料理も掃除も洗濯も、私の代わりに家事をやってくれる人がいれば良いのに。
 親は仕事で帰って来るのは夜遅くで、学校から帰って来たら家事をこなすのが日課になっていた私は、そんな有り得ない事を夢見ながら生きていた。
 高校三年のある日、クラスメイトと奇妙な契約を結ぶまでは。



「あーあ、誰か代わりに家事やってくれたらいいのになぁ」

 昼休み、友達の前でぽろりと零した私の愚痴を、同じクラスの男子が偶然耳にしたらしい。
 その日の放課後、一度も話した事もなかった男子から声を掛けられ、信じられない提案を受けた。

「あの、僕がやりましょうか?」
「……はい?」
「家事」
「…………ん?」

 目の前の男子、本橋依央利から訳の分からない事を言われ、思わず首を傾げて呆けた声を出してしまった。冗談だとは思うけれど、一体何の理由があってこんな事を言うのか。罰ゲームか、あるいは私をからかっているのか。ここで私が「是非」とでも答えたらどうするのだろう。

「……本橋くん、本気で言ってる?」
「はい」
「え、じゃあ私が是非って言ったら本当にやるの?」
「良いんですか!?」

 突然本橋くんは人が変わったように目を見開いて、身を乗り出して私の両手を取り、満面の笑みを浮かべた。顔が近い。何なんだこれは。冗談にしてはやりすぎだ。
 一体何を考えているのか問い詰めようとしたものの、教室に残っているクラスメイトたちが「告白か!?」「本橋が告ったぞ!」とろくでもない盛り上がり方をし出したので、仕方なしに逃げるように教室を後にした。
 その間、本橋くんは私の両手を握ったままだった。まるで獲物を逃さないとばかりに。



 とりあえず本橋くんと共に廊下を闊歩し、校舎を出たところで、漸く落ち着きを取り戻した。一体これは何なんだ、本当に。

「あのさ、本橋くん……手、放して貰っていい?」
「はい!」

 あっさりと解放され、初めからこうすれば良かったのかと少しばかり後悔した。
 教室で変な盛り上がり方をされたし、明日から学校に行くのが憂鬱だ。どう考えても告白ではないのだから、別に堂々としていれば良いのだけれど。

「で、何が目的?」
「言葉通り、僕があなたの代わりに家事をします」
「なんで?」

 真面目に考えて、赤の他人に家事代行をさせるのなら、何かしらの対価を与えなければならない。本橋くんが対価として賃金を求めるなら、理解出来なくもない。それでも話した事のない女子にこんな事を提案するか?とは思うけれど。
 私の問いに、本橋くんは鞄から一枚の紙を取り出して私に見せた。

 一つ、本橋依央利には、何を要求されても断る権利はありません
 二つ、本橋依央利は、でもなんの見返りも求めません
 三つ、ゆえに頼んだ側は、罪悪感を感じる必要は全くありません
 四つ、カンチガイしないこと。本橋依央利はあくまでも前向きで自発的な奴隷です

「……は?」
「契約です」
「なんで?」

 何の答えにもなっていない紙切れの契約書に、私は再び同じ問いを投げ掛けた。

「家事、誰かにやって欲しいんですよね? 僕がやります」
「だから、なんでって聞いてるんだけど」

 苛立ちを露わにする私に、本橋くんはまるで恍惚と言わんばかりの表情を浮かべて、こう言い放った。

「僕、他人のために何かやってないと死んじゃうんです」

 そして、有無を言わさず契約書を私の手に押し付けて、逃がさんとばかりに私の手を握り締めた。

「いいですよね?」

 あまりにも非日常的な遣り取りに、この時の私は完全に思考回路がぶっ壊れていた。「死んじゃう」と言われて拒否する事は出来ない……そう思ってしまい、本橋依央利と『契約』を結んだのだった。



 本橋くんは本当に、私に対して何も要求して来なかった。
 平日、授業が終わった後。本橋くんは一緒に私の家に来て、私の代わりに料理、掃除、洗濯、すべてをこなして満足気にしていた。
 初日は驚き過ぎてただただ呆然としてしまったけれど、次の日はさすがに申し訳ない気持ちになってしまった。

