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「さあ、時間も無限じゃないですから。早速聞きましょうか」

 最近滅多に見せなくなった笑顔を浮かべる瓶原に夜野は口ごもる。話せと言われてすらすらと話す話題ではないが、瓶原の言った通り時間は無限ではない。グラスに注がれたソフトドリンクを一口飲んで夜野は腹をくくった。
 あの二人だけの食事会からひと月近く経っている。翌朝いつも通りに出勤してみれば浅倉もいつも通りで、別れ際のやり取りなどなにもなかったかのようで。気にしていたのは自分だけかと、やはり自分の勘違いだったのだと再度独り言ちて夜野は仕事に意識を向けることにしたのだ。仕事がそれなりに忙しかったこともあり浅倉とは今まで通りのやりとりが続いている。二人での食事はおろか、班で食事に行く機会さえなかったため同じ状況になることもない。
 なのに、時折。夜野は浅倉から物言いたげな様子を感じていた。勘違いだと断じるには随分頻繁な気のするその感覚に動揺する。よもや誤解だと判断したことこそが自分の勘違いだったのか? いや、それでも……。
 二転三転する自分の思考についていけなくなった頃、とうとうデスクでの仕事中に右隣から声がかけられる。

「夜野副チーフ、あなた体調でも悪いんですか?」

 瓶原の声は周りには聞こえなかったらしい。ぎょっとして目を向ければその勢いに驚いたのか瓶原のほうが軽くのけぞった。慌てて小声で詫び、体調が悪いわけではないと告げれば疑惑のまなざしで見てくる。ため息を一つつき、瓶原の目線が浅倉の方へ向く。自分の発言が体調不良を隠すための嘘だと思われていることに気づいた夜野は瓶原の袖を引いた。

「ちが……な、悩み事、が、あるだけで……」

 言葉は徐々に萎んでいく。同僚にいったい何を言っているのだという羞恥が夜野の脳内を駆け抜けたが、対面している瓶原は「ふむ」とだけ言うと目線を夜野に戻した。

「業務に支障があるレベルのものですか?」
「あ、ううん……どうでしょう、瓶原くんから見て、夜野はおかしいですかね……?」
「そうですね、おかしいと思います。少なくとも普段のあなたなら職務中に俺にこんなことを言わないでしょうから」

 瓶原の言葉にうなだれる。しかし彼の言葉はもっともだった。普段の自分であればこんなことをしないというのは夜野自身が分かっている。
 ただ、だからといってどうすればいいのかがピンとこない。今ここで瓶原にすべてを説明するには時も場所もふさわしくないが、ここまで違和感を持たれているのに何も言わないというのも歯切れが悪い。夜野は少し考え込み、一つの手段を思いついた。

「み、瓶原くん。今晩、飲みに行きませんか……?」

 夜野のその言葉に、瓶原は頷くと、「いい店を知っていますから、そこで」と言って何事もなかったかのように業務に戻った。ここでぼうっと夜になるのを待つわけにもいかないし、そもそも仕事があまりにも長時間止まってしまえば他の班員の目にも触れるだろう。夜野も息を吐いて自身の仕事に取り掛かった。
 予定していた時間に仕事を終えれば隣のデスクですでに身支度を整えていた瓶原は挨拶だけ済ませて部屋を出て行ってしまう。忘れているということもないだろが、夜野も急いでデスクを片付けると荷物をまとめた。初羽に「うたさん今日珍しく早いねー」と恨めしそうな目を向けられたが、今日ばかりは彼の書類作成を手伝うわけにはいかない。少し予定があって、とだけ告げて部屋を出た。
 駐車場に行けば勝手知ったる様子で夜野のヴェルファイアの前に立つ瓶原がいる。案内しますよ、という彼の指示に従ってしばらく車を走らせ、彼のおすすめだという店に入って一息。なるほど、相談事を聞くのに適していそうな個室風の席の多い店である。
 ドリンクと夕飯代わりになりそうな品をいくつか注文したところで、瓶原にそのように問われた夜野は少しの逡巡ののち口を開いた。

