ステップ・オン・アップ

 環境の変化が性格に影響を与えることはよくある話だ。いつも友人の後ろに隠れていた内気なクラスメイトが、アルバイトを始めたのをきっかけに明るくなったのも、特段不思議なことではない。寧ろ彼女にとってその変化が、学校生活を送る上でも良い方向に向かっているのであれば実に喜ばしい話である。あるのだが――

「竜ヶ崎、お前一野瀬さんに振られたんだって?」
「振られてません!! それ以前に告白してもされてもいませんっ!!」

 入学早々変な噂が経ってしまったせいで、クラスメイトの男子たちからあらぬ誤解を受ける羽目になってしまっている。
 彼女がアルバイトを始めてからというもの、随分と積極的になったように見えた。それは誰もが気付く変化ではあったが、恐らくは彼女がアルバイトをしているという事実を知っている者は限られている。だからこそ、彼女の変化の理由が己に結び付けられてしまうのだった。親密な関係には全く見えないからと言って、悪い方向に捉えられるのもどうかと思うが。

「怜ちゃん、おっはよー!」
「おはようございます、渚く……」
「おはよう、竜ヶ崎くん」
「えっ!? どうして渚くんが一野瀬さんと一緒に登校してるんですか!?」

 己が朝から悩んでいるというのに、友人はよりによって噂の張本人と共に教室に現れて、思わず声を荒げてしまった。
 瞬間、渚くんと彼女は驚きのあまりぽかんと口を開け、更には教室内の視線が自分たちに向いているのを空気で感じ、己の軽率な言動を後悔する羽目になった。冷静に考えれば、二人が一緒にいるのは何も不自然なことではないからだ。

「廊下で偶然会ったから一緒に来ただけだよ〜」
「……そう、ですよね。渚くんの仰る通りです、はい」
「怜ちゃん、顔真っ赤〜」
「指摘しないでください! 言われなくても分かってますから!」

 羞恥のあまり、一気に顔が熱を帯びたという自覚はある。それを指摘されれば尚更赤面もするというものだ。そしてこうして冷静さに欠けた発言を更に重ねてしまったことで、クラスメイト、ひいては彼女の前で恥をかいてしまった。今日は朝からついていない。

 彼女が自席に移動したのを見計らって、渚くんにこっそりと耳打ちした。異性のクラスメイトと偶然会って一緒に登校するぐらい、不自然なことではないのだが、どうしても引っ掛かる。

「渚くん、一体いつから一野瀬さんと仲良くなったんですか?」
「えっ、怜ちゃんそれってヤキモチ?」
「どうしてすぐそういう方向に話を持っていくんですか! 最近よく一緒に登校してるみたいですし、偶然にしては多過ぎですよ」
「あちゃ〜、バレたか」

 渚くんは悪びれもせずへらっと笑ってそう言った。『バレた』とは一体何なのか。まさか、二人は既にそういう仲なのか。というのも、己が彼女に振られたという噂に加え、今目の前にいる友人と付き合っているという噂まで浮上しているからだ。まさか、そんな訳がないとは思うものの、絶対そうだとは言い切れない。

「実はね、悠ちゃんのバイトの情報を手に入れる為に暗躍していたんだよっ」
「……は?」
「ゴウちゃんに聞いてみたんだけど、『それは個人情報だから教えられません!』って突っぱねられちゃって。でもいきなり聞くのも警戒されそうだから、日々交友を深めてそれとなく……」
「はあ……何やってるんですか、渚くん……」

 この様子だと恋仲ではないだろう。とはいえ、どうしてそこまでして彼女の個人情報を手に入れようとしたのだろうか。

「怜ちゃんの為に頑張ったんだから、そんな呆れ顔しないでよ」
「なんで僕の為なんですか。誰も頼んでませんよ」
「うーん、それじゃあ悠ちゃんの為、かな」
「『それじゃあ』って、行き当たりばったりの理由で行動しないでくださいよ! 大体それがどうして一野瀬さんの為になるんですか」
「怜ちゃんがバイト先に遊びに来てくれたら、悠ちゃんも嬉しいんじゃないかな、って」

