかのように、その事象を受け入れていた。
「神父様に殺されるなら本望です」
「……何?」
ピク、と神父様の眉がひそめられる。恐らく神父様にとって私の発言は想定外だったのだろう。それもそうだ。檻に閉じ込められてこれから殺されようとしているのに恐れ慄かず、泣き喚かないどころか「あなたに殺されるのなら本望」だなんて言う女が、まともであるはずがない。普通なら命乞いの一つや二つしているはずだろう。神父様が不思議に思うのも無理はない。
――しかし、私は神父様に対する恋心がどうしても止められず凶行に及ぼうとした女だ。普通であるはずがない。
そうは言っても、無理やり彼を手中に収めようとすることにわずかな罪悪感を抱いていた。「心が手に入らないのならせめて体だけでも」そう望むことがどんなに罪深いことかは分かっている。分かっているけれど、どうしても止められなかった。
だから私のこの思いに終止符が打たれることは、それはもはや僥倖とも言えた。それも神父様の手によって終止符が打たれるのだ。それは幸運以外の何物でもない。
真っ当に告白して真っ当に振られたとしても、その程度では私を止められない。もはや失恋など障害にもならないのだ。遠くに引っ越したとしても、きっと私は神父様の元へ戻ってきてしまうだろう。きっと死ぬ以外にこの思いを止める術はない。だから私が神父様に殺されることを望む理由はあっても、命乞いをする理由は一つもなかった。
私は、私を見下ろす神父様の前にただ平伏し、彼が手に持つロープが首にかかるのを待つ。
「好きです。どうしようもなく神父様のことが好きなんです。言い訳ですが私は神父様のことが欲しかっただけで、神父様を害するつもりは一切ありませんでした」
「…………」
「好きです。どんな罰も受け入れます。私の死によって償えるのなら悔いはありません」
その言葉に、神父様からの返事はなかった。不思議に思って顔を上げると、神父様は目を丸くして、きょとんとした顔で私を見下ろしていた。初めて見る表情だ。その驚いた顔も可愛らしくて好きだ、と思った。そんなことを思う状況ではないにもかかわらず、そう思ってしまう自分がどうしようもなく気持ち悪かった。それでも、どうしても、止められない。
「ごめんなさい神父様」
「…………」
「好きなんです」
「…………」
「好きです」
「……。私を盲愛するその信仰心は認めよう。だが、信者とは神に祈り身を正し、奇跡が起きるのをただひたすらに待つべきだ。受け身に徹することもできず、神の御体に触れようなど言語道断」
「……え?」
神父様の発した言葉は私の想像と違っていて、今度は私が目を丸くする番だった。もっと「気持ち悪い」と罵られたり、引かれたり、怒られたりするかと思った。それなのに、神父様の言葉はまるで私を教え諭すかのようだった。
「神はお前を赦す」
「え、と……それは……」
「神を信仰する者に慈悲を与えるくらい造作もない。私に従え。信者としてあるべき姿を教えてやる」
神父様は檻の前にしゃがみ込み、中にいる私と視線の高さを合わせる。そして彼は檻の隙間からこちら側へと手を差し込んだ。私は恐る恐るその手を取る。神父様は私の手を振り払ったりはしなかった。
丁寧に手入れされた赤い爪と同様に、入念にケアされているのか神父様の手はスベスベとしている。神父様の手の平はとても大きくて、私の両手で握ってもなお覆い尽くせないそのサイズ感に、男性的な魅力を感じてまた私は神父様を「好きだ」と思った。
神父様の手を握ったまま放心する私をまっすぐに見つめながら、彼は紅の引かれたその唇を持ち上げる。
「神の導きに従えば、私(かみ)の愛の一欠片くらいはお前に与えられるかもしれんぞ」
その一言で、『神父様を監禁しようとしていた私』が、逆に『神父様に監禁される』生活が始まった。