「ドクターが全ッ然、私に手を出してくれない……!」

 ダァン、と音を立てて机に叩きつけるようにして置かれたコップから、ジュースの飛沫が零れて私の手の甲と机を濡らす。普通に置くつもりだったのだが、恨み節がこもってしまい、想像以上の力が入ってしまった。

 ――本当の私はコップを叩きつけてジュースをこぼすような野蛮な女ではない。こんなハズではなかったのに。すべては奥手すぎるドクターが悪い。

 机に零れたジュースをいそいそと拭く私を見て、始めはぽかんとした表情を浮かべていたダ・ヴィンチちゃんは、「あはっ」と噴き出した。

「いやいや、まさか第一声が愚痴から始まるとは思わなかったな」

「だ、だって! 告白をオーケーしてもらってからどれだけ経ったと思う!? 三週間だよ! なのにまだちゅー所か、手すらまともに繋げてない……ッ!!」

「あはは。ロマニの肩を持つワケじゃないけど、すぐセックスしたがる性欲猿よりはマシなんじゃないかい?」

「セッ…………!?」

「そういう事に関しては焦っても良い事はないと思うけど」

 そう言ってダ・ヴィンチちゃんは机の上に広げられたお菓子のひとつをひょい、と摘まんで口に放り込む。うん、美味しい。そう言って微笑んだダ・ヴィンチちゃんに続いて私もお菓子を口に入れる。口内に広がる甘さにわずかながら幸せを感じるも、私の不満は解消されなかった。でも、と口を開きかけた瞬間、私たちの話を聞いていたらしい同僚の職員二人組が「でも手を出されないのって不安になっちゃいますよねー」と言って会話に入ってきた。

「私に魅力がないんじゃないか? とか、いろいろ考えちゃいますよねぇ」

「でもナマエさんに魅力がないわけじゃないと思うんだけど……なんだろ、ドクター枯れてるのかな?」

 枯れている、という言葉がツボに入ったのか、ダ・ヴィンチちゃんは「ロマニが枯れてる!」と復唱してまた声を上げて笑いだす。
 ダ・ヴィンチちゃんは面白い、と言って笑っているけれど、私にとっては笑い事じゃない。もし一生そういう恋人らしい事ができなかったらどうしよう、という不安に包まれる。

 ――あまり考えたくはないが、ドクターは三十路だ。今こうし て手を出されなかったら、あと何年か経ったら、本当にそういう事をする気が起きなくなってしまうのではないだろうか。フェルグスさんやイスカンダルさんならまだしも、ドクターはそういうタイプの男の人ではないから、性欲、とか、そういうのは減退する一方な気がする。

 完全な私の想像なので真偽のほどは分からないけれど、一度不安になってしまった物はもうどうしようもなかった。一生ドクターと恋人らしい事できずに終わるなんて、そんなの嫌だ。いや、決してそんなえっちな事がしたいわけではないのだが、キスのひとつもしてくれないのは悲しかった。

「わ、私はどうしたらいいんですかね……?」

「うーん、ナマエさんが悪いとは思えないけど……。でも、ドクターっていつも疲れ気味ですよね。そのせいかな」

「確かに。いつ寝ているか分からないですよね、ドクターって。疲れが取れたら変わるんですかね?」

「あっ! 疲れているロマニを癒してあげるために、いっその事赤ちゃんプレイでもけしかけてみるかい?」

 いやいや赤ちゃんプレイはないわー、と、ダ・ヴィンチちゃんと職員の三人は声を合わせて笑っている。それはも う楽しそうに。

「ひ、ひどい! 他人事だと思って……!」

 私は真剣に悩んでいるのに、と不満の声を漏らせば、ダ・ヴィンチちゃんと職員たちは「ごめんごめん」と軽く言った。まだ笑いが完全に止まり切っていないあたり、本気で悪いとは思っていないのだろう。
 いや、私も「相談される側」だったらこうしてふざけてしまうような気がする。そう考えると私が怒るのは筋違いなのだが、何となく納得がいかなかった。そう思うのはワガママな事だろうか。

「まぁでも、ロマニが働きすぎだっていうのは私も思っていたよ。一日くらいは休んでもらうべきだよね」

「でもドクターがいないと始まらない仕事が多いのも事実なんですよねぇ……」

「そこはほら、天才の出番だよ」

 ちゃちゃっと片付けるから、その間にナマエちゃんはロマニと存分にイチャ付きたまえ! とダ・ヴィンチちゃんは高らかに言った。

 先ほどまでふざけていた人物とは思えないくらいに、ダ・ヴィンチちゃんは頼りになる事を言ってくれた。そんなダ・ヴィンチちゃんの笑顔はまさしくモナ・リザだ。美しい、そして、最高に頼りになる。
 本当に最高だ、天才! 感極まった私はダ・ヴィンチちゃんの手をがしっ、と掴む。

