幸福エスケープ

2017/10/10 22:00


 ――主。

 私の世話係として父が雇った人物は、初めて会った時から、何故か私をそう呼んだ。「主」だなんて、そんな仰々しい名で呼ばれた事はなかったため、初めて聞いた時には思わず目を見開いた。他の使用人たちは皆、私の事は「お嬢様」と呼んでいたのに。

 高い身長に均衡のとれた肉体。すらりと伸ばされた背筋と、真ん中で分けられた煤色の髪の毛。それらのせいで彼はやや神経質そうな印象を受けるけれど、中身は存外変わった人物であったようだった。


「あなたの雇い主は私じゃなくて正確には私の父じゃない? 私を『主』と呼ぶのは間違っているわ」


 疑問に思って彼―長谷部にそう聞いてみた事があった。そうしたら彼は一瞬だけ悲しそうな顔をした後、「確かに雇い主は旦那様ですが、俺にとっての『主』とはあなただけなのです」と言った。

 彼の言葉の意味はよく分からなかった。けれど、長谷部の浮かべた微笑みがあまりにも悲しげな色を宿していたため、私はそれ以上追及せず、口をつぐむ事を選んだ。




 長谷部は甲斐甲斐しく私の世話を焼く。他にも数名いる使用人の中の誰よりも、私に好意的に接してくれている。もっとも、長谷部が来てから私の身の回りを世話する使用人の入れ替わりが激しくなったため、一番付き合いの長い長谷部が私に好意的になるのは、当たり前と言えば当たり前の事だった。

 そうは言っても、長谷部のあの献身さはただ単に「私の世話係だから」と言う理由だけではないような気がしていた。私の勘違いだったら恥ずかしいのだが、もしかしたら長谷部は私の事が好きなのではないだろうか。そう思ってしまうほどに、長谷部は私に尽くしてくれている。――そんな長谷部に、私が好意を抱くのはある意味当然の事だった。


「主、紅茶が入りました。この長谷部が選んできた茶葉です。お召し上がりください」


「わざわざ選んでくれたの? ありがとう」


「いいえ! 主の世話係として当然の事です!」


 ふふん、と効果音が付きそうなくらいに得意げな表情を長谷部は浮かべる。「この長谷部が選んできた」茶葉だと強調して言ってしまうような、悪く言えばやや恩着せがましい所さえも、私に褒められたいがためにやっているのだと思えば可愛らしく思えた。

 長谷部がティーポットから紅茶を注ぐ。疵ひとつない陶器のティーカップに、琥珀のような美しい色をした紅茶が注がれていく。白い湯気とともに、芳醇な香りがふわりと部屋に広がった。


「主、焼きたてのスコーンも用意してありますよ」


「……ねぇ、長谷部も一緒に食べない?」


「い、いえ! 配下である俺が主と同じ卓を囲むなど!」


「ここには私しかいないし、誰も無礼だなんて言って怒ったりしないよ。ね、だめ?」


「……ッ! しゅ、主命とあらば……。もう一つ器を用意してまいります」


「やった、ありがとう長谷部」


 紅茶の注がれたティーカップとスコーンをテーブルに並べた彼は、扉の前で一礼し、自身の分の食器を取りに行くべく部屋を出ていった。

 身のこなしの軽やかな長谷部は決して足音を立てない。足音が聞こえないから正確な事は分からないけれど、何となく、長谷部は走って行ったような気がした。




 それから数分で、長谷部は自分の物なのであろうマグカップを持って戻ってきた。それは長谷部のイメージ通りシンプルな形のものだったが、色は長谷部に似つかわしくないピンク色だった。長谷部がピンク色のマグカップを使っている、という事実が何となく面白くて、思わず笑いがこぼれる。長谷部ってピンクが好きだったの? そう問えば、長谷部は「そういうわけではありません!」と顔を真っ赤にしながらそう答えた。


「これは知人から貰ったものです。……色味は完全に嫌がらせでしょうね」


「嫌がらせ?」


「ええ、ニヤニヤした顔で渡されたので間違いないかと。捨てるのも癪だったので職場で使おうと思ったのですが……そんなに変だったでしょうか?」


「ううん、可愛いと思うよ」


「……ありがとうございます」


 長谷部は複雑そうな表情を浮かべたあと、それを隠すようにマグカップに注がれた紅茶に口を付けた。

 彼は「可愛い」と言われるのは好みじゃないようだ。まぁ、男の人はどちらかと言えば可愛いより格好良いと言われたほうが嬉しいものなのだろう。そう考えれば、長谷部の浮かべた微妙な表情にも納得がいく。


