離れがたいのは僕だけらしい // ベルジャン
いつもライナーの背に隠れていて影で腰巾着だなんて言われている奴が、ちょこちょこと自分の近くに来るようになったのはいつからだっただろう。今日は隣で背中を丸めて寝ている。その背は広く、襟首は太い。いつもおどおどとしているわりに、その図体だけは大したものだ。
暑いのか首筋を流れる汗を、ジャンは指で掬い、拭ってみた。触れた体温は高く、意外だなと下に指を滑らせれば、肩甲骨へと辿り着いた。しなやかな筋肉に覆われた太い骨だ。つつ、と形をなぞると、もぞりと背中が動き出し、黒々とした目と視線がかちあった。
「ジャン、誘ってるの?」
消え入りそうな程の囁きに込められた熱は焼け焦げそうな程だ。いつも弱々しい瞳は今ばかりは強い。ああ、こんな瞳もするんだ。そう思ったときには口づけられていた。ジャンはそれを拒まなかった。
「ジャン……」
誰も来ないような薄暗い廊下の隅っこで、甘い声で名前を呼ばれて低い体温が口元に当てられる。ジャンはただ目を閉じてそれを受け入れた。
あれから、ジャンは何度もベルトルトと唇を重ねていた。啄むだけの子供のようなものから喰らい尽くすような獣のようなものまで。決めるのはいつもベルトルトの方で、ジャンはただされるがままに受け入れていた。
今日はただひたすらに触れ合うだけのキスを繰り返し、ベルトルトはジャンを緩く抱きしめながら髪を撫でる。穏やかな時間が流れていきともすれば眠ってしまいそうな空間に、こんなところを誰かに見られたらどうなるのだろうとジャンはあまり回らない頭でぼんやりと思う。
(逢瀬とか)
浮かんできたなんともロマンチックな言葉に苦笑が漏れ、気付いたベルトルトが目を覗きこんで来た。何でもないと返したが、笑いはまだ止まりそうにない。
「ジャン」
それが気に入らなかったらしく降ってくる声は少し不機嫌で、仰ぎ見れば眉を眉間に寄せていた。慌てて笑いを引っ込めて一言詫びるが、への字の口は戻りそうもない。どうしたものか。
ジャンはベルトルトの首裏に手を回し引き寄せる。背伸びをして彼の唇に己のそれを合わせると、わざとリップ音をたてて離した。
「ごめんって」
ふっと笑むと、肩を痛いほどに捕まれ背を壁に押し付けられた。痛みに呻くと、ごめんと一言、激しく息を奪われる。
「なに、」
「……ジャンが悪い」
状況が掴めずに離れた顔を伺うと、漆黒の瞳が欲に濡れていた。名を呼ぶことも出来ないまま首筋に噛み付かれ、喘ぐような声が漏れた。
「ジャンが悪いよ……」
人のせいにしてんじゃねぇよと悪態をひっそりと心でついて、がっしりとした広い背に手を回す。するとびくりと肩が奮えて、回した手を捕まれ開き部屋に連れ込まれた。
その夜ジャンはベルトルトに抱かれた。ジャンは別に拒まなかった。
「おい、離せよ、ベルトルト!」
「ん〜〜〜〜」
「ベルトルト!」
「諦めろよ、今まで頑張ったご褒美だと思ってさ!」
「お前、ふざけんなよ!?」
けらけらとコニーが笑って、ジャンは唇を噛んだ。就寝時のベッドの上で、ジャンはベルトルトに背後から抱きしめられていた。いくら嫌がってもがいたところで、相手の力の方が強いのだから離れられない。しかももがけばもがくほど抱きしめる力は強くなっていく。
「おい、ライナー!なんとかしてくれよ!!」
堪らずに相手の相棒に助けを求めるが、男はわざとらしく肩を竦める。
「悪いがもう消灯時間だ。諦めてくれ」
「ライナー!」
「ジャン、ベルトルトをおこしたら可哀相だよ」
マルコまで!との嘆きは、教官の消灯合図によって掻き消された。アルミンとコニーがご愁傷様と言わんばかりに合掌をして、ランプの火を消した。訪れる静寂の中で声を荒げられるほど非常識ではない。ぐっと口を閉じると諦めたように体の力を抜いた。それでも怒りは収まらないので、肘を動かせるだけ動かして相手の腹に入れてやった。直後、呻くような声が聞こえて口端をあげる。寝ぼけたフリしてんじゃねーぞ、心中で憎まれ口を叩いた。
やがて皆寝静まり呼吸音だけが響く中で、不意にベルトルトの腕が離れていった。漸くかよ、と息を吐くと、大きな手が顎を捕らえ、上を向かされキスをされる。何を考えているんだと首を捻って避けると、視界が反転し堅い胸に顔を埋める形になった。何するんだ、との批難は、しかしベルトルトの声に遮られた。
「ごめんね」
何がだ、と訊こうとして、押し付けられた胸が震えていることに気が付いた。驚きに息を呑むと、骨が折れるのではないかというくらいに強く抱きしめられる。
「ベルトルト、」