 渚くんがそう言って屈託のない笑みを浮かべると同時に、始業を告げる鐘が校内に鳴り響いた。話は途中で終わってしまったが、渚くんの行動原理は理解出来た。彼女をプールサイドに強引に連れて来たのと同様、またお節介を焼こうとしているのだろう。
 というか、彼女にとってはいい迷惑なのではないか。『悠ちゃんの為』と言い切る自信は一体どこから来ているのか甚だ疑問である。もし彼女のバイト先に出向こうものなら、引き留めた方がそれこそ彼女の為なのではないか。この心配が杞憂に終われば良いのだが。




「じゃあ、行こっか!」
「念の為に聞きますが、何処に行くんですか?」
「何処って、悠ちゃんのバイト先だよ」
「却下です!!」

 部活が終わり、帰路につこうとしたら案の定予感は的中した。嫌なわけではないのだが、突然押し掛けて彼女を困らせたりしないだろうか。それだけが気懸かりだ。

「大丈夫だよ、悠ちゃんいつでも来てねって言ってたし」
「それ、ただの社交辞令かも知れないじゃないですか。クラスメイトの手前、来るなとは言えないでしょう」
「も〜、どうして怜ちゃん、悠ちゃんのこととなるとマイナス思考になるのかな」
「マイナスも何も僕は事実を……というか、一野瀬さんって何のバイトをしているんですか?」

「いつでも来てね」という台詞から、恐らく接客業で尚且つ己たちが出入りしても問題ない場所だと推察出来た。男子高生が入りづらい場所ではなく、高校生の財布に入っている額では買えないような高額な物を扱っている店でもなく……

「喫茶店だよ」
「ああ、なるほど」

 それならば、己たちが客として出向いても、彼女の迷惑にはならないに違いない。むしろ店の売り上げに繋がると考えれば、向こうとしてはかえって嬉しいのではないか。

「それなら、顔を出しても問題なさそうですね」
「おっ、やっと怜ちゃんが笑顔になった!」
「別に笑ってませんけど!?」

 口ではそう言いつつも、なんだか肩の荷が下りた気がした。気が抜けて頬が弛んだのを笑顔と称するのはどうかと思うが、恐らくそれ程までに気難しい顔をしていたのだろう。

「行って迷惑になるなら当然行くべきではありませんが、喫茶店なら逆にお店の売り上げに貢献することになり、ひいては一野瀬さんの為になりますからね」
「素直じゃないなあ、怜ちゃんは〜」
「だからなんで素直じゃないとか、そういう単語が出て来るんですかっ!」




 彼女のバイト先は、己たちが毎日通学で利用している電車で向かった先――即ち帰宅途中で寄ることが可能な場所にあった。というか、下車駅が己の家の最寄り駅だったのは運命の悪戯だろうか。彼女は己の住所など知らない筈だ。

 辿り着いた先は、外観からして落ち着いた雰囲気の、こじんまりとした店だった。まだ空は明るいが、陽が落ちるのにそう時間はかからない。帰路につく人たちと入れ替わりに、仕事帰りの社会人や授業を終えた学生が寄り道し、店の客層が変わる頃合いである。

「へえ〜、お洒落なお店だね」
「渚くん、うるさくしたらいけませんよ」
「え〜! 怜ちゃんひどい! いくらなんでも時と場所は弁えるよ〜」

 若干の不安を残しつつ、扉のドアノブを引いた。扉が開かれると同時に、来客を知らせるベルの音が店内に響く。内装やインテリアはアンティークな造りで、橙色の灯が薄暗い室内を優しく照らしている。
 想像以上に良い雰囲気の店だ。思わず感想を口にしそうになった瞬間、