「本橋くん、昨日は本当にありがとう。それで、今日なんだけど……」
「はい! 勿論今日もやります! 明日も、明後日も、その次も!」
「いや、人の話を……」

 本橋くんは人目も憚らず私の手を握り前のめりになって、傍から見ればどう考えても『そういう関係』だと誤解される遣り取りをしてしまっていた。

「うそ、マジで告白されたの!?」
「おめでとー」

 完全に他人事の友達に茶化されて、思わず頭に血が上ってしまった。

「まだ付き合ってないから!!」

 そう返したは良いけれど、『まだ』って何なんだ。
 言葉のあやだとその時は思ったけれど、後々思い返せば、私はこの時既に本橋依央利を好きになっていたのだと思う。
 訳の分からない事を言ってはいるものの、彼は私の長年の願いを叶えてくれたのだ。それも対価は不要だという。無償の愛という言葉もあるし、もしかして本橋くんは私の事が好きなのではないか? などと、盛大な勘違いすらしてしまう程、この時の私はなんだかんだで調子に乗っていた。



「ねえ、本橋くん。その……下の名前で呼んでもいい?」
「うん、いいよ」
「依央利くん」
「はい! 何なりとご命令を!」

 私が金持ちの娘で執事がいたとしたら、こんな感じなのだろうか。いや、漫画の読み過ぎだ。依央利くんはただのクラスメイトなのだから、対等な関係だ。本人が奴隷を自称しようと、私は依央利くんが作った契約書をもとに家事を代行して貰っている。ただそれだけだ。

 契約書には、罪悪感を感じる必要はないとある。そして、本人は好きでやっているのだと。他人のために何かをしないと死んでしまうそうだし。

 ただ、果たしてこのままの関係で良いのだろうか。

 クラスメイトに家事をやらせるなんて可哀想、という感情ではなく、私自身が依央利くんともっと深い仲になりたかったのだ。
 親が帰って来るまでの間、一緒に過ごす日々が日常になり、依央利くんは私にとってかけがえのない存在になっていた。
 これはもう、実質恋人と言えるのではないか。



「……依央利くん」
「はい!」
「彼氏になって、って命令したら、なってくれるの?」

 ほんの冗談のつもりだった。
 依央利くんは一瞬驚いた表情をしたけれど、すぐに笑みを浮かべて頷いた。私と契約を結んだ時と同じ、恍惚の表情を浮かべて。

「うん、従うよ」
「……いいの?」
「もう一度契約書を確認する?」

 私は首を横に振って、依央利くんに顔を近付けた。

「キスして、って命令したら、してくれる?」
「うん」
「……キスして」

 恋人が家事もなんでもやってくれる。こんな漫画みたいな都合の良い事が起こるのか。一生分の幸せを使い果たした気がしないでもない。
 幸せなはずなのに、そんな日々は長くは続かなかった。

 依央利くんが嫌いになったわけではない。私自身が罪悪感を抱いたわけでもない。
 契約書に基づき、命令で強制的に依央利くんを私の彼氏にしている事を、申し訳ないと思ったわけでもない。
 私は随分と冷たい性格をしている。依央利くんになんでもやって貰って、そう気付かされた。

 このままでは駄目だ。私欲で散々人をこき使った結果、私は堕落した人間になる。そう思ったのだ。

 そもそも契約を破棄出来るのかは分からない。ただ、依央利くんをずっと見てきて分かった事がある。
 彼が契約を結ぶ相手は、私である必要はない。たまたま私がターゲットになっただけだ。
 だから、誰かのために何かをしていないと死ぬ、という言葉も気にする必要はない。次の相手を探せば良いだけの話なのだから。
 契約を破棄したら、依央利くんは私には見向きもしなくなって、他の女子に同じように尽くすかも知れない。それを考えるとかなり胸の奥がむかむかしたけれど、これ以上私のエゴに彼を付き合わせるわけにはいかない。

 決行の日。私は意を決して依央利くんに言った。

「今日は私が料理作るよ」
「……え?」

 依央利くんの顔から笑みが消える。
 これまでも何度かこういう遣り取りをしていたから、どう振る舞えば良いかは分かっていた。
 依央利くんは契約通りに命令を遂行する。そして、為すべき事を人に奪われるのを極端に嫌うのだ。

「恋人ってそういうものじゃない? 彼氏になんでもやらせるんじゃなくて、彼女も多少はさ……」
「は? いや、契約は?」
「え、じゃあ命令。依央利くんは今日は座って待ってて」
「いや、それは屁理屈でしょ」
「なんで?」

 すっ呆ける私に、依央利くんは完全にキレたみたいだ。顔を見れば分かる。優しく、明るく、そして恍惚の表情を浮かべる依央利くんはもういない。

「どうして何もない僕から奪おうとするんですか?」
「別に奪ってないよ」
「いいや、奪ってる! あなたの奴隷としてこれまで服従して来たのに!」

 そして、依央利くんは初めて話した日と同じように、私の両手を握って口角を上げた。あの時と違うのは、目は笑っていない事だ。

「さあ、ご命令を! そうすれば契約は継続です!」

 やんわりと首を横に振った私に、依央利くんは「なんでだよ!」と何度も怒声を浴びせた。こればかりは完全に振り回した私が悪いと、すべての暴言を受け止めるつもりでいた。その筈が――。

