薄暗い店内。安いスピーカーから流れ出るミュージックは音質が悪く、こもったような安い音が店内に響いている。そのミュージックに負けず劣らず聞こえる人の話し声、笑い、叫び。酒と煙草の煙と、それから甘ったるい香の匂いが混ざり合い、独特な気持ちの悪い空気を作り上げている。
――ここは、欲望渦巻く新宿のとあるクラブ。
「お姉さんいまヒマー?」
「いいえ」
声を掛けてきた男をそう一蹴し、飲みかけのカクテルが入ったグラスを持ってその場を移動する。声を掛けてきた男は顔が良くなければ、金を持っていそうにもない。そんな男を相手にするほど私は暇ではない。だったら独りで酒でも飲んでいたほうがはるかにマシだ。
私がレベルの低いナンパを相手にしないと悟ったのか、その男は私に追い縋るような事なく、また別の女の子に声を掛け始めていた。――脳が下半身にあるような男だ。穴さえあれば誰でもいいのだろうか。私の次に声をかけたのは、見るからに垢抜けない、押しに弱そうな女の子だった。きっとあの子は断りきれなくて、あの男にホテルにでも連れ込まれるのだろう。可哀想に。
そうは言っても、その女の子があの男に食われようと何をされようと、私には関係のない事なのだが。この新宿では、強い者しか生き残れない。善人は悪人の餌に、弱者は強者の糧となる。
それが真理。それが理解できない者は生き残れない。悪夢のようなこの街で生き抜くためには、私たちは悪に、いや、強くならなければいけないのだ。あの女の子より、あの下半身直結脳男のほうが強かった。この後彼女に何が起ころうとも、真実はただその一つだけなのだ。
ふらふらと店内を移動し、落ち着ける場所を探す。しかし、シートはどこも乳繰り合う男女で満席だった。はぁ、と溜め息をひとつ吐き、踊り狂う人の波の間を縫ってバーカウンターまで向かう。
カウンター付近の人はまばらで、VIPルームから声を掛けられるのを待っている顔の良い女の人が数人と、カウンター席に綺麗な長い黒髪の女性が一人座っているだけだった。
カウンター席のその人の髪は暗い店内に散らばるレーザーライトの光に反射し、より艶やかに輝いていた。傷みなくよくそこまで伸ばせたものだ、と感心にも似た感情を抱きながら、何の気なしにその人の隣に座る。
「――…………!」
チラリとその人の顔を見た瞬間、思わず息をのんだ。女だと思っていたその人は、実は男の人だったのだ。それも、絶世の美丈夫。彼の美しさは呼吸の仕方を一瞬忘れてしまうほどで、美術品の類と見紛う美しさだった。
こんなにも整った顔をした人は、私の人生で初めて見た。きっと一生、この人を超える美しさを持つ人には出会えないだろう。それくらいに美しい、空前絶後の美丈夫だった。
「ん? なに、オネーサンも独りで飲んでんの?」
私の視線に気付いた彼は、口元だけを上げてそう言った。形のいい彼の唇が、微笑みの形に歪む様から目が離せない。彼の動きも、声も、何もかもが「完成された美」なのだと思った。彼の顔にかかる長い前髪も、長髪の男性特有の不潔さを感じず、ただただ美しいと思えた。
本当に何もかもが美しい男だった。
カクテルの減った私のグラスに気付いた彼は、「良かったら奢ってやるよ」とバーテンダーに適当な酒を注文する。それに対して私は、「必要ない」とも「ありがとう」とも言えず、ただ呆然と彼に見入っていた。
さ、どうぞ。バーテンダーの作った酒を私のそばに置きながら、彼はそう微笑む。そう言われてから、やっと私は一言「ありがとう」と言葉を発する事ができた。しかし、やっとの思いで紡いだその言葉はひどくか細く、震えていた。
店内に流れる安い音質のミュージックで声が掻き消されてしまったかと不安に思ったけれど、彼は私の言葉を聞き取れたようで「どういたしまして」と綺麗に微笑んだ。
「オネーサン名前は? なんていうの?」
「ナマエ、です」
「ふぅん、ナマエね。ここでよく遊んでんの?」
いきなり名前を呼び捨てにされ、少しだけ馴れ馴れしいな、と思った。けれど、さしたる不快感はない。むしろ、彼が誰かを敬称付きで呼ぶ事のほうが違和感があるような気がした。
「ううん。ここには初めて来たの」
「へぇ。独りで初めての遊び場に来るのは危なくないかね? 俺みたいな悪漢に襲われちまうかもしんないよぉ?」
「あはは、あなたみたいに綺麗な顔の人なら大歓迎かな」
「呵々、嬉しい事言ってくれるねぇ! 俺も結構アンタの顔好きかもしれないなァ」
たとえお世辞だったとしても、彼のような美丈夫に「顔が好き」と言われ、思わず胸が高鳴る。
本気で照れてしまい、カクテルを奢られた時のように「ありがとう」と口にする事ができず、誤魔化すように彼に差し出されたグラスに口を付ける。スライスされたレモンの飾られたカクテルは、その見た目の通りどこか紅茶のような味がした。飲みやすいその味に、ついゴクゴクと勢いをつけて飲んでしまった。
「おー、グイっと行ったねぇ」