「どう? 美味しい?」


「――え? ええ、そうですね」


「ふふ、長谷部が私のために選んでくれた紅茶だもん。美味しいのは当然だよね」


「……! お褒めに預かり光栄です」


 そんな他愛のない話をしながら紅茶を飲んでいると、廊下から私の名を呼ぶ父の声が聞こえてきた。どうしたのだろう、そう思って部屋から顔を出すと、私を見つけた父はすぐさまこちらへ駆け寄ってくる。父は何やら嬉しそうな、やや興奮したような表情を浮かべていた。


「聞いてくれ! 良い話だ!」


「…………なに?」


「お前もそろそろ結婚してもおかしくない歳だろう? 良い縁談の話を貰ってきたんだ!」


 ほら見てくれ、そう言って父は相手と思われる男の写真を広げる。


「この人は取り引き先の息子で、名前は―……」


 そして、父は聞いてもいない男の情報をペラペラと口にした。写真に写る男の人は真面目そうな雰囲気で、頭の良さそうな顔をしている。実際には会ってみないと分からないけれど、きっと優しい人なのだろう、そう思った。しかし、私はその人にそれ以上の興味はそそられない。父の口にした彼の名前も、何山さんだったか、右から左でもう思い出せない。いや、そもそも私には覚える気など初めからなかった。私にはまだ、結婚するつもりなんてないのだから。


「お、お父さんちょっと待って―……」


「今度の土曜に約束を取り付けたから一度会ってみるといい」


 勝手に話を進めないでよ。私のそんな言葉を遮り、言いたい事だけを言った父は私に写真を押し付けて行ってしまった。―父のこういう有無を言わせぬところが、昔から苦手だった。

 あの父の事だ、お見合い相手のナントカさんに会ったが最後、きっと結婚まで勝手に話を進めてしまうのだろう。私のためだとか何とか言って、私の話をろくに聞かずに決定してしまうに違いない。だから、その人に会うわけにはいかない。次の土曜までに何かしらの対策を立てなければ、私の人生はそこで終わりだ。

 絶対に結婚なんてしたくない。恋愛とか、自由な生活とか、そういうものを私はまだ体験した事がないのに!

 そんな状態で結婚など、それも興味のない人が相手だなんて、そんなの絶対に嫌だ。まだ私は長谷部に、好きだとすら言えていないのに――!


「……見合い、を、されるのですか?」


 背後から遠慮がちに呟かれた長谷部のその問いを聞いて、心臓がどっ、と跳ねた。―長谷部にお見合いの話を聞かれてしまった。同じ部屋にいたのだから話が聞こえてしまうのは当然と言えば当然の事だったが、それでも「長谷部に聞かれてしまった」というショックは大きかった。振り向いて長谷部の顔を見ると、彼は私を心配そうな目で見ていた。


「……お、お見合いなんて、したくない」


 そう呟いた私の声は、想像以上に震えていた。


「そ、そうですよね。では旦那様にそうお伝えして来ましょう。今ならまだ、きっと……」


「無理だよ! お父さんが私の話をちゃんと聞いてくれた事あると思う!?」


「………………」


「どうしよう、どうやったらお見合いなんてせずに済むんだろう!?」


「主……」


「病気にでもなれればいいんだけど世の中そんなに都合よくなんて行かないし……! あっ、怪我! 怪我でもすればいいの!?」


「あ、主! 落ち着いてください!!」


「落ち着いてなんていられないよ!! 長谷部、もういっそ私を何処かに連れて行ってよ……!!」


 私がそう言うと、長谷部は目を丸く見開き、固まった。その表情だけで、彼がひどく驚いているのが伝わってくる。ただの世話係である彼に「何処かへ連れて行って」と要求するのは、さすがに重かったのかもしれない。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたと言っても、さすがにそこまで面倒は見切られない。そういう事なのだろう。

 長谷部なら何とかしてくれるかもしれない、そうどこかで期待していた自分が恥ずかしくなる。長谷部は私の世話係なだけであって、それ以上でも以下でもない。私は少し長谷部に甘えすぎていたのかもしれない。


 うぬぼれていたと言う事実は少なからず私を傷付けたけれど、きっといま弁明できればこれ以上長谷部との関係が悪化する事はないだろう。彼に嫌われたくない一心で、「違う」と言い訳めいた言葉を発しようとした瞬間、長谷部が口を開いた。


「主命とあらば、何処までも」


 その言葉に、今度は私が目を見開く。長谷部が発したのは、私の言葉に対する承諾の返事だった。


「……ほ、本当に? 本当にいいの?」


「ええ。主が俺を頼ってくださった事、大変嬉しく思います」


「本当にいいの? ど、どうして長谷部は私にそこまでしてくれるの……?」


「あなたが俺の『主』だからです。俺はあなたのためなら何だってしてみせますよ。今も、昔も―……」


「………………」


「ご実家を出られるのでしたらまずは住む家を見つけなければなりませんね」


「……うん、そうだね」


 私が「主だから」そうしてくれるの? 長谷部にとっての「主」とは、それほどまでに価値のあるものなのだろうか。そう疑問に思ったけれど、いまはそんな事を気にしているほどの余裕はない。

