※虚月館イベ設定





「クリスさーん、アタシ達と遊んで行かなーい?」

「い、いえ……仕事で来ただけですので……」

「照れちゃってカワイー。伍さんは遊んで行ってくれるわよ?」

 キャッキャと盛り上がる卓を尻目に、壁際の卓にて私は客のためにウィスキーの水割りを作る。グラスに大きな氷を入れる私を舐めるように見ながら、「新人さん? 見ない顔だねー」なんて語り掛けてくる客に精一杯の笑顔を作って源氏名を名乗る。
 ──正直、もうすでに帰りたかった。

 お金が足りないなら稼げばいい。そう思ってこの店に入店したものの、私はこの空気にどうしても馴染めそうになかった。他の嬢のようにケバケバしいほどの化粧は私には似合わないし、見ず知らずの人に猫撫で声で媚びを売るのも苦痛でしかない。
 盛り上がっているあちらの卓で名前が上がるクリスさんや伍さんのような美形の男性が来てくれるのならいざ知らず、現実は非情で、やって来るのは下品なおじさんばかりだった。

 目標金額に達したらすぐに辞めよう。そう思いながら、作ったウィスキーの水割りを客に差し出す。客はグラスに口を付けながら、未だに私を見つめ続けている。

「キミ可愛いねー。おっぱいは何カップあるの?」

「そういうのはセクハラって言うんですよ。秘密でーす」

「ちょっとくらい良いじゃん! オジサン秘密にするからさー」

 こっそり耳打ちしてよ。そう言って近付いてきた客の手が私の太ももの上に置かれ、ぞわ、と全身に鳥肌が立った。バレないとでも思っているのか、小指だけを動かして肌を撫でる客の手付きが気持ち悪く、嫌悪感が湧き上がっていく。

「ちょっ、ここお触り禁止ですよ!」

「皆もっと凄い事やってるよ? こんなのお触りのうちに入らないって」

「やだッ、離してください!」

「ッ、何だその口のきき方は! こっちは客だぞ!?」

 急に怒鳴られ、ビクリと身体が震える。店内に響き渡るような声で怒鳴られたため、他の卓に座っていた客や嬢の視線が一斉にこちらへ向けられる。

 なに、喧嘩? あの子最近入った子じゃない? あー、怒らせちゃったのかぁ。
 なんていうヒソヒソ声が聞こえ、かぁ、と顔に熱が集まった。こんな風に割る目立ちして、先輩の嬢に何て思われるだろう。きっと他のお客さんからの心象も良くないだろうし、お店にも迷惑がかかってしまう。私は何て事をしてしまったのだろう。

 俯いて黙り込んでいると、客は私の太ももに置いた手をサワサワと動かしながら「こっちは金払ってるんだから大人しくしとけばいいんだよ」と言った。

「若い子の肌はスベスベでいいねー」

「…………ッ」

 気持ち悪い。けれど、これを耐えなければきっとお店にも迷惑がかかってしまう。唇を噛み締め、襲い来る嫌悪感を必死に耐える。
 気持ち悪い。早く帰ってくれ。そう思いながら、なおも耐える。

「──お客様。その手を離していただけませんか?」

 突然頭上から降って来た声。俯いていた顔を上げて、その声の主へと視線をやる。
 ──そこに立っていたのは、クリスさんだった。

「当店のスタッフへの過度な接触はご遠慮いただいております。ご配慮をお願いしたいのですが」

「こっちは客だぞ!? 金払ってンだよ!!」

「ルールを守れない方をお客様とは思えません。穏便に済むうちに、どうかお引き取りください」

「ンだテメェふざけんな──……!」

 荒々しく立ち上がってクリスさんに掴みかかろうとした客の手を慣れた手つきで払い、クリスさんはそのまま客を背負い投げる。ダァン、と音を立てて客は床に沈み込んだ。
 店内の人間はみな華麗に決まったクリスさんの背負い投げを息を飲むように見つめていて、ざわついていた店内はいつのまにかシン、と静まり返っていた。

「この方のお会計をお願いします」

 パンパンと音を立てて手を払いながら、クリスさんはこのやり取りを呆然と見ていた黒服に声をかける。
 クリスさんに声を掛けられ、ハッとした数名の黒服は慌てて床に沈んだ客を運び出す。その様子には目もくれず、クリスさんは振り返って私を見た。

「お怪我はありませんか?」

「あっ、は、はい! 大丈夫です! 助けてくださってありがとうございます……!」

「礼には及びませんよ。貴女はウチの大切なスタッフですから」

 そう言ってクリスさんはにっこりと微笑み、「ここにいては目立ってしまいますので、とりあえず裏に帰りましょう」と言ってフロアの視線から自身の身体で私を隠すように、ごく自然な動作で私の肩を抱いた。

 あの客に触れられた時は嫌悪感しか湧かなかったのに、クリスさんに触られるのは不思議と嫌ではなかった。むしろ、私を後期の視線から守ってくれた事がひどく嬉しく感じられ、心臓が脈を打ち始める。

「ク、クリスさん。本当にありがとうございます」

「迷惑なお客様もいらっしゃいますから、何かあればいつでも教えてくださいね」

 スタッフルームのソファまで付き添ってくれたクリスさんに改めてそうお礼を言うと、彼はまた優しく微笑んだ。身に沁みるようなクリスさんの優しさが嬉しくて、先ほどまでの緊張が少しずつほぐれていく。

「クリスさんは本当に優しいですね。見た目だけじゃなくて、心も綺麗な方なんですね」

「えっ、き、綺麗ですか? 私が? あ、ありがとうございます……。貴女も十分お可愛らしいですよ」

 わずかに頬を染めながら照れたような笑みを浮かべてそう言ったクリスさんを見て、心臓が大きく跳ねる。

 ──今、恋に落ちる音がした。
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