「あ、ありがとうダ・ヴィンチちゃん……!」

「なぁに、いいって事さ」

 ダ・ヴィンチちゃんはにっこりと微笑み、「私がここまでしてあげるんだからしっかりやりなよ」と言った。



 ***



 そうしてダ・ヴィ ンチちゃんの「ロマニを休ませてナマエちゃんとイチャつかせよう作戦」は始まった。正直な所、この作戦名は死ぬほど恥ずかしい。人前で読み上げられたくない作戦ナンバーワンだ。
 私の「この作戦名を他人に知られたくない」という必死の要望により、その作戦を知っているのはダ・ヴィンチちゃんとごくごく一部の職員だけとなった。当然、ドクターがその思惑に気付く事はない。

「レオナルド。ここにあった書類知らないかい?」

「ああ、それなら私が終わらせておいたよ」

「えっ!? どうしたんだい!? どういう風の吹き回し!?」

「失礼だなぁ! 少しは私に感謝したまえよ!」

「え、えぇー。まぁいいか、ありがとう。じゃあボクは他の案件を……」

「そっちも終わってるよ」

「本当にどうしたんだい!?」

 君が真面目に仕事をするなんて! ドクターがダ・ヴィンチちゃんに向かってそう叫ぶ。それを受けて、ダ・ヴィンチちゃんは「私だってやるときはやるんですぅー」と口を尖らせた。

「少し働きすぎだって職員たちが心配していたよ。『ロマニが休まないから自分たちが休憩を取るのは申し訳ない』って。部下にそう思わせるのはどうなんだい?」

「うっ! そ、それは……」

「久し振りの休暇だ、しっかり休むといいよ。ほら、ナマエちゃんロマニを連れて行って」

 ダ・ヴィンチちゃんは、ちょうどドクターからは見えない位置から私に向かってウィンクをひとつした。露骨なその仕草に、思わず複雑な気分になる。

 気を取り直し、「行こう」とドクターの腕を掴んで歩き出す。きっと背後でダ・ヴィンチちゃんはニヤニヤしながら私たちの事を見ているのだろう。見なくても分かる、絶対にニヤニヤしている。

「ちょ、ナマエちゃん早い! どうしてそんなに急いでいるんだい!?」

「なんでもない!!」

 ダ・ヴィンチちゃんの視線が痛くて、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。ドクターの腕をぐいぐいと引っ張ると、彼は困ったような声を上げながら私の後に続いた。



 プシュ、そう音を立ててドクターの部屋の扉が自動で開く。ドクターの部屋はどこか埃のにおいがして、彼はあまり部屋に帰っていないのではないか、と思った。職員やダ・ ヴィ ンチちゃんの言うとおり、ドクターはあまり休んでいないのだろう。
 部屋に辿り着くなり、ドクターは「はぁー」と声を上げながらベッドの上に倒れ込む。ベッドのスプリングのおかげで、ドクターの身体は一度だけ小さく跳ねた。

「久々のベッドだぁあ〜〜」

「………………」

 その呟きを聞いて、少しだけ罪悪感が芽生える。働きすぎと称されるドクターの貴重な休みを、私のために消費させるのはいかがなものか。ドクターにはこのまま寝てもらったほうがいいのかもしれない。

 ――うん、きっとそうだ。そうに違いない。

 私はそろそろ戻るね、そう声を掛けるも、ドクターからの反応はない。不思議に思って近付くと、ドクターは小さく寝息を立てていた。この一瞬の間に、ドクターは眠りに落ちたのだ。

「…………はっや」

 思わず私の口からそう漏れる。そんなに疲れていたのだろうか。とりあえず、眠ってしまったドクターのために毛布をかけてあげるくらいの事はしておこう。



 ***



「ん、んん〜〜……よく寝た……」

「あ、おはようドクター」

「うぉわあッ! ナマエちゃん!?」

 大きく伸びをしたドクターは、私の存在に気付くなり、慌てふためいてベッドから落ちた。痛そうな音を立てて床に倒れたドクターに近付き、「大丈夫!?」と声を掛ける。
 ドクターは強打したであろう背中をさすり、「大丈夫」と言いながら身体を起こした。

「も、もしかしてずっと此処にいたのかい!?」

「途中お昼食べに行ったりしていたから『ずっと』ってわけでは……」

「お昼!? ボク何時間寝てた!?」

「えっ、な、何時間だろ……たくさん……?」

 私がそう言うと、ドクターは「自分の部屋に帰ってても良かったのに!」と私に謝りながら言った。

「ナマエちゃん暇だったでしょ!? ボクの事なんて放っておいて良かったのに!」

「本とか読んでたからそれは平気。ただ、その……少しでもドクターのそばにいたくて……」

「――えっ?」

「せっかく、その……恋人同士になれたのに、まだそれらしい事なんにもできてなかったから……。だから、少しでもドクターのそばにいたかったんだけど……め、迷惑だった……?」

 ドクターは一瞬固まった後、見る見るうちに顔を赤く染めた。えっ、とか、あっ、とか、言葉にならない言葉が何度もドクターの口から漏れる。
 そんなドクターにつられて、思わず私の顔も赤くなってしまった。途端に、自分はすごく恥ずかしい事を口走ってしまったのではないか、と不安になっていく。二人して黙り込んでしまったせいで、部屋に気恥ずかしいような微妙な空気が流れる。どうしよう、こんな空気にしたかったわけではなかったのに。