「ヒッ! ご、強盗!!」

 何故かいつもより早い時間に帰って来た親が、私と依央利くんを見るなりそう叫んだ。さすがにその勘違いはまずいと、私は真顔で親に顔を向け、淡々と告げた。

「違う。今、彼氏と別れ話してるとこ」

 自分が遅くまで働いている間、まさか娘が男を家に連れ込んでいるとは夢にも思わなかったのだろう。親は随分とショックを受け、そして、依央利くんを遥かに超える大声で私を怒鳴った。

「依央利くん、ごめん。巻き込まれる前に帰って。本当ごめん」

 顔を向けて両手を合わせ詫びる私に、依央利くんは怒りも吹き飛んだのか、もうどうでもいいとでも言いたげな無表情そのもので、何も言わずに頷いて退散した。

 こうして、依央利くんと私は別れた――というのは語弊がある。彼が最初に言ったように、私たちの関係は『契約』でしかなく、それは呆気なく解消されたのだった。



 それから、依央利くんが学校で私に話し掛けて来ることは、卒業まで一度もなかった。
 周りからは別れたと茶化されていたけれど、事実なので特に言い返す事もしなかった。私は良いのだけれど、依央利くんには本当に申し訳ない事をしたと、後々になって罪悪感を抱くようになった。罪悪感を抱かなくて良いのは契約している間だけであって、解消された後は該当しない。

 家事をやらせていた件については、本人が申し出た事だから、そこまで気にしてはいない。けれど、調子に乗って恋人ごっこを命じてしまったのは、さすがにやり過ぎだった。
 相手も子供じゃないのだから、嫌なら拒否するだろう。初めはそう自分に言い聞かせたものの、『契約』が彼を彼たらしめる行為だとしたら、それを利用して私が自分の欲望を満たした事になる。
 依央利くんは何も悪くない。私の心があまりにも醜かったのだ。

 卒業して依央利くんの顔を見なくなる日が来るまで、私の自責は続いていた。逆に言うと、卒業した後は依央利くんの事は徐々に記憶から薄れ、自分を責める事もなくなった。自らの醜い心に蓋をして、何もなかったかのように過ごしていた。

 ただ、依央利くんとの日々があった事で、ひとつ良い意味で変われた事がある。
 家事を嫌だと思わなくなったのだ。
 元々、家事は親に指示されてやっていたわけではない。たまたま暇で料理本を見ながら簡単なものを作ってみたら、帰宅した親が物凄く喜んで、それ以来家事を率先してやるようになった。それを思い出しただけの話だ。
 子供の頃の気持ちを思い出しながら、家事に取り組むようになった点だけは、成長出来たと言っていい。依央利くんにとっては何の利益もなく、寧ろ嫌な出来事になってしまっただろうけど。

「あ」

 繁華街を歩いていると、見覚えのある人がこちらに向かって歩を進めているのに気が付いた。思わず足を止め、失礼ながら近づいて来る相手の顔を凝視した。
 その人は本橋依央利に違いなく、隣には見知らぬ男性がいた。卒業して、交友関係が広がったのだろう。当たり前か。

「ん? 依央利、知り合い?」

 私の視線に先に気付いたのは連れの男性だった。その言葉に、依央利くんは漸く私のほうを見て、愛想の良い笑みを浮かべてみせた。

「お久し振りです。卒業以来ですね」
「うん、依央利くんも……っていうか、あの時は本当にごめんなさい」
「? 謝られるような事されたっけ」

 依央利くんは首を傾げて、本気で気にしていないように見えた。気にしていないのか、すっかり忘れているのか、あるいは思い出したくもないのか。どちらにせよ、向こうももう私の顔なんか二度と見たくもないだろうし、早々に退散しよう。

「気にしてないなら良かった……じゃあ、私はこれで」

 そう言って軽く会釈して、依央利くんの横を通り過ぎようとした瞬間。
 突然手首を掴まれて、思わず振り返ると、依央利くんは当時と変わらない笑みを浮かべたまま、一枚の紙切れを鞄から取り出した。

「え、何? デジャヴ?」

 繁華街を一緒に練り歩ける友人も出来て、依央利くんは普通の人生を送っているのだと思っていた。思い込んでいた。まさか、依央利くんのような『個性的』の一言で済まされないような人たちが、シェアハウスで共同生活を送っているなど、凡人の私は知る由もないのだから。

「良ければ、もう一度契約を結びますか?」
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