「その、浅倉チーフのこと、なんですが。ひと月ほど前に、誘われて、二人で食事に行ったんです」
「ほう、チーフが」

 瓶原は目を細める。夜野は日付を言わなかったが、ひと月前に二人で同じようなタイミングで退勤した日からある程度察しはついた。スムーズに事件が解決したにもかかわらず食事会がなかったことを西門や初羽が珍しいと言っていたこともあって記憶に残りやすかったのもある。

「食事で特に何があったというわけではないんです。チーフのおすすめのお店に連れて行っていただいて、いつもの食事会と同じ感じで夕食をとって……。ただ、その、別れ際に……」
「キスでもされました?」

 きっ……と言葉を失う夜野の様子を見て瓶原は自分の予想が外れていたことを理解する。全く必要ない知識として、夜野がそういった方面の会話に疎いことも併せて理解した。思っていた以上に悩み事とやらは子供じみたものなのかもしれないと納得して話の続きを促す。

「また二人での食事もしたい、と言われて……」

 なんとも控えめで健全なデートの誘いではないか。成人して久しい男女にしては奥ゆかしすぎるとさえ称せそうな内容に息を一つ吐いた。これの対応に悩んでいるのだとすれば、先ほど自分が想定したものよりずっと夜野の恋愛感情は幼いものなのだろう。そう結論付けようとした瓶原は続く夜野の話に、言葉を失った。

「……これじゃあ、まるで浅倉チーフがヤノに好意を持っているようだと思ってしまったんです。そんなことあるわけないのに、そんな風に思ってしまう自分が情けなくて、浅倉チーフにも申し訳なくて……。でも、ご本人にそんなことを言えるわけないですし……」
「……え?」

 あなた本気で言ってますか、と声に出さなかったのは目の前の夜野が真剣な顔をしていたからに他ならない。その顔だけで彼女が本当にそう思っているのだと分かってしまう。しかし、だとしても瓶原にはにわかに信じがたい内容であった。
 浅倉が夜野に絶大な信頼を置いているのは誰が見ても明らかな事実であるが、その信頼に別の色が混ざり始めたことを近くで見ていた浅倉班の面々は感じていた。浅倉本人は職場ということもあって隠しているつもりかもしれないが、特に変わった言動などせずとも、視線の甘やかさや言葉尻に滲む慈しみは隠し通せるものでもない。班員たちが気付いているくらいだから夜野が気付かぬわけもないと思っていたが、まさか、気づいたうえで自分の勘違いだと思っていようとは思いもよらなかった。

「あなたから見て、浅倉チーフはそんなまどろっこしいことをするような人間ですか? いたずらにあなたに好意があると見せかけるようなことをする人間だと?」
「……でも」

 夜野の歯切れは悪い。浅倉がからかっているわけではないと理解しながら、しかしその感情が自分に向けられていると思うのを拒む。思っていたよりややこしい状況に進もうとしている夜野の思考に対し、瓶原は大きくため息をついた。

「はあ、わかりました。では、夜野副チーフ」

 次の休日、お時間よろしいですか?
 そう言った瓶原は夜野が頷くのを見るとスマートフォンを取り出した。流れるように画面に指を滑らせると、耳元にスマートフォンを当ててしばし待つ。この状況で、電話。理解が追い付いていない夜野の目の前、電話がつながったらしい瓶原は口を開いた。

「ああ、初羽くん、穂波くん。突然で申し訳ないんですけど、次の休日、開けておいてもらえませんか。……ああいえ、
 俺の用件ではないですよ。夜野副チーフの用です」

「み、瓶原、くん?」

 シィ、と口の前に人差し指を立てた瓶原は口角を吊り上げて笑う。

「……ええ、お察しの通りです。チョコを作ります」


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