くぐもってしまう声が聞こえているのかいないのか、ベルトルトは何度も何度もごめんと繰り返す。どうして良いのかわからなくなったジャンは、その震える背に腕を回したいと思ったが、彼自身の腕がそれを許さない。
どうしたと呟くと、力が強まって骨が悲鳴をあげるのがわかる。苦しくて仕方がなくて、整理的な涙で視界がぼやけた。
「ずっと、こうしていたいのに……」
ぽろりと涙が零れてしまったのは仕方が無いことだと思う。
痛みと苦しみで身動きが全く取れなくなってしまったジャンは、ただひたすら目から雫を零す他なかった。それでも何とか止めようと、ただ唇をきつく噛み締めた。ごめんと最後に一言、ベルトルトは眠ってしまったのか緩やかに力が抜けていき、胸が規則正しく上下している。
それでもジャンは動くことができなかった。怖いくらいに心臓が脈打ち、歪んだ視界が戻る気配はない。酷く寒くて仕方がないのに、頭が沸騰しそうなくらいに熱くてどうにかなってしましそうだった。ふざけるな。ただその言葉がひたすらに頭の中を巡っていた。
明日は兵団の解散式だ。
「ジャン、話があるんだ」
成績が6番に入り憲兵団に入れると浮かれている中で、エレンの言葉が胸に突き刺さっていた。解っていても心が受け入れないことを、真正面から言われることは酷く具合が悪い。ぐらぐらと揺れる心の中で、驚く程ベルトルトの言葉には温度が無かった。
茫然とベルトルトを見返すジャンに、彼はもう一度話があると繰り返した。夜の闇に溶け込んでしまったように真っ暗な彼の顔からは何も伺うことは出来ない。義務的に返事をし、さっさと進んでいく彼の背にのろのろと付いていった。一歩一歩踏み出す毎に、ひやりひやりと体温が下がっていくような気が酷く寒かった。
やがて森を少し進んだ奥へ向かうと、彼がぴたりと歩を止めた。ジャンも同時に足を止め、黙ったままの彼の背を眺めた。ぴんと伸びた自分よりも幾らも大きいその背に、ジャンは触れてみたくなった。今まで何度もその背に触れ、時には爪を立てたが、その度に鮮やかな刺激が胸を突いた。今触れたらどんな感覚がするのだろう。足を踏み出して手を伸ばしたいのに、反して身体は全く動かない。もどかしさを感じていると、彼が振り返った。
「ジャン、別れようか」
告げられた言葉に、漏れたのは笑いだった。
次から次へと生み出されるそれに、ベルトルトは怪訝な顔をして名前を呼んだ。それすらおかしくて口元を手で覆うが、笑いはおさまりそうにない。とても笑えるような気分ではないのに。暗い森に高笑はやけに響いて、発しているのは自分なのに耳を塞いで仕舞いたかった。
「別れるもなにも、」
息も絶え絶えに嘲笑うような声が出て、ベルトルトが息を呑んだ。しかし以前闇は深く、その表情を知ることは叶わない。
「付き合ってないだろ、俺達」
いつだって彼が与えるのは温もりだけだった、キスをして、抱いて、抱きしめて。しかし、それだけだった。甘く蕩けるような時間に、例えば彼が言う別れるような、恋人同士が交わすような睦言は一切含まれていなかった。
ジャン自身は始めは興味本位だった。共にいる男以外にその瞳に人を写さないこの男が、他に人を写したとしたらどうなるのだろう。初めて口付けを交わした夜、純粋に溢れ出た探究心に、ジャンは抗えなかった。
そうして、馬鹿みたいに溺れていった。キスをする度、抱かれる度、彼への情は深く深くなっていく、自分ではどうすることもできなくなっていた。
(俺が言えばよかったのか)
この抱えきれなくなっていく気持ちを、彼に吐露すればよかったのか。しかし言ったところで彼が困ったように眉を寄せ、流されるのは目に見えていた。彼はきっと何も言ってはくれないだろう。こっちが何もしなければ見もしなかったくせに、自分のせいにしなければ抱けもしないくせに、それでも手を伸ばしたのはベルトルトだ。ごめんと謝るくらいなら、一緒にいたいと思うなら、何もしなければよかったのだ、今までと同じように。そうすれば、傍にいてやれるのに。離れ離れになるまでは一緒にいれるのに。
(ああ、そうだ)
言えばよかったのだ、例え相手が返してくれなくとも。そうすれば、いつか来るであろう別れまでは、共に在れたのではないだろうか。
気付いたところで、もう遅い。
ジャンは静かに目を閉じ、息を吐いた。そしてそこにあるであろう、彼の黒々とした目を見詰める。もう遅い。そんなことは分かっていた。それでも、言わずにはいられないのは、きっと。
「でも、俺は、」
動かない彼に背を向けて、兵舎へと戻る。続く足音がないことなんてわかりきっていることだった。酷く寒い。ただ、それだけを感じていた。
2013.7.7