ファースト・タイム

 私は一目惚れなんて絶対にしない。だって、性格だって分からないのに好きになるなんて、それって外見しか見てないのと同じだし。人を好きになるってそういうことじゃない、なんて思っていたけれど。
 価値観や固定概念があっさり崩壊することが、人生には少なからずあると、この岩鳶高校に入学して間もない私は思い知ることになるのだった。




 気付けば四月ももう中旬に差し掛かっていた。朝の肌寒さを徐々に感じなくなって、近所の海から潮の香りを運ぶ風も生暖かい春風に変わり、家から学校までの道程は桜が咲き誇って、そんな季節の変化はほんの少しだけ気分を高揚させてくれる。
 それなのに、なんだか機械的に日々を過ごしているみたいだった。

 自転車で通える距離の高校に進学して、中学の時の友達もいるし新しい友達も出来た。今のところ勉強で困ることもない。何も問題はないし、学校生活はとても順調に送れているのに。
 どう表現したらいいのか分からない、なんだかもやもやとした気持ちを抱えていたけれど、多分それを人は『物足りない日々』と称するのだろう。




「水泳部?」
 いつも通り登校した私を待ち受けていたのは、同じクラスの葉月くんによる怒涛の部活勧誘だった。そういえば友達も何の部活に入ったとか言っていたけれど、私は元々部活に入る気はないし、それに、
「ごめんね、私泳げないんだ」
 情けないことに、浮くことも出来ないし、潜るのも命懸けだし、ビート板なしですいすいと泳ぐなんて天地がひっくり返っても有り得ないのだ。私の場合。

「大丈夫! 僕や先輩たちが教えるから! 一野瀬さんも泳げるようになった方がいいでしょ?」
「で、でも……」
 どちらにしても部活に入る予定はない。良い大学に入るために今からしっかり勉強をしておきたいし、欲しい物を気持ちよく買う為にいずれはバイトだってしたい。となると、部活に割く時間をどうしても惜しく感じてしまうのだ。

「お願い! あと一人入らないと廃部になっちゃうんだ。今ならこのイワトビちゃんフィギュアも付いてくるよ!」
「ひえっ」

 眼前に、ちっともゆるく見えないゆるキャラの立体物を差し出されて、つい後退ってしまった。岩鳶城は一体何を考えてこんなキャラを創り出したのかと突っ込まざるを得ないし、というかいらないのでますます水泳部への興味が薄れてしまった。廃部寸前なことに同情はするけれど、私以外の誰かが何とかするだろう。



 放課後は、友達はものの見事に皆部活に行ってしまった。帰宅部は私だけか、なんでもいいから部活に入った方が良いのかな、と迷いが生じてしまったあたり、私はとても意思が弱い。
 このまままっすぐ帰っても良いけれど、家やカフェよりも圧倒的に捗る図書室で、予習復習に取り掛かることにした。でも、つい前までやっていた受験勉強と比べると遥かに少ない勉強量で、あっという間に自習は終わってしまった。

 高校に入学してからというもの、なんだか心ここに在らずなのは、打ち込めるものがないからだと気付いた。高校は中学とは全然違って、キラキラしたものだと思っていたけれど、私の場合はそうじゃなかった。そもそも近場の高校に進学した時点で、顔見知りも多いし、劇的な変化なんてない。中学の延長線上だ。

 図書室を後にして、あとはもういつも通り帰るだけ。校舎から出ると、空はまだ青いけれど風がほんの少し冷たくて、間もなく夕暮れが訪れることを告げていた。

 グラウンドは運動系の部活の生徒達で賑わっている。校舎からも吹奏楽部の演奏の音が聞こえてきて、余計に気が滅入ってしまった。皆、私と違って打ち込めるものを見つけている。当然、私みたいにそうじゃない子だっているだろうけど。そういう子達は、どんな気持ちで日々を送っているのだろう。
 いや、私が考え過ぎなだけなのかも知れない。単に期待し過ぎただけだ、高校生活というものに。友達もいて、勉強も苦ではない。これ以上何かを望むのはきっと贅沢なのだ。アルバイトでも始めれば、少しは変わってくるだろう。

 少しは前向きになれたことだし、余計なことを考えるのはもうやめよう。淡々と毎日を消化していけば、そのうち良いことだってあるはずだ。そう思って、何気なくグラウンドにちらりと目を向けた瞬間、



 私は一目惚れなんて絶対にしない。だって、性格だって分からないのに好きになるなんて、それって外見しか見てないのと同じだし。人を好きになるってそういうことじゃない、なんて思っていたけれど。



 価値観や固定概念があっさり崩壊することが、人生には少なからずあると、この瞬間、私は思い知ったのだった。




「悠ちゃん随分ご機嫌だね。何かいい事あった?」
 私はとても顔に出易いらしい。次の日登校するや否や、教室で友達に見事指摘された私は、昨日のことを思い出して頬が弛みそうになるのを堪えつつ、こくりと頷いた。
「私、好きな人が出来たんだ」

 言った瞬間、空気が一気に色めき立った。やっぱり誰しもこういう話は好きなのか。瞳を煌々と輝かせた友達に腕を引っ張られて教室の端へと辿り着けば、即座に耳打ちされた。
「ねえねえ、相手は誰? 同じクラス?」
「……わかんない」
「は?」

 友達が呆けた声をあげるのも無理はない。相手のことが何も分からないのに好きになったも何もあるものか、と自分でも突っ込みを入れざるを得ないのだが、本当にこの世は理屈で説明できない事象が起こり得るのだ。

「昨日の放課後、一目惚れしたの。グラウンドで棒高跳びしてるの見て……遠くからだったから、顔はよく分からなかったんだけど」
「待って、顔すら分からないのに一目惚れ!? あのさあ…」
「とにかくかっこよかったの!! 全てが!!」

 呆れ果てて今にも苦言を呈しそうな友達を遮るように大声を出してしまって、慌てて口を塞いだけれど最早手遅れだ。視線を目の前の友達から教室内に移せば、皆、私の方に顔を向けていた。

 穴があったら入りたい。いや、身を隠したところで今の発言がなかったことにはなるわけではないから全く意味がない。ああ、最悪だ。恥ずかしさのあまり思考が働かなくて、今の私は心も体も完全にフリーズしている。
 数秒後、そんな私を救うかの如くチャイムが鳴り響いた。皆何事もなかったかのように席に戻っていき、私も友達に腕をつつかれて我に返ると、慌てて走って席に着いた。

「一野瀬さんって大人しい子かと思ったけど、そうでもないