いいこと、わるいこと



※現パロ
※ツバセキ前提の失恋モブ(俺)
X(旧Twitter)で相互が呟いていたネタです




 ――俺は今日、憧れのセキさんを誘った。
 セキさんは俺がよく飲みに行く店で一緒になる男性だ。彼は見た目も美しければ中身も美しい。気さくで思い切りの良い彼の性格に俺は救われていた。恋人のいない俺が唯一話せる相手。俺は彼のことが好きだった。

 セキさんと交流を持ち始めたのは挨拶が発端だった。会釈する俺に対し、セキさんはよく通る声で「良い夜だな」と言ってくれた。陰気な俺とは大違いだ。そこが好きだった。セキさんは口下手な俺を馬鹿にすることもなく、優しく会話をしてくれた。そこが好きだった。彼は交流が多いのか、よく食べ物を貰っていた。いわゆるお歳暮とでも言うのだろうか。それを「一人じゃ食べきれねぇから」とお裾分けをしてくれた。そこが好きだった。
 だから、彼が俺とサシでの誘いに乗ってくれたときは本当に嬉しかった。これを機に俺はセキさんともっと仲良くなりたい。もっと彼のことを知りたいし、もっと俺のことを知ってほしい。

「なぁ、このあとイイコトしに行かないか?」

 程よく酔いの回ってきた午後二十三時、セキさんは目を細めながらそう言った。アルコールが入ったせいか、彼の肌はわずかに上気している。赤く染まった頬にうるんだ瞳。そんな顔で「イイコト」なんて言われてはもう堪らない。俺の心臓はドクンと、口から飛び出してしまいそうなほどに大きく跳ねた。ドクドクと音を立てる心臓の鼓動は、彼に聞こえやしないかと心配になるほどだった。
 ――イイコト、とは、一体何を指す言葉なのだろう。
 期待感で下半身に熱が集まる。俺の脳内は邪まな妄想で埋め尽くされた。もしかしてセキさんが俺によく挨拶をしてくれたのも、お裾分けをくれたのも、すべて俺のことが好きだったからなのではないだろうか? だから今日もこうして俺の誘いに乗ってくれたのではないだろうか? 俺がセキさんのことを好きなように、セキさんも俺のことが好きなのかもしれない。何度も夢に見た光景が目の前に広がっている。
 男を見せろ、俺。据え膳食わぬは男の恥と言うではないか。セキさんの誘いを断るなんてあり得ない。

「ッ! もちろんです!」

 気持ちが先走りすぎて大きな声が出てしまった。賑やかな店内にもかかわらず俺の声はかき消されなかったようで、人々の視線が俺に集まる。店中の視線を集めてしまった羞恥心から小さくなる俺を見て、セキさんは「元気で良いねぇ」と笑っていた。


 ◇◇◇


 そうしてセキさんに誘われ連れていかれた場所。背徳的な香りが鼻腔をくすぐる。そこは俺の想像したようないかがわしい場所などではなく――深夜営業中のラーメン屋だった。店員の「ラッシャイ!」という声が響く。店内にいる客と店員どちらも、ほとんどが男性で構成されていた。

「深夜のラーメンってのも“イイ”よなぁ!」

 蛍光灯の黄みがかった明るい光がセキさんを照らしている。背油の浮いたラーメンを前にして、両手を合わせるセキさんはとても健康的に見えた。俺が邪まな想像をしてしまったことが申し訳なくなるほど、彼は健全で健康的な成人男性だった。

「……そうですね。ラーメン、良いですよね」
「深夜に、ってのがまたイイよな」
「はい。分かります」

 俺がセキさんに同調するようにそう言うと、セキさんは口角を上げながら「だよなぁ!」と言った。

 セキさんが綺麗に割ったわりばしで麺をすする。彼の薄い唇に吸い込まれていく麺が羨ましかった。数回ほど咀嚼したのち、彼の喉仏が上下に動く。そうしてまた「あ」とセキさんの唇が開かれ、麺は彼の口に吸い込まれていく。
 セキさんの唇は背脂で濡れ、てらてらと光っていた。その唇から目が離せない。そんな俺の視線に気付いたセキさんは、「どうかしたか?」と言いながら赤い舌でぺろりと自身の唇を舐めた。その仕草すら、俺にはとてもセクシーに見える。

「あんたも早いとこ食べたほうがいいぜ。せっかくの麺が伸びちまうだろ」
「あっ、そ、そうですよね……!」
「時間は貴重! ラーメンの美味い瞬間ってのは短いからよ!」

 セキさんに見惚れていた自分が恥ずかしい。性欲と食欲は両立できないのではなかったのか。俺は慌てて自分の目の前にある丼へと向き直り、一心不乱に麺をすすった。


 ◇


 ラーメンを食べ終えると、セキさんはぐっと伸びをして「そろそろ帰るか」なんて呟いた。その言葉にハッとする。せっかく二人きりだと言うのに、このままではこの奇跡のような時間が終わってしまう。ただ酒を飲んで、ラーメンを食べて、それだけで終わらすのはとんでもなく勿体無いことのような気がした。

「あ、あの! 俺、実はもう終電がなくて……!」

 だから貴方と朝まで一緒にいたいんです、その言葉は飲み込んだ。言ったらもう戻れなくなるような気がして。
 セキさんは俺のその言葉を聞いて一瞬だけ目を丸くしたあと、その目を伏せた。

「……そうだったのか。それは悪いことをしたな」 

 セキさんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
 全然、俺は悪いなんて思っていません。朝まで貴方と一緒にいられるならそれで良いのです。頭の中でそう唱える。しかし、その思いはセキさんには届かなかった。
 セキさんは携帯電話を取り出し、どこかへと電話を掛け始めた。会話の内容からタクシーを手配しているのだと推測できる。電話を切ると、セキさんは「あと十分くらいでタクシー着くから」と言った。せっかちなセキさんらしい。俺に確認も取らずにさっさとタクシーの手配をしてしまった。
 ――俺とセキさんの逢瀬は残り十分。
 セキさんの気遣いを無碍にはできない。タクシーを断ることも、朝まで一緒にいてほしいと伝えることも、小心者の俺にできるはずがない。俺には残されたこの十分間を有意義に使うことしかできない。
 セキさんに何を話すべきか、何を伝えるべきか、考えろ。俺に残された時間はわずかだ。

「……今日、楽しかったです。また飲みに行きましょう」
「応よ! もちろんだ」
「絶対ですよ」
「あんたはもっと大人しいかと思ってたんだが、こうして飲みに誘ってくれて嬉しかったぜ。また行こう!」

 俺がセキさんに伝えたかった言葉はこれではなかったのに。やはり俺は小心者だ。俺にはこんな風に当たり障りのない会話をすることが関の山で、彼に告白するなんて夢のまた夢。
 俺がこんな風だから、セキさんに朝まで一緒にいたいと言うこともできず、タクシーを呼ばれてしまうのだ。情けなくて涙が出そうだった。
 そうこうしているうちにタクシーが到着し、俺たちのそばに停まる。後部座席のドアが開くと、セキさんは「さ、乗りな」と俺に乗車を促した。

「……セキさんは乗らないんですか?」
「別のやつが迎えに行くって言って聞かないんだ。オレはそっちと帰るから、あんたは先に帰っててくれ」

 え、迎えって何? そう思ったが、俺がその疑問を口に出すより先に「今日は楽しかったぜ! じゃあな!」とセキさんに笑顔で告げられてしまい、何も言えなくなってしまった。

 タクシーのドアが閉まる。セキさんは歩道に立ったまま、俺に向かってひらひらと手を振った。タクシーが発車する。振り向いて遠ざかっていくセキさんを見ると、彼に近付いていく一人の男性の姿が目に入った。背の高いロングヘアの男性。彼が仰々しい動きでセキさんに何かを訴えているのが見える。タクシーの中からは彼らの会話は聞こえない。セキさんはやや面倒臭そうに彼を諫めていた。

 たったそれだけ、会話内容すら分からない、遠目から見ただけのほんの数十秒間のやり取り。たったそれだけでも、彼らの仲が良いことが伺えてしまった。セキさんは俺に対して、あんな風にぞんざいに扱ったりしない。呆れたような表情を浮かべたりなんてしない。俺には見せない顔を、あの長身の男性には見せている。

 俺にとってセキさんは一番大切な人だったが、セキさんにとってのオレはそうではないのだな。それが分かってしまって、俺の胸は痛んだ。喪失感にも似た痛みだ。恋人に振られた瞬間にも似ている。

 俺はこの胸の痛みを先ほどのラーメンのせいだと思うことにした。きっと胃もたれしただけ。俺もそろそろ年かな。ツンと鼻先が痛む。ラーメンって食べると鼻水が出るよな。これは涙ではない。鼻水だ。痛いのは胸ではなく胃なのだ。
 自分は失恋したわけではない。セキさんに自分よりも仲の良い相手がいることを知って、少し驚いただけ。セキさんとあの長身の男性が手を繋いでいたように見えたのは、自分の目が悪いだけ。そう自分に言い聞かせながら、俺はタクシーの座席に身を預けた。

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