イフ・アイ・フェル

 気のせいだと思っていた。ただの下らない噂話だと思っていた。陸上部に所属していた時、グラウンドを眺めている彼女の姿を目にすることはあったが、まさか己を見ていたなんて思うわけがなかった。陸上部を辞めた後、「竜ヶ崎目当てで入部を考えていた女の子がいた」なんて話を聞かされて、当然そんな話をあっさりと信用するほど呆けてはいない。
 そう、同じクラスの一野瀬悠という女生徒が己に片想いしているなど、与太話でしかないのだ。

 己が揶揄われるのはともかく、ある事ない事を言われる彼女が可哀想だ。今はまだ彼女の耳に入っていないから良いものの、もし自分の与り知らぬところでそんな事を言われていると知れば、酷く傷付くに違いない。かっこいい男子ならともかく竜ヶ崎くんなんて……と思われるに決まっている。もし彼女がそうはっきりと口にする性質であれば、当然こちらも多少は傷付く。そういった悲劇を予め回避する為にも、そんな訳の分からない噂話など早く流れてしまえばいい。


「ねえ怜ちゃん、一野瀬悠ちゃんのことどう思う?」

 昼食中に渚君が放った言葉に、胃の中に運ばれた飲食物が逆流しそうになる位むせてしまった。

「大丈夫!? 怜ちゃん、焦って食べたら駄目だよ〜」
「渚君が変なこと言うからですよ!」
「変なこと?」
「とぼけないでください」

 突然、交流も何もない異性の話題が出て来るということは、あの噂話が渚君の耳にも入っているという事だ。彼女の名誉の為にもここは断固として否定しなければ。

「どうして何の前振りもなく一野瀬さんの名前が出て来るんですか」
「だって一野瀬悠ちゃん、グラウンドでよく陸上部の練習見てたっていうし、怜ちゃんに憧れて陸上部入ろうとしたって」
「それは一野瀬さん本人から聞いた話ですか?」
「ううん、噂話だよ」
「噂話を信用しないでください。大体一野瀬さんもいい迷惑ですよ、嘘か真か分からない話をこうやって勝手にされて」

 その言葉に渚君は口を噤んで、漸く反省の色を見せたと思いきや、どうやら己の認識が甘かったらしい。

「嘘じゃないかもしれないよ? 火のない所に煙は立たぬって言うし」
「嘘かもしれないじゃないですか。というか、絶対嘘に決まってます」
「そんなの分かんないじゃん。あ、そうだ! いい事思い付いた」

 渚君の思い付く『いい事』が己にとっていい事とは限らない。むしろこの話の流れでは、最悪の事態が起こり得るのではないか。嫌な予感が脳裏をよぎったが、流石に渚君もそこまで強引ではないだろう。なにせ相手は会話すらした事のない女生徒なのだ。

「一野瀬悠ちゃんを水泳部に招待しよう!」
「なんでそうなるんですか!?」

 何故こうも嫌な予感というのは的中してしまうのか。

「だって、本当に怜ちゃんのことが好きだったら、たぶん喜んで見に来るんじゃないかな? 逆に怜ちゃんに興味なかったら断るだろうし。ねっ、いい案でしょ?」
「ちっとも良くありません! そもそも渚君、招待と言いながら強引に連れて来る気じゃないでしょうね!?」
「そんな事しないよ〜、大丈夫! 任せといて!」

 言いながら、胸をとんと叩いて得意気な笑みを浮かべる渚君を見て、どっと溜息が漏れてしまった。己が釘を刺したところで渚君が素直に聞くとは思えない。自分が水泳部に勧誘された時のことを思えば一目瞭然だ。

 とはいえ、渚君も流石に嫌がる女の子を無理矢理プールに連れて来ることはしないに違いない。そもそも陸上部の件も、それ自体が全くの事実無根だという可能性だってある。
 入学して間もないのに、こんな噂を流されてしまう彼女のことを不憫だとは思うし、ここで彼女が己の事を好いてなどいないとはっきりさせた方が、後々困った事態にはなる事は防げるのではないか。互いの為にもこれは良い手段なのかもしれない。

 そして断言しよう、彼女が放課後のプールに姿を現すことは絶対にない。




 目を疑った。
 遙先輩の泳ぎに魅せられ、そして渚君の熱意に圧され、陸上部を退部して正式に水泳部に入部してからというもの、放課後のプールで泳ぎの練習をするのは日常と化していた。その日常が、早くも変貌を見せるとは。