「ごっ、ごめん! 私そろそろ帰る……!」

「ッ、ナマエちゃん待って!」

 耐えられずに部屋を出ていこうとした私の腕を、ドクターはぱし、と掴んだ。反射的に振り向くと、私をまっすぐに見つめるドクターと目が合う。ドクターが私を見つめている。そう思ったら、何故か涙が出そうになった。

「ナマエちゃんの気持ち、分かってあげられなくてごめん。……帰るなんて言わないで」

「………………」

「こっちおいで」

 そう言ってドクターは、部屋の中央に置かれた出しっ放しのこたつまで私を導く。腰を降ろしたドクターのすぐ真横に座る。その間も、ドクターは握った私の手を離す事はしなかった。

「ごめん、ドクターが仕事で忙しいのは分かってるんだけど……」

「いや、放っておいたボクが悪かった」

「………………」

「本当にごめんね。……ボクなんかが相手じゃ君にはつまらないかもしれないけど」

 ドクターのその言葉を聞いて 、カッと頭に血が上った。
 それは、自分自身の事とはいえ「ボクなんか」と私の好きな人を貶された事、それに対する怒りだった。

「なんでそんな事言うの!?」

「ッ! ご、ごめ……」

「反射的に謝らないで!」

「………………」

「なんでこうなっちゃうの!? 私はただキスとかハグとか、恋人らしい事がしたかっただけなのにぃいい……!!」

「えっ」

「――え?」

 鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべるドクターを見て、自分が何を口走ってしまったのかを思い出す。もしかしなくても、私はものすごく恥ずかしい事を口走ってしまったのではないか?

「まっ、待って! 今のなし! 忘れて!!」

「……ナマエちゃん、そんな事思ってたの?」

「うわぁあああーーッ!!」

 穴があったら入りたい! ここまで強く思ったのは生まれて初めての事だった。どうして私はあんな事を口走ってしまったのだろう。頭に血が上っていたからとは言え、あまりにも迂闊だった。

「ナマエちゃんが嫌じゃないのなら……キ、キス……する、かい?」

「ぅえッ!?」

 ドクターの発言に驚き、変な声が出てしまった。私の驚きの声を聞いたドクターは、ハッとしたような表情を浮かべ、両手を前に出して「いやいや」をするように勢いよく振った。

「嫌ならいいから! ご、ごめん忘れて!!」

「い、嫌じゃない! 嫌じゃない……!」

 このチャンスを逃してはいけない。そう思い、慌ててドクターの言葉を否定する。するとドクターは「そ、そっか……」と顔を赤く染めながら呟いた。蚊の鳴くような音量で呟かれたドクターのその声は、私の心臓の音で掻き消されそうだった。どっ、どっ、とうるさく音を立てる心臓のせいで、胸がとても痛い。緊張で死んでしまいそうなくらいだった。

 つい、とドクターの右手が私の頬に伸び、私の前髪を耳にかけた。その拍子にドクターの指が私の耳をかすめ、思わず身体がびく、と跳ねる。

「その……目、つぶってもらってもいいかい……?」

「う、うん……」

 ドクターのその言葉に従って目を閉じると、より鮮明に心臓の音が聞こえてきた。ドクターにもこの音が聞こえているかもしれない。そう思うくらいに、私の心臓は激しく暴れていた。

「………………」

「………………」

 唇が触れ合うまでの数秒間が、何十分もの長い時間のように感じられた。きっと実際には五秒にも満たないわずかな時間だったのだろう。しかし、緊張で神経の昂っていた私には、ひどく長い時間のように感じられた。

「…………んっ」

 そうして彼の唇が、私の唇に触れる。触れた唇の感触と、それから吐息を感じられそうなくらいに近付いた顔の気配。胸の中で恥ずかしさと嬉しさが混ざり、涙が出そうだった。ドクターと両想いになってから、初めてできた「恋人らしい事」なのだ。嬉しくないはずがない。

「…………な、なんだか恥ずかしいね」

 唇を離したドクターは、顔を真っ赤に染めながらそう呟いた。少年のようにはにかんだその表情は、とても三十路の男性のものとは思えない。不覚にも、ドクターを「可愛い」と思ってしまった。

「……ドクターのそういう所、可愛いよね」

「? いや、ボクよりナマエちゃんのほうがずっと可愛いよ」

「は、恥ずかしいからそういうのやめて!!」

「えぇ……本当の事を言っただけなのに」

 赤くなった顔を隠すように両手で覆い、うつむいた私の頭をドクターは撫でた。
 心臓はまだドキドキと音を立てている。少しキスをしただけで、まさかこんなにも心を乱されるなんて思ってなかった。キス以上の事を望んだ時、私の心臓は破裂してしまうかもしれない!



(後日行われるダ・ヴィンチちゃんと職員による結果報告と言う名の尋問により、恥ずか死しそうになる事を今の私はまだ知らない)
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