「あなたは恐くないのですか? 世界を救う為に、命を捧げる事が」

 私の問いに、彼は呆れる事も蔑む事もせず、優しい笑みを浮かべながら頷いた。無言の肯定。それは決して、この期に及んで怖れを抱いている私を否定するものではない。不思議とそう思わせる雰囲気を漂わせていた。

「キミは恐い?」

 彼の問いに、私は正直に答えるべきなのだろうか。本音を言えば恐い。けれど、それを口にするのは躊躇われた。世界の為に犠牲となる事を自らの意思で選んだはずなのに、いざその時が来て、私は恥ずかしい事に『後悔』という感情を抱いてしまったのだ。

 私たちは永遠の生を受け、自らの意思で『終わり』を選ぶ事が出来た。為すべき事を成し遂げ、この世界に未練がない、もうこの命を終わらせても良いと自分自身が思えば、そうすれば良いだけの話だった。
 それは決して、他者に強制されるものではない。
 それは決して、この世界を救う為に自らの命を犠牲にする事と同義ではない。

 この永遠の世界に、突如降り注ぐ『災厄』。為す術なく人は命を奪われ、そして、世界が崩壊する。
 間もなく起こる、この世界の滅亡を防ぐ為に編み出された術は、神の創造。
 数多もの人の命と引き換えに、ゾディアークなる神を召喚し、世界を救う。
 それが『十四人委員会』の出した結論だった。

 創造物管理局。人々が創造魔法で作り上げた物の『イデア』――云わば設計図を管理するところで、私はそこで働いていた。その『物』は生物だったり無機物だったり、色々だ。それらを分別して、更に詳しい研究を行う場所へと送る。そんな作業を繰り返す日々は、取り立てて楽しい出来事はないものの、特に不満もなく、恐らくは良い環境だった。
 そう思うのは、きっと局長の人柄が影響しているのかも知れない。
 局長のヒュトロダエウスは、『十四人委員会』のメンバーと親交が深く、特にアゼムの冒険譚を私たちに語る時は、とりわけ楽しそうに見えた。

「局長も旅に出たいと思ったりするんですか?」
「ワタシが?」
「はい。偶にはこの仕事を放り出して、アゼム様と一緒に、とか……」

 私の不躾な発言を、局長は怒りもせずに笑い飛ばしてみせた。というか、局長が怒るところなど誰も見た事がないのではないか。彼と親交の深いエメトセルクは見掛けるたび不機嫌そうなだけに、よりヒュトロダエウスという人の温厚さが際立って見えた。

「ワタシが管理局を放り出したら、キミに局長の座を奪われてしまうかも知れないね」
「そ、そういう意味では……! 偶には羽を伸ばすのも良いのではないかと思っただけで……」

 ただの軽口で、決してそんな意図はないのだと必死で否定する私を見て、局長はどこか悪戯めいた微笑を浮かべてみせた。尤も、私に局長が務まる能力などないだけに、局長の発言は誰が聞いても冗談だと分かるに違いない。動揺する私が生真面目すぎるのだ。
 すると、局長は突然ぽつりと呟いた。

「キミは、旅に出たいと思わないかい?」

 まさか逆に質問されるとは思わなくて、頭が真っ白になってしまった。そんな事、今まで考えた事などなかったからだ。
 アゼム様のように自由奔放に生きる人はそんなに多くはない。更には厄介事――困っている人に迷わず手を差し伸べて、結果的に何もかも解決してしまう人なんて早々いない。正直な話、私は刺激よりも安定を望んでいるし、現状にも満足している。自ら厄介事に首を突っ込もうとは全く思わなかった。
 ただ、それが『旅に出てみたいか』の答えに該当するわけではない。

「即答出来ない……という事は、真面目に生きるキミも少しは羽を伸ばしたい、なんて思うところもあるのかな」
「いえ、私は現状に満足しています。でも……」
「でも?」

 現状に満足しているのだから、旅など興味がない。そう返したところで、局長は別に気分を害したりはしないだろう。
 そのはずなのに、局長のどこか面白がるような瞳を見ていると、そうは思わなくなってくるから不思議だ。

「……アゼム様の話を聞いていたら、私も少し興味が湧いてきました」
「本当かい? 今度アゼムに会ったら、キミの事を紹介しよう」
「ま、待ってください! 私はまだ旅に出たいと言ったわけでは……!」

 慌てて首を横を振る私に、局長は「分かってるよ」とでも言いたげに、私の肩をぽんぽんと軽く叩いた。

「この程度で動揺していたら、アゼムと一緒に行動したら大変な事になりそうだ」
「……その言葉だけで、エメトセルク様の気苦労が少しだけ分かった気がします」
「ふふっ」

 やはり思ってもいない事を口にするべきではない。別に何をされたわけでもないのに、局長に触れられた肩が少しばかり重くなった気がして、つい溜息を零してしまった。
 これで雑談は終わりだ、仕事に戻ろう――そう思った矢先。
 局長は突然、予想もしなかった事を口にした。