 無計画に家出をした所で何の意味もなく、まず私は何処に行くのかから決めなければならないのだ。


「主はどちらへ行きたいですか? 決めてからご実家を出ましょう。急いでも意味はありませんからね」


 ――とりあえず新幹線に乗りたい。私がそう言うと、長谷部はにっこりと微笑んで「では、なるべく遠くのほうで探してみますね」と言った。




 ***




 何もかもを捨てて行くのだから、なるべく安い家を探そう。私のその一言で、小さなアパートを探す事となった。いくつか見当を付け、本格的に契約するまでは近くのホテルを転々とする。その計画で、私たちは家を出る事を決めた。


 ――決行はお見合いの前日、金曜日深夜。


 ボストンバッグに服や化粧品などの必要最低限なものだけを詰め、その時をひっそりと待つ。人々の寝静まったこの時間は静寂に包まれていて、耳を澄ませば虫の鳴き声だけがかすかに聞こえてくる。寂しげな虫たちの輪唱は、一瞬だけ私が家出をする事を躊躇させた。しかし、ここに残ったとしても良い事はない。そう思い、自分を奮い立たせるために両手で挟むように頬を叩く。パシン、という小気味の良い音が鳴り、頬に感じた痛みで目が覚める。――私は長谷部と一緒に出て行くんだから。こんな風にクヨクヨしていられない。


「主、そろそろ行きましょう」


「……うん」


 声を潜めて長谷部がそう囁いた。彼の差し出した手を取り、誰もいない暗い廊下を進む。そして音を立てないようにゆっくりと玄関の扉を開け、外に出る。ヒュウ、と吹いた夜風が身に凍み、自分を抱え込むように羽織っていたカーディガンの袖を掴む。


「知人に迎えを頼んであります。奴の車に乗って、ひとまずは俺の家に行きましょう」


「…………うん」


「夜が明けたら、新幹線に乗りましょうね」


 玄関先でそんな話をしていると、曲がり角から一台の車がやって来た。ヘッドライトが逆光になってしまっているせいでよく見えないけれど、ルーフの閉じられたオープンカーなのだろう、と思った。小さくて丸い車体のそれは、私たちの前に静かに停車する。

 開かれたウィンドウから顔を出したのは、女性と見紛うほどの美しい男の人だった。ゆるくウェーブのかかった長い髪と気だるげな表情は、彼の妖艶さを一際強くしている。彼がウィンドウのサッシ部分に身を乗り出すようにして手を掛けると、黒のXネックから覗く筋張った首筋が見え、思わず心臓がドキリと鳴った。その首はまさに男性的で、女性的な顔とは対照的なその首筋が本当に美しかった。その人は長谷部の顔を見つめ、にっこりと微笑む。


「こんばんは長谷部。僕にこんな事をさせた借りは高くつきますからね」


「借りだと? 毎ッ回毎回、出掛けるたびに俺が飯を奢ってやっているのだからそれでチャラだろう」


「まさか。銀座のディナーお願いしますね」


「……まだたかる気か貴様は」


 長谷部とその妖艶な男性は親しげに会話をしている。長谷部は私に対しては敬語しか使わないため、砕けた口調の彼はひどく新鮮で、いっそ別人のようにも見えた。

 そして、長谷部が彼に毎回奢らされているという事実も、何だか面白く感じる。意外な一面を見た瞬間だった。


 車から降りた男性はドアを開いて「じゃあ後ろに乗ってください」と、私に車に乗り込むよう促した。車から降りた彼は想像よりも背が高く、長谷部とほぼ同じくらいの高さだった。

 思っていたよりも背が高い、そう思って見つめていると、当然の事ながらその男性と目が合った。すると彼は形の良い唇の端を上げ、私に向かって微笑んで見せた。


「お久し振りですね。お元気でしたか?」


 まるで旧知の仲であるかのような彼の物言いに、思わず目を見開く。私にこんなに美しい知り合いはいなかったはずだ。


「ごめんなさい、どこかでお会いしましたっけ?」


 私がそう言うと、今度はその男性が目を見開いた。


「……いえ、何でもありません。僕の気のせいかもしれませんね。不快にさせてしまったらすみません」


「………………」


「長谷部に飽きたら僕を頼ってくれても構いませんよ。アナタなら歓迎します」


「宗三! 余計な事を言うな!!」


 長谷部がそう言うと、宗三と呼ばれた男性は「うるさい男ですね」とでも言いたそうに肩をすくめた。


「はぁ、昔もこれくらい素直だったら良かったんですけどねぇ……」


「それは言うな。……コホン。主、どうぞお乗りください」


 咳払いをした長谷部は気まずそうに目を伏せ、私に車に乗り込むよう促す。彼らの会話や目配せは私にとって意味の通じないものであったが、彼らはそれだけ昔から仲が良かったのだろう、と納得し、その意味を追及する事なく、一言声を掛けてから宗三さんの車に乗り込む。