「いらっしゃいませ、二名様ですね」

 店員が現れ、愛想の良い笑みを湛えて訊ねて来た。

「ええ、二人で……って、一野瀬さんじゃないですか。アルバイト、お疲れ様です」
「おっ、悠ちゃんだ〜! バイト頑張ってるねっ」

 さして大きくない店ならば、当然、彼女が接客する可能性は非常に高い。出向いた側としては特に驚くことではないのだが、彼女にとってはそうではなかったらしい。
 笑顔が張り付いたまま硬直している。

「一野瀬さん?」
「お〜い、悠ちゃ〜ん」

 渚くんが彼女の顔の前で手を振って、漸く我に返ったようだ。固さは消えて、代わりに恥ずかしそうに頬を染めて視線を落とした。

「ごめんね、まさか本当に来てくれると思わなくて、びっくりしちゃって……」
「いえいえ、突然来られたら驚きますよね」
「怜ちゃん優しい〜」
「いちいち突っ込まないでください、渚くん!」

 変な噂が立ったという大前提があるせいで、何気ない会話まで茶々を入れられると、こちらも妙に気恥ずかしくなるので止めて貰いたいのだが。ちらりと彼女の様子を窺ったら、作り笑顔ではない自然な微笑が零れていた。というか、呆れられて苦笑しているように見えなくもない。彼女にとって己はただのクラスメイトとはいえ、渚くんに弄られるキャラクターという認識をされてしまうのは少々不本意である。

「立ち話をしていても一野瀬さんの仕事の邪魔になりますし、早く座りましょうか」
「ああ、そっか。悠ちゃんごめんね」
「ううん、いいよ。来てくれてありがとう。それでは、お席にご案内しますね」



 これ以上情けない姿を見せずに済んでほっとしたというのもあるが、席に着いてからというもの、実に心地良い時間を過ごすことが出来た。木調の店内を照らす橙の照明、会話を邪魔しない程度の音量で流れるジャズ。変に騒ぐ客は居らず、客層も良いのが見て取れた。

 そして、思わず目を見張ったのは彼女の働きぶりだ。オーダーから注文の品を運び、レジで会計をするという一連の作業から、洗い物や掃除までほぼほぼこなしているように見えた。こう言うと誤解を招きそうだが、決して彼女を付けているわけではない。時折奥に籠り食器が重なる音が漏れて、洗い物をしているのだろうと察しただけである。また、一通り終えて接客対応もない時は手持ち無沙汰なのか、客の邪魔にならない程度に拭き掃除をしたり、黙々とメモを見返したりと実に忙しない。

「悠ちゃん、頑張ってるね」
「ええ。少しぐらいぼうっとしても良いと思いますけどね」
「真面目なんだね〜」

 共に感心しながら、注文した珈琲を口にする。程良い苦さで、心なしか練習の疲れが取れた気がした。これももしかして彼女が淹れたものなのだろうか。

「悠ちゃんが淹れてたりしてね」
「っ!?」
「そんなに驚くことかなあ」
「いえ、そうではなく、僕も全く同じことを思ったので……って」

 向かいに座る渚くんの表情が、一気ににこやかになった。しまったと己の何気ない発言を悔いたがもう遅い。

「渚くん。何なんですか、その笑いは」
「怜ちゃん、コーヒー飲んでた時すっごく優しい顔になってたから、なるほどな〜って」
「一体何が成程なんですか。美味しいものを口にすれば、自然と頬も弛むじゃないですか」
「はいはい、そういう事にしておくね〜」

 何だか妙に納得がいかない……とは思いつつも、実際に彼女が淹れたのであれば、美味しいのも納得出来た。別に変な意味ではなく、真面目に仕事に取り組んでいるその姿勢を見れば、出されるものの質も保証出来るからだ。



 特に事前に計画も立てた訳でもなかった為、談笑もほどほどに帰宅することになったものの、名残惜しいと思えるくらい居心地の良い空間だった。また来る機会はあるだろうし、来ようと思えばいつでも来れる距離だ。