「じゃあ、こうするのはどうだろう。キミが休暇を取って、旅に出たいと思った時は……ワタシも同行するというのはどうかな?」
「局長の仕事はどうするのですか?」

 冗談と分かってはいても、さすがにふたりで旅に出るなど有り得ない。そう無意識に決め付けた私は、同意するどころか逆に質問をぶつけてしまった。これでは完全に否定しているようなものだ。
 局長はてっきりいつものように穏やかに笑いながら「冗談だよ」なんて言うと思ったのだけれど、一瞬だけ、悲しそうに目を伏せたように見えた。否、単に私が言い過ぎたと自覚したから、相手が傷付いていると思ってそんな風に感じ取っただけかもしれない。
 例え実現できないと分かっていても、「そんな日が来たらいいですね」とでも返しておけば良かったのだ。脳内で必死に返す言葉を考えていたけれど、それを口にする事は叶わなかった。

「ふふっ、冗談だよ。ワタシとキミが一緒にいなくなったら、さすがに皆も困ってしまうからね」

 そう、冗談なのだから気にする必要はない。局長は別に悲しそうに微笑んだりなどしていない、いつも通りの飄々とした表情だった。

「キミは恐い?」

 災厄の襲来を前に、局長――ヒュトロダエウスは、ゾディアークに命を捧げる事を決断した。その選択に同調する者は多く、私もそのひとりだった。けれど今になって恐れを抱いているという事は、私には確固たる意志があるわけではなく、その場の雰囲気に流されてしまっただけという事に他ならない。

 彼の問い掛けにきっぱりと否定する事が、ゾディアークに命を捧げ、この世界を救う者として求められている言葉だと、考えなくても分かっている。
 別に仰々しい言葉を口にする必要はないのだ。黙って首を横に振れば良い。それだけなのに、どういうわけか私は言葉に詰まっていた。
 そんな私を見て、恐れを抱いていると察するのは彼にとっては容易い事なのだろう。そもそも最初に質問したのは私なのだから、そんな問いが出て来る時点で「恐れを抱いているのはお前だろう」と思うのは自然な流れだ。
 彼ならば、いつものように私を否定する事はせず、恐怖心を少しでも和らげるような楽しい小話でもするかも知れない。そう思っていた私が浅はかだった。

「今ならまだ引き返せる」

 彼は、決して呆れる事も蔑む事もしなかった。そして、私を彼の意志に従わせようとする事も。

「エメトセルクかヴェーネスの元に行くといい。悪いようにはしない筈だ」

 彼は至って普段と変わらない、優しい笑みでそう告げた。
 ただの部下というだけで、道連れにするわけにはいかない。そう思っての言葉だろう。けれど、私にはそれがゆるやかな拒絶に思えた。決して彼が悪いのではない。恐れを為している私を逃がそうと、彼は善意で言っている。
 それなのに、どうして私の胸は今にも張り裂けそうなほど苦しいのか。

 私は、漸く首をゆっくりと横に振った。それは最初の「恐いのか」という問いの答えではない。
 逃げたくないという意思表示。

「……私は局長と一緒にいたいです」
「もうワタシは局長ではないし、キミがワタシに従う必要もない。『これ』は仕事ではないのだから、責務を全うしようと思う必要もない」

 彼はまるで幼子をあやすように優しく言葉を紡いで、まるで別れの挨拶をするかのように、片手を差し出した。

「キミと一緒に働けて、楽しかったよ。どうか、元気で。自分を責めないようにね」

 ここで彼の手を取ったら、別れの握手を交わす事になる。そして手が離れれば、彼は私に背を向けて、もう二度と戻って来ない。
 恐いという単語を最初に言葉にしたのは私だ。ここに来てそんな問いを投げ掛けるのは、自分が逃げ出したいからだ。
 けれど、彼を置いて自分だけ逃げるのは嫌だ。別にそれは悪い事ではない。彼が言ったように、エメトセルクやヴェーネス等、多くの人が生きる事を選び、ゾディアークによって滅亡から免れたこの世界を護っていく。
 ゾディアークに命を捧げるのは、強制ではない。土壇場になって逃げたところで、誰にも責める権利はない。
 それなのに、私は逃げる事を躊躇っていた。ならばどうするのが正解なのか。
 それは、言葉にしなければ伝わらない。もう猶予はないのだから、これ以上彼を困らせない為に、覚悟を決めなければ。

「局長……いえ、ヒュトロダエウス。私は、あなたのいない世界で生き続ける事のほうが、ゾディアークの贄となるよりも耐えがたい事です」

 私の声は震えていた。自分で感情のコントロールが出来なくなるなど滅多にないのに、この時ばかりは、溢れそうな涙を堪えていた。
 彼も突然こんな事を言われても困るというのに、一体何を言っているのか。申し訳ないと思いつつも、まずは心を落ち着かせなければ。そう決めて、私は彼の手を取る事はせず、歩を進めた。
 行き場をなくした彼の手は、今度は私のローブへと向かう。引き留められるように引っ張られて、思わず振り返ってしまった。
 彼は珍しく、困惑を露わにしていた。私がろくでもない事を宣ったのだから無理もない話だ。さすがにここは謝らないといけない。