「何故、一野瀬さんがここに……」

 遠目からでもよく分かる。己と遙先輩が浸かるプールの端側と対を為すように、彼女は渚君と共にこの場に佇んでいた。よくよく見ると、渚君が彼女の手を掴んでいるような気がしないでもない。まさか本当に強引に連れて来たのではないかと疑うものの、すぐに真琴先輩と江さんも合流して結局うやむやになってしまった。
 真琴先輩たちも一緒になって彼女を取り囲んでいるあたり、あの二人も彼女をここに連れて来た経緯を知っていそうな気もするが、流石にそれは単なる己の考え過ぎであって欲しい。

「怜、あの子のところに行かなくていいのか」

 一体いつ隣に移動してきたのか。まるで泳げない己とは正反対に、心地良さそうに水に浮かびながら、遙先輩は視線をこちらへ向けることなくぽつりと呟いた。まさか、遙先輩まで事情を知っているのではないか。

「遙先輩まで、なんでそんなことを言うんですか」
「渚が連れて来たってことは、お前たちと同じクラスなんじゃないかと思ったけど、違うのか」
「いや、まあ、その通りですけど」

 そもそも彼女がここにいる理由は水泳部の見学に他ならない。渚君は「怜ちゃんに興味なかったら断るだろうし」なんて言っていたが、己を目当てにここに来たという確証はどこにもない。それどころか、渚君が強引に連れて来た可能性もある。というよりその可能性の方が圧倒的に高く、それならば己が行動を起こすしかない。

「渚君が無理に連れて来たのかも知れないので、念の為確認してきますね」
「ついでに勧誘出来そうだったらよろしく頼む」
「なんでそうなるんですか!? 僕が入ったから部員は足りてるじゃないですか!」
「部員は多いに越したことはないだろ。でも、怜が嫌なら無理にとは言わない」

 遙先輩は己の方に顔を向けてきょとんとした後、特に追及することはなく再び顔を青空へと向けた。今のやり取りから察するに、少なくとも遙先輩は何も知らないと見ていいだろう。もしかしたら真琴先輩と江さんも同じで、たまたま渚君が連れて来た女の子に興味を持っているだけかも知れない。そう解釈すると、幾分か気も紛れた。




 情けないことに、水泳部へ正式に入部したものの未だ泳ぐことが出来ず、渚君たちの元へ行くのも歩行手段しかなく、時間を取ってしまった。きっと遙先輩のように自由自在に泳げたら、こんな美しくない移動手段をクラスメイトの女生徒に見せることもなかったのに。絶対に有り得ないとは思うが、仮に彼女が己を好いていたとしたら、この時点で冷めてしまうに違いない。

 水音を立てて陸へ上がれば、濡れた体から体温を奪うように春風が舞う。身体と共に頭も冷えたのか、動揺していた心もほんの少しだけ落ち着いたような感覚に陥った。実際のところ、彼女は己のことなど別にどうとも思っていないのだろうし、普通にしていれば良いだけの話だ。

「あっ、怜ちゃん! 悠ちゃんが来てくれたよ〜!」
「見れば分かります。というか」

 渚君たちの傍に歩み寄って、漸く一野瀬悠というクラスメイトと対面した。彼女の顔を間近で見たのはこれが初めてだ。どちらかというと目立たないタイプで、いつも一緒にいる女生徒たちの後ろに隠れているような子だったはずだ。そんな彼女が、知り合いもいない、さして興味もないであろう水泳部の見学になんて、易々と来るだろうか。その証拠に彼女はただ茫然と己を見上げるだけで、心ここに在らずと称するのが相応しい。つまり、

「渚君……まさかとは思いますが、一野瀬さんを拉致してきた訳じゃないですよね?」

 どう見ても今言った通り、無理矢理ここに連れて来られたとしか思えない。これでは、彼女が己に好意を抱いているかどうか確かめるという本来の目的が達成されないではないか。というか恐らくは、渚君は思い付きでそんな事を言っただけで、本当に真意を確かめようとしている訳ではないのだろう。

「怜ちゃん酷〜い! 人聞きの悪いこと言わないでよ! 悠ちゃんは見学に来ただけだよ。ね?」
「えっ、あ、あの……」

 彼女の顔を覗き込んでそう言う渚君に、話の流れを汲めば当然だが、彼女はしどろもどろになっている。きっと嫌と言えないタイプなのだろう。こんな事態になった原因に己も関わっているとなれば、助け舟を出さないわけにはいかない。

「やっぱり拉致して来たんじゃないですか! 一野瀬さん、同じクラスだからといって渚君に気を遣う必要はありませんからね」
「え〜? 別に迷惑じゃないよねっ、悠ちゃん?」
「だからそうやって笑顔で圧を掛けたら、一野瀬さんも断りたくても断れないじゃないですか!」

 強引に連れて来たことを最早隠しもしない渚君に呆れてしまったが、結局己もなんだかんだで折れてしまった事を鑑みれば、仕方のない事なのかもしれない。とはいえ、彼女も入る気のない部活の見学に無理矢理付き合わされては、堪ったものではないだろう。やはりここは己が彼女を守るしかない。