 彼の車はミニサイズの車であっため、後部座席はやや狭かった。ここに長谷部と二人で座るのはまず無理だろう、そう判断し、私の隣の座席に荷物を置く。

 長谷部もそれを察したのか、黙って助手席に座り、運転席の宗三さんに指示を出す。静かに発進した車は、長谷部の指示通りに夜道を進んで行く。車が大通りに出た所で、長谷部は私のほうへ振り向き、「奴が俺にあの悪趣味なピンク色のマグカップを送り付けた張本人です」と苦々しげに言った。


「あっ、この人が……」


「失礼ですね長谷部。あれは僕の趣味じゃありませんよ。人から貰ったものですが、僕の趣味じゃなかったのでアナタにあげただけです。もうゴミの分別が面倒で……」


「ゴミを寄越すな貴様ァ!」


「あーあー、うるさいですよ! 黙ってください!」


 何だかんだ言いつつ使っているんでしょうアナタは! 宗三さんがそう言うと、長谷部はぐぅぅ、と悔しそうな唸り声を上げる。図星を付かれ、何も言い返せなくなってしまったのだろう。実際、長谷部はあのマグカップを使っていたし。

 二人のその漫才のようなやりとりが面白くて、思わず笑いがこぼれる。こんなに楽しい家出があっていいのだろうか。私が笑っている事に気付いた宗三さんは、「ほら長谷部、あなたの大事な『主』に笑われていますよ」と言う。それを受けて、長谷部は困ったような表情を浮かべながら、「わ、笑わないでください……」と言った。


 ――宗三さんとは初対面であるはずなのに、彼らのやり取りにはどこか懐かしさのようなものを感じられて、非常に居心地が良かった。いつまでもこの楽しい時間を過ごしていたい。しかし、楽しい時間というものはあっという間に過ぎ去るもので、あるマンションを指差し、長谷部は「あれが俺の家だ」と呟いた。分かりました、そう宗三さんは呟き、そのマンションの前に停車する。


「すまないな宗三。では主、行きましょうか」


「……うん。ありがとう宗三さん」


 先に車から降りた長谷部は、腕を伸ばして私の隣に置いてあった荷物を取る。私の荷物を持った長谷部は宗三さんに「また連絡する」と一言だけ残し、早々にマンションの玄関口まで歩いて行ってしまった。

 長谷部に続くよう、宗三さんにお礼を言ってから降車した私を、「ちょっと待ってください」と宗三さんは呼び止める。振り返って見ると、彼は小さな紙を私に向かって差し出していた。


「これ、僕の連絡先です。何かあってもなくても、落ち着いたらいつでも連絡してくださいね」


「……! うん、約束する。ありがとう宗三さん」


「……宗三でいいですよ。アナタに敬称付きで呼ばれるのは慣れません」


 そう言って宗三さんは苦笑した。宗三、そう彼の名前を呟くと、「宗三さん」と呼ぶよりもこちらのほうがしっくりくるような気がした。

 宗三に渡された名刺を見つめていると、背後から私のバッグを持って先に行っていた長谷部が「主?」と私を呼ぶ声が聞こえてくる。きっとなかなか来ない私に痺れを切らしたのだろう。宗三は、相変わらずせっかちな男ですね、と呟いた。


「アナタの犬が呼んでいますよ。もうお行きなさい」


「ふふ。ありがとう宗三。本当に助かった」


「いいんですよ、アナタのためですから。あ、長谷部に飽きたら本当に僕に乗り換えてもいいですからね」


 それではお元気で。そう言い残して、宗三の車は走り去っていった。宗三の車が角を曲がり見えなくなるまで、その車に向かって手を振る。宗三を見送ってから、先にマンションの入り口まで行っていた長谷部のもとへ駆け寄ると、長谷部は入口のオートロックを解除しながら「宗三と何を話していたのですか?」と私に尋ねてきた。


「いつでも連絡して、って名刺をもらったの」


「……俺が預かっておきましょうか」


「いやだよ。預けたら長谷部捨てちゃわない?」


「………………」


「ほら、絶対捨てるじゃん」


 長谷部は消え入りそうな声で「す、捨てません……」と言った。蚊の鳴くような小さな長谷部のその声音に信憑性はまったくない。絶対に捨てるな、これは。

 長谷部は案外嫉妬深い性格なのかもしれない。そう思ったら、自分が長谷部に好かれているような気になって、少しだけ嬉しくなった。
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