宗教国家ザンブレク皇国に生まれた私は、唯一神グエリゴールへの祈りを捧げながら、何不自由ない暮らしを享受していた。大人へと成長し、誰かを愛し、結婚し、子を成し、そして幸せに老いてゆく。そんな人生を送るのだろうと思っていた。
 けれど、この国を護る召喚獣バハムートをこの目で見た瞬間、私の人生は大きく変わってしまった。それが幸か不幸かは、自らの人生が終わりを迎える日まで、分かる事はないだろう。

 聖竜騎士団に入りたいと言った私に、家族をはじめ、私を知る誰もが反対した。それでも、私はこのザンブレク皇国の美しい青空を華麗に舞うバハムートを目の当たりにしたあの日から、欲を抑え切れなくなっていた。ただの民草として羨望の眼差しを向けるだけでは満足できず、私は恐れ多くも、かの人に近付きたいと願ってしまった。
 バハムートのドミナント、ディオン・ルサージュ。ザンブレク皇国の皇子であるかの人にお近付きになる為には、聖竜騎士団に入って鍛錬を積み、竜騎士となって戦場に出るのが一番の近道だと思ったのだ。


 当然、そう上手く行くわけがない。入団を認めて貰う為の手合わせどころか、女など戦場に要らぬと門前払いを喰らった私は、このまま大人しく家に帰るのも恥ずかしく、ただただ呆然としていた。

「――衛生兵が不足しているのです。後方支援ならば、女性でも……」

 ふと遠くから声が聞こえ、まさか私の話ではないかと思って、恐る恐る歩を進めた。門前払いを喰らった場所で、若い兵士が門番を説得している。
 私の視線に気付いたのか、その人は一旦話を止めてこちらを見遣り、人の好い笑みを浮かべてみせた。

「君、応急処置の心得はあるかい?」
「は、はい。多少は……」
「危険が迫った時、民を守り、戦い抜く覚悟は?」
「勿論あります!」

 威勢だけは良い私を、その人は何の疑いも持たず、純粋に受け止めてくれた。
 テランスという名の騎士を、私はただの一兵卒と思っていたが、それは盛大な勘違いだった。彼は私が憧れてやまないディオン・ルサージュの側近であり、そして、特別な仲でもあったのだ。


 その事実を知ったのは、衛生兵候補として入団し、訓練を受けていた矢先の事だった。
 テランスが私の様子を見ていたと聞いた私は、入団の便宜を図ってくれただけではなく、今も気に掛けてくれている事を純粋に嬉しく思って、一言御礼を言おうと彼が向かった場所を周囲から聞いて走り出した。
 世界情勢は不安定で、いつ大きな戦が起こってもおかしくはない。急に戦場に駆り出される事もあるし、テランスが見つからなくてもそれはそれで仕方ない。そう思いながら、数多くある野営の天幕を何気なく捲って中に入ると、人の気配を感じた。そこにいるのがテランスじゃなかったとしても、彼が何処にいるか駄目元で聞いてみよう。何も考えずに歩を進めた私は、なんて無謀で、愚かだったのだろう。

「すみません、テランス殿はそこに――」

 私の視界に飛び込んで来たのは、慌てた様子でこちらを見遣るテランスと、そしてすぐ傍で気まずそうに目を逸らしている男性――佇まいだけで高貴な身分だと分かる。時間を忘れるほど見惚れてしまう美しさと気高さを持ち合わせている、バハムートのドミナント、ディオン・ルサージュに違いなかった。
 何故テランスが慌て、かの御方が気まずそうにしているのか。
 何も見ていなければどんなに良かったか。けれど、私は見てしまったのだ。
 ふたりが、口づけを交わしていたのを。

「……申し訳ありません! 私、その……失礼します!」

 これでは決定的な場を見てしまったと言っているようなものだ。分かってはいつつも、気が動転して何も考えずにそう発してしまい、私は慌てて踵を返して出て行こうとした。
 それを制止するように、後ろから突然手首を掴まれた。

「待ってくれ、何か用事があったんだろう?」

 そう訊ねるテランスの声に、このまま強引に振り切って逃げるのは、それこそ相手を傷付けてしまうと思い直して、恐る恐る振り返った。ただ、ふたりの顔は直視出来そうもない。