「一野瀬さん」
「は、はいっ!」
「本当に無理しなくていいですからね。断っても、渚君は気を悪くしたりする人じゃないですから」
「全然、無理してないし迷惑じゃない、けど、逆に私がいたら邪魔……じゃないですか?」

 人見知りする性格なのか、彼女は己を見上げて遠慮がちに訊ねてきた。さながら小動物のようなその仕草と、渚君の手前だからかも知れないが、自分を押し殺して周囲を気遣う健気さに、つい『可愛い』などと邪な感情を抱いてしまった。
 いや、冷静になれ。彼女は無理矢理ここに連れて来られただけであって、己の存在は関係ない。変に勘違いしてその気になってしまったら、最悪の事態が訪れることは目に見えて分かっている。冷静にならなくては。

「いえいえ、邪魔なんかじゃないですよ。僕は見ての通り泳げなくて、遙先輩に御教授頂いている身なので、お恥ずかしい限りですが」

 ……自分で言っていて悲しくなってしまった。彼女が己を好いているなど天地がひっくり返っても有り得ないが、仮にそうだとして、今の今まで会話もしたことがないのに好意を持つということは、俗に言う一目惚れだ。己にそんな魅力があるとは思えないが、この無様な現状を見れば、百年の恋も冷めるだろう。今この瞬間、彼女の恋は終わったに違いない。
 己は何もダメージを受けていない筈なのに、妙に気が滅入ってしまった。

「では、練習に戻りますね」

 なんだか居た堪れなくなってしまって、なんとか愛想笑いを作りつつ一礼して、早々にその場を後にした。何も始まっていないのに、何もかもが終わった感覚に陥ってしまったが、かといって何をどうすればベストだったのかなんて、考えても答えは出るわけもない。そもそも彼女のことが何も分からない以上、己にはどうしようもないのだ。

 噂が万が一本当だとしたら、早々に幻滅して貰った方が彼女の傷は浅く済むだろうし、そもそもそんな噂は嘘に違いないので、双方共にダメージはない筈だ。なのにこうして己の心がどこか澱んでしまっているのは、少なからず期待をしていたからなのかも知れない。実に馬鹿げた話だ。



 水の中に戻って、渚君たちに囲まれている彼女を遠目に見つつ溜息を吐けば、遙先輩が再び己の傍まで来て、相変わらず気持ち良さそうに浮きながらぽつりと呟いた。

「その様子だと駄目だったか」
「駄目って何がですか……」
「勧誘」
「そもそも、彼女は渚君に無理矢理連れて来られただけですよ。入る気のない子を強引に誘うなんて出来るわけないじゃないですか」

 肩を竦めてそう言った後、遙先輩が暫し間を置いて返してきた言葉は、己の今までの凝り固まった考えとは真逆のものであった。

「でもあの子、嫌そうには見えない」



 そんな訳がないと反論しようとしたものの、遙先輩が嘘を吐くようには思えなかった。
 その言葉を真に受けるならば、渚君たちに囲まれた彼女もまた楽しそうにしている様に見えなくもない。だとしたら、今までの己の空回りは一体何だったのか。

「大丈夫だ。チャンスはいくらでもある」

 落ち込んでいるように見えたのか、遙先輩からそんな事を言われてつい苦笑いを浮かべてしまった。ここに連れて来られたのが嫌ではないにせよ、それと実際入部するかは話が別だ。そもそも、恐らくは前に渚君が勧誘活動を行っていた際に彼女も声を掛けられていた可能性が高い。あの時点で誰も入部しなかった事を思えば、彼女も水泳部に興味などない筈なのだ。
 ……じゃあ、どうして。
 まさか、

「怜、どうした? 顔が赤いぞ」
「え!? いやいや、気のせいじゃないですか?」
「? ならいいけど、無理するなよ」

 遙先輩は己の体調を案じているだけだった。一見天然に見えて、案外すべてを見透かしているような気もするが、仮にそうだったとしても遙先輩は傍観者であり続けるだろうし、幾分か気は楽だ。

「一野瀬さんとは同じクラスですし、一応僕からも勧誘できたらしてみますけど、期待はしないでくださいね」

 表面上は溜息交じりにそう答えたものの、言葉では表現出来ない感情に平常心が乱されていた。有り得ないと決め付けていた彼女に関する様々なことが、全て事実だとしたら。そんな微かな可能性が脳裏を過っては、やはり有り得ないとその思考を打ち消した。
 今こうして心が乱れているのも、元はと言えば彼女を連れて来た渚君のせいなのだが、どうにも責め立てる気にはなれなかった。認めたくはないが、己はある種の期待をしているのかも知れない。そんな訳がないと分かっている筈なのに。

2017/09/09
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