 会計も当然のように彼女で、手間取ることなくレジの操作を終えていた。すっかりこの喫茶店の店員姿が馴染んでいて、初めて訪れて彼女が新人のアルバイトだと思う人はいないと言っても過言ではない。
 新しい環境に飛び込むことで、こんなに人は変われるものなのかと純粋に驚いた。いや、今の彼女が本来の姿なのかも知れない。

「ごちそうさま、悠ちゃん。すっごく美味しかったよ!」
「良かった。店長こだわりの珈琲豆なんだよ。良かったら家族の人とか、色んな人にお薦めしてね」
「悠ちゃん商売上手だねえ」
「ええっ、そうかなあ」

 渚くんに褒められて、彼女は困ったように眉を下げて微笑んだ。あまり褒められることに慣れていないのだろうか。彼女の働きぶりを褒める言葉はいくらでも沸いて来るのだが、下手に踏み込むと警戒されるような気もする。一先ずここは無難な言葉に留めておこう。

「じゃあ、帰りましょうか」
「ありがとうございました! またお越しくださいませ」
「ええ、勿論です。また来ますね。では、一野瀬さん、また明日学校で」

 軽く会釈した後、背を向けて店を後にした。それにしても、シンプルな服を纏って仕事をする彼女の姿は、随分と大人びて見えた。当然、見た目に幼さはあるのだが、己が思っている以上に根はしっかりしているのだと感じた。





 もう陽はすっかり落ちて、電灯が夜道を照らしている。帰ろうとした矢先、渚くんが思いも寄らないことを口にした。

「怜ちゃん、やるねえ」
「はい?」
「定型文の挨拶に対して勿論また来るって、余程じゃないと言わないと思うけど?」
「良い店だったじゃないですか!」
「本当にそれだけ?」
「他に何があるんですか」

 渚くんが何を言わんとしているのか。それを脳内ではっきりと言葉にしてしまうのは、些か自意識過剰なのではないかと思ってしまい、余計な感情は強引に打ち消すことにした。

「クラスメイトのバイト先の売り上げに貢献するだけですよ。僕たちが通えば巡り巡って一野瀬さんの為にもなりますし」
「うんうん、そういう事にしておこうか」
「さっきといい『そういう事にしておく』って何ですか! いや、別にいいんですけどね!」

 これ以上この手の話題が長引くと墓穴を掘りそうだ。あえてはっきりと言って来ないのは、渚くんなりの優しさなのかも知れない。いや、そもそも茶化すこと自体が問題なのだが。

「良かったね。悠ちゃん、怜ちゃんのお陰で明るくなって」
「は?」
「怜ちゃんを見て自分も頑張ろうって思ったって、前に悠ちゃん言ってたよね」
「でも結局、水泳部には入ってくれませんでしたけどね」

 彼女のあの発言も、どうしてそう思ったのかその論理が掴めず、自分の中で有耶無耶になってしまっている。本当に自分に憧れているのなら、それこそ水泳部に入るだろう。そうではなく敢えてプールに来る機会が減る行動に出たのを考えると、逆に避けられているのではないかと思ったりもしたのだが。

「頑張り方は人それぞれだよ。怜ちゃんはハルちゃんを見て水泳部に入ったけど、悠ちゃんは怜ちゃんを見て、自分が頑張れそうなことを頑張りたいって思ったんじゃないかな」
「まあ、そう取れなくもないですが……」

 真偽は不明だが、もしそうだとしたら純粋に嬉しいことだ。己が泳げるようになるまでの経過を思い返すと、彼女の前で醜態を晒したことが何度かあった気がしないでもないが、結果的に彼女の為になったのであれば、実に喜ばしいことである。
 偶には自意識過剰になっても良いだろう。あのあたたかな空間、そして珈琲の芳ばしい香りを思い出しながら、そんな風に思うのだった。

2018/04/12
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