「……ごめんなさい、こんな時にこんな話を」
「うん、全くもってその通りだ」

 案の定、怒っている。当たり前だ。最早顔も見たくないから一緒に来なくていい、勝手に逃げてくれとすら思っているかも知れない。そう思ったのだけれど。

「そんな風に思っていたなんて、今聞かされるまで分からなかったよ。……もっと早く分かっていれば、局長と部下じゃなくて、違った関係になれたかも知れないのに。例えば、本当にキミを旅に連れ出したり、ね」

 彼――ヒュトロダエウスは、怒ってなんていなかった。どこか悲しそうに目を細めて、力なく笑みを浮かべていた。
 その表情を見た瞬間、私は改めて後悔した。ゾディアークに命を捧げると決めた事ではない。
 あの時、彼が旅に同行すると言ってくれた時、快く頷くべきだったのだ。
 今になって、あなたのいない世界は嫌だと宣うくらいなら。

「ごめんなさい……」

 俯く私に、ヒュトロダエウスはそれ以上何も言わなかった。今度は握手ではなく、私の手を取って、緩慢な足取りで歩を進めた。最早私には逃げるという選択肢などなく、ただただ彼からはぐれないよう、その手をきつく握り返した。



 青い空は朱く染まり、美しい街並みは炎で燃え盛り、あちこちで異形の化物が暴れ、人々の命が失われ始める。永久の平和が約束されたこの世界はそんな災厄に蝕まれる。誰かが贄として犠牲にならなければ、この世界は滅亡する。人類が災厄を乗り越える為には、対価が必要だった。贄を選んだのが偶々、彼と私を含む人々だったというだけの話だ。
 私たちの命は決して無駄にはならない。そう思う事で、少しだけ恐怖心が払われたような気がした。

「……まだ恐いと思うかい? キミを否定したりしないから、正直に言って欲しいんだ」

 炎の海に包まれるアーモロートを、手を繋いで歩を進めながら、ヒュトロダエウスは私に問い掛けた。
 私にもう迷いはなく、返答に困る事もない。

「いえ。今は……命を捧げる――死ぬ事を恐いと思うよりも、私たちの世界が、平和な日々が、こうしていとも簡単に壊されてしまう事が……悲しくて、辛い。それだけです」

 ゾディアークに命を捧げる者たちに、もう引き返す意志はない。災厄から星を護り、再びこの星に平和を齎す事。それだけを考えていた。

「じゃあ、少しでもキミが穏やかな気持ちになれるような話をしようか」

 果たしてヒュトロダエウスは、私を気遣って言っているのか。または、彼自身も私と同じように思っているからこそ、雑談に興じようとしているのか。その意図は分からないけれど、私は彼の話に耳を傾けた。

「遠い未来、ワタシたちの魂も冥界へ還る事があるかも知れない。例えば、ゾディアークに頼らずとも災厄を防ぐ方法を、未来の人々が確立するとかね」

 ヒュトロダエウスは、いつもと変わらない優しい笑みを湛えながら言葉を紡ぐ。これからゾディアークに命を捧げるとは思えないほど落ち着いている。
 否、その時が目の前に迫っているからこそ、冷静でいられるのだ。

「もしワタシたちの魂が星に還り、そして、ワタシたちがこの世界に生まれ落ちたら……その時は、一緒に旅をしよう」

 そんな事などあるわけがない。論理上、ゾディアークに命を捧げれば、魂は冥界には行けず、贄として留まり続ける事になる。それに生まれ変わったとしても、転生する前の記憶が残っているわけではないのだから、ヒュトロダエウスの言っている事は夢物語に過ぎない。いつもならきっぱりとそう返してしまうのだけれど、今は、今この瞬間は、自然と頷いていた。

「ええ、是非」

 私たちは自らの命を捧げ、世界を救う。そして、遠い未来、生まれ変わって彼と一緒に旅をする。それはきっと叶わない夢なのだろう。それでも、そんな甘い夢を見たって良いのだと、彼が肯定してくれているような気がした。

 もう、何も恐くない。彼の手から伝わるぬくもりが、恐怖心を払ってくれる。
 自然と双眸から零れる涙は、恐怖心から来るものではない。最後の最後まで傍にいてくれる彼の優しさが嬉しく、そして何も返す事が出来ない自分自身の無力さが、悔しくて仕方がないからだ。
 だから、今この瞬間だけは、せめて甘い夢を見させて欲しい。甘い夢の果て、私たちの魂が星に還り、生まれ変わり、再び彼と巡り会い――そしていつの日か、今度こそ一緒に旅に出るのだと。
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