切れ長の目を半月型に細め、彼は「俺も負けてらんねぇな」と片手を上げてバーテンダーに新しい酒を注文する。そうして新たに出されたグラス二つのうち一つを私に差し出し、乾杯してから彼はそのグラスに口を付けた。
*
「なぁナマエ、この後ヒマかい? ヒマならどっか別のところ行かねぇ?」
しばらく喋りながら酒を飲み、何杯目かのグラスが空になった頃、ふいに彼はそう言って私を誘った。
もちろん、私もそのつもりでいた。承諾の返事をすると、彼は「じゃあ行こうか」と立ち上がる。彼に続くように私も立ち上がろうとした瞬間、足にうまく力が入らず、私はその場に膝から崩れ落ちた。
私の身体が床に崩れ落ちたのを皮切りに、ぶわっ、と全身から汗が噴き出す。心臓はバクバクとうるさい音を立てている。それは緊張や恋愛のドキドキと違い、いわゆる動悸だとか、不整脈だとか呼ばれるような不快感を伴うものだった。先ほどまで酒を飲んで喉を潤していたはずなのに、口は異常なほどに渇き、呼吸が浅くなる。
――おかしい。これは、何かがおかしい。
酔っぱらって身体に力が入らないのとも違う気がする。酔っただけならこんな風に動悸が起こったりなんてしない。少なくとも、私は今までそうなった事がない。
「ナマエ、大丈夫か?」
頭上から投げかけられた彼のその声が、非常に遠くから聞こえてきたような気がした。耳に膜が張っているようで、店内に響いていたミュージックも、どこか遠い世界のもののように感じる。
何これ、どういう事なの? そう言いたかったのだけれど、震える私の唇は意味のある言葉を紡げない。私の口から出てくるのは「あぅ」とか「うぅ」と言ったような喃語だけだった。
「本当に大丈夫か?」
そう言ってしゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ彼の顔は――ひどく、歪んだ笑みを浮かべていた。
「あっははァ! ばっちりキマってんじゃん! アンタに振舞っていた酒、度数高いうえに実は薬混じってたんだよ。気付いてたかァ?」
「…………ッ」
「ん? 俺に薬を混ぜる暇なんてなかったって!? いやぁ残念! 実はあのバーテンダー、俺の部下なんだよ! ていうか、ここら一体が俺のシマだし? 『新宿のアサシン』で通ってンだけど知らねぇかな。知られてなかったら傷付くなぁ!」
何が面白いのかさっぱり分からないが、彼はひどく楽しそうに嗤っている。
彼の言っている事が、理解できない。何か言葉を話しているのだと認識はできるけれど、微睡の中で聞くテレビの音のように、話の内容までは頭に入ってこない。聞き取れない。理解ができない。
視界は揺れ、美しかった彼の身体がぐにゃりと歪む。気分がひどく悪い。吐きそうだ。喉の奥まで酸っぱい胃液がせり上がってきているのが分かる。気持ち悪い。
もしかして世界は今この瞬間滅亡するのではないだろうか。そう思うくらいの絶望感に苛まれる。
「いやぁ、本当に可哀想だなアンタ。哀れで惨めで救いようのねぇ女だ。もうちょっと謙虚に生きていたら良かったんだけどな。俺のスポンサー様の事を袖にしちゃったのが運の尽きだったなァ」
スポンサー様はアンタの死をご所望だ。そう言って彼は何処からか取り出した銃の安全装置を外し、銃口を私の頭に向ける。
そして、ニコッ、という効果音が付きそうなくらいの笑顔を浮かべた。
「――なァんて。どんな女かと思ってたけど、話してみたら存外面白かったから殺すのはやめだ! でもスポンサー様の顔は立てなきゃなんねぇからさ、アンタは死んだ事にする。外には出さない。人目に付く場所に置かない。俺以外は、誰ひとりとしてアンタが生きている事を知らないようになる」
俺みたいな無頼漢に捕まっちまうなんてアンタますますもって救えねぇよな。そう言って彼は、うずくまる私を強引に担ぎ上げる。突然の浮遊感に私の三半規管は耐え切れず、口から黄色い胃液が吐き出された。その酸っぱい味と臭いはさらに私を苦しめる。吐き出した胃液に誘発され、もう一度「うぇッ」とえずきが漏れるも、今度は私の口から胃液が吐き出される事はなかった。
私の吐きだした胃液の飛沫が彼にかかっている。けれど、彼はそれを特に気にする様子もなく、呵々、と笑った。
「俺も大概だからさァ、ナマエが頭アッパラパーになってもちゃぁんと面倒見てやるよ。金はあるからさ、贅の限りを尽くして面白おかしく過ごそうな」
「ぅ、うう……」
「んじゃ、とりあえず俺らのアジトに案内してやるとするか! アンタに安っぽいホテルは似合わなそうだもんなァ!」
「……ぁ、あぅ……」
「大丈夫ダイジョーブ。心配すんなって! 俺ァ一回こっきりで捨てるほど薄情な男じゃねぇよ。何だったら、アンタに俺と同じ刺青彫って愛でてやってもいいんだぜ?」
そう言いながら歩かれる振動がつらく、込み上げる吐き気に耐えられそうにない。頭が痛い。苦しい、気持ちが悪い。
「呵々。バッド入ってるその顔いいねぇ」
あ、胃液の酸っぺぇ味がする。吐き気に耐える私にキスをした彼は、一言そう呟いた。
(カルデアのマスターに壊されるまでの短い逢瀬)