「テランス殿が私の様子を見に来てくださったと聞いて、御礼を言おうと……」
「そうだったのか。ありがとう」

 テランスはそう言って私の手首を解放すれば、優しく肩を撫でてくれた。

「どうか、この事は秘密にして欲しい」

 これは単なるお願い事ではない。他言無用にしろとの命令だ。
 当然、誰かに言うつもりなんてなかった。私が言ったところで誰も信じないだろうし、そもそも言ったところで私は何も得をしないのだ。話す理由がない。
 漸く顔を上げ、テランスの目をしっかりと見遣れば、私は力強く頷いた。

「勿論です。テランス殿は、私の夢を叶えてくださった御方です。恩を仇で返すような事は、決して」
「……ありがとう」

 私の夢――それは大空に舞うバハムートに魅せられたあの日から抱いていた、ドミナントであるディオン・ルサージュに近付きたいという邪なものであった。
 まさかそれが、こんな形で叶ってしまうなんて。よりによって、かの御方が私を認識したのは今この瞬間が初めてなのだ。
 テランスの後ろで俯いているディオン・ルサージュが、ふとこちらへ顔を向けたものの、私と目が合うや否やすぐに顔を背けた。彼の中で、私という存在は完全に顔も見たくない相手になってしまったのだ。そう察した私は、聖竜騎士団に入った事を心の底から後悔した。

 テランスと恋仲である事に傷付いたのではない。
 皇国の皇子ともなる御方であれば、お相手のひとりやふたりいるのは当然の事である。とかく男所帯の騎士団では、兵士が男の娼婦に入れ込むのもよくある話だと知っている。
 私のような民草が彼と『そういう』仲になれるなど、そんな烏滸がましい事は一度も考えた事がないと言い切れる。ただ、少しでも近くにいられるだけで良かったのだ。それ以上は望んでいなかった。
 夢は現実となったものの、憧れの相手から嫌われるという意味で認識されるような事が起こるくらいなら、夢は夢のままで終わらせたほうが幸せだった。
 現実は、こうも残酷なものなのか。


 とはいえ、それが理由で聖竜騎士団を辞めるという気にはならず、私は訓練を経て衛生兵として活躍するようになった。家族の反対を押し切ってここまで来てしまったからという意地もあるけれど、皇国の未来の為に戦に携わるのは名誉な事だと、心から思えるようになったからだ。戦えなくても、傷付いた兵士たちを癒す事は出来る。私の力で人の命を救うなど考えた事もなかったけれど、現に衛生兵とはそういう存在なのだと今更ながら自覚した私は、今の生活は危険と隣り合わせであっても、非常に充実していると感じていた。
 憧れの人と共に戦う事が出来なくても構わない、というより諦めるしかなかった。あんな形で嫌われてしまったのだから、寧ろ顔を合わせないほうが、かの御方も安堵するだろう。


 そんな生活は、徐々に崩壊しつつあった。
 太上神皇シルヴェストルは戦火を拡大していき、更に突然、現神皇太后の嫡男オリヴィエが神皇に即位したのだ。
 当然、騎士団内部でも納得出来ない声が上がっていた。皆、ディオン・ルサージュこそが神皇に相応しいと、当たり前のように思っていたからだ。

 偶然テランスを見掛けた私は、今度は見失わないよう迷わず追い掛けて、有無を言わさずその腕を掴んだ。テランスは驚いて私を見たけれど、すぐに、何処か安心したような笑みを浮かべた。

「暫く見ないうちに、随分と大人になったな」
「私の事よりも、その……ディオン様は大丈夫なのでしょうか」
「…………」
「こんなの間違っています。騎士団の皆も同じ気持ちです。テランス殿、あなたも……」

 一方的に脈略のない言葉を紡いでいたものの、テランスが苦悶の表情を浮かべた事に気が付いて、私は慌てて口を噤んだ。

「申し訳ありません。私なんかより、テランス殿のほうが遥かにお辛いでしょう……」
「『私なんか』、なんて言ってはいけない。君が言った通り、皆同じ気持ちだ」

 テランスはもういつもの優しい笑みに戻っていた。その包容力ある穏やかな姿に、きっとディオン・ルサージュという人も惹かれたのだろう。テランスは私にとって恩人であると同時に、どう足掻いても太刀打ち出来ない相手であった。初めから分かっていた事だけれど、改めて自分は子どもだと認識せざるを得なかった。年齢ではない、心の問題だ。


 突然の事だった。歴史に名を残す革命とは、こうしてある日突然起こるものなのだろう。
 ディオン・ルサージュが反乱を起こしたのだ。
 シルヴェストルが民を蔑ろにし、戦争に躍起になったのも、オリヴィエを祀り上げたのも、すべては元ロザリア公国大公妃、現神皇太后のアナベラが仕組んだ事だったのだ。
 その証拠を掴んだディオンの反乱に、聖竜騎士団はこの日、かつてないほどの団結力を見せた。ザンブレクの民衆は一切傷付けないという意志を貫き、私もまた衛生兵として、仲間が、そして護るべき民が怪我をしていないか、騎士団の仲間とともに街中を駆け巡っていた。
 こちらも当然無傷では済まなかった。命を落とした者も多く、だからこそこの反乱は絶対に成功させなければならないと、混乱の最中必死で気を引き締めた。
 一番苦しんで、そして今一番槍を振るっているのは、ディオン・ルサージュその人なのだから。いざとなればバハムートに顕現し、この国を救ってくれる。いつもバハムートに思いを馳せていた私は、何の迷いもなくそう信じていた。

 けれど、それは幻想に過ぎなかった。

 何が起こったのか理解するまで、どれほどの時間を要しただろう。闇夜の空に間違いなくバハムートが現れ、そして、何故か街中に攻撃が放たれ、瞬く間に私の周囲も炎に包まれていたのだ。

「お嬢ちゃん、こっちに来なさい!」
「そんなところにいたら死んじまうぞ!」

 名も知らぬ、私たちが護るべき民からそんな声が掛けられた。そして有無を言わさず腕を掴まれて、建物の中に連れ込まれた。外にいるよりはましだろうと、私を助けてくれたのだ。
 けれど、私はこれでも聖竜騎士団の一員なのだ。仲間を見捨てて自分だけ隠れるなんて、許されない。

「皆を助けないと……!」
「あんたが行ってどうなる! バハムート相手に、生身の人間がどうにか出来るわけがない!」
「バハムート……そんな、ディオン様がこんな事をするはずが……」

 何も信じられなかった。この反乱は正しい行いであり、そうしなければザンブレク皇国の未来はないと言っても過言ではなかった。
 だが、この現状は何なのか。まさに国を破壊する行為に他ならない。護るべき民も、一体どれだけ犠牲になっているのか。
 何も分からない。考えても答えなど出るわけがなく、私はただ偶然助けてくれた名前も知らない老夫婦とともに、身を寄せ合いながら嗚咽を漏らしたのだった。



 クリスタル自治領は焼野原と化し、政の機能していないザンブレク皇国は、国として維持出来ないほど混乱に陥っていた。
 それでも、私はこの国が滅亡するとは思っていなかった。否、諦めなかったと言ったほうが正しい。
 何の得にもならないというのに、通りすがりの私を助けてくれた優しい老夫婦に礼を言い、私は為すべき事を為そうと決めて、生き延びた人たちから情報を集めながら、仲間たちを探す事にした。
 あの日、本当は何があったのか。それを確かめるのは、生き延びた者の義務であり、反乱を起こした聖竜騎士団の責でもあると思ったのだ。
 漸くテランスと再会出来た時は、恐らく人生で一番涙を流したし、子どものように大声で泣いた。そんな私を彼はまるで親のように優しく抱きしめてくれて、最後に両親に会いたかったと、更に泣いてしまった。家族と共に暮らしていた家は、まさにバハムートの攻撃に遭って跡形もなく消え去っていて、それはもう二度と家族に会えない事を意味していたからだ。

 そして、生き延びた聖竜騎士団の皆が集い、漸く形を成して来た頃。信じられない出来事が起こった。
 ディオン・ルサージュが、私たちの元に戻って来たのだ。
 まるで世界すべての罪を背負わんとばかりの、苦痛を露わにした表情に、私たちは何も聞かずとも、彼は好きでこの国を破壊したのではないと理解した。誰よりもこの国を愛していたのは、ディオン・ルサージュに他ならない。
 それに、事の顛末を聞いて、彼に歯向かう者は誰一人としていなかった。
 アルテマ、アカシア、訳の分からない事ばかりだけれど、ザンブレク皇国を治める存在――否、聖竜騎士団団長であるディオンという男がいる限り、私たちは苦難を乗り越える事が出来る。そう信じていた。
 信じていたはずなのに、別れはあまりにも唐突だった。

 ダルメキア共和国の首都ランデラで、聖竜騎士団は他国と共闘し、アカシアとの戦いを繰り広げていた。
 そんな矢先、ディオンがこの地を去るというのだ。約束を果たす――それが何を意味するのかは分からないが、ロザリア公国のフェニックスのドミナント、そしてイフリートのドミナントと為すべき事があるのだという。
 恐らくは、終わりの見えない戦いを真に終わらせる為、この世界を救う為に動くのだろう。
 それが今生の別れになる事は、誰よりもテランスが理解していた。

 そんな事があってなるものか。私はディオン・ルサージュという人が、そしてテランスが、どんな想いで別れを決断したかも考えず、戦闘を抜け出して、何の躊躇いもなくディオンを捕まえて言い放った。

「ディオン様、ずっと我々の傍にいてください! あなたがいなければ、我々は……テランス殿は……」

 この男を引き止めるには、最早彼が愛する男の名を出すしかなかった。テランスがどう想うかではなく、ただ単に私が悲しいだけだというのに。そんな私の胸中など知る由もないディオンは、私の肩を掴んで、まっすぐな瞳できっぱりと告げた。

「テランスを頼む。君が、支えになってやって欲しい」
「どうして! 私では駄目なのです、あなたじゃないと……!」

 どう足掻いても止められないのは分かっているのに、私は子どものように涙を流して、ディオンの胸元に顔を埋めた。恐れ多くもこんな事が出来てしまったのは、彼をザンブレク皇国の皇子としてではなく、聖竜騎士団の団長として見るようになったからだ。対等ではないが、以前よりも遥かに近しくなった。そう認識するのが今更で、こんな形で表に出るなんて。
 本当に、難儀な人生だ。

「余には為すべき事がある。テランスと共に未来を歩むのは、彼を愛している君が為すべき事だ」

 その言葉に、涙が突然止まったような錯覚を覚えた。
 その言葉は、事実とは異なっているからだ。それも、全く。
 その言葉を、私は何度も心の中で反復して、そして漸く、全てを理解した。

 初めてディオン・ルサージュという男に認識されたあの日。私から顔を背けていたのも、気まずそうにしていたのも、逢瀬を見られた事だけが嫌だったのではない。
 彼は、私がテランスに恋をしていると思ったからだ。
 本当に、私の人生はどこまで難儀なのか。

 私は軽く深呼吸すれば、自分から身を委ねていたというのに、ディオンの胸元を押し返して、そして、秘めていた想いを口にした。最初で最後の告白にしては、あまりにも不格好で、滑稽だ。

「私が愛していたのは、ディオン様……あなたです。バハムートとして空を舞うあなたに憧れて、聖竜騎士団に入ったのです」

 こんな事を言っても、響くわけがない。元から受け止めて貰えるわけがないのだ。何を言っても無駄だ。分かっているのに言ってしまった事を後悔しつつ、私は気を取り直して改めて言った。

「私の事はどうでも良いのです。それより、テランス殿の事を考えてください」
「……だからこそ、君にテランスを任せたい。自分の気持ちを押し殺し、テランスを気遣う事の出来る、君だけに」

 想いが届かないのは初めから分かっていた。最早ディオンを止める事が出来ないのも分かっていた。無意味だと分かっていても、それでも引き留めたかった。でも、もう言葉が出て来なかった。私が引き留められる程度の覚悟なら、テランスがとうに説き伏せているはずなのだから。

 ディオンは私の肩を軽く叩いて、颯爽とこの場を後にした。
 過ぎてみれば一瞬の事で、何もかもが夢だったのだと思いたかった。ディオンが私たちの元を去るのも、私が意味のない告白をした事も、何もかも。目が覚めたら当たり前のようにディオンが私たちを率いていて、彼の傍にはテランスがついている。そんな当たり前の光景を、ずっと見ていたかった。
 私は、ディオン・ルサージュという人がただ生きているだけで良かったのだ。


 嫌いになれたらどんなに良かっただろう。勝手に私がテランスの事を好きだと思って、勝手に任せて来るなんて、自分勝手だと怒る事が出来たらどんなに良かっただろう。
 でも、そう思っているのはテランスもきっと同じで、私なんかとは比べ物にならないほど、深く傷付いているのは明白だった。

 ヴァリスゼアが滅亡の一途を辿る中、禍々しい空に眩しい光が放たれた。
 あれはきっと、バハムートの最後の輝きなのだろう。美しいそれは、光が失われる最後の瞬間まで、私を魅了してやまなかった。初めてバハムートをこの目に焼き付けた、あの日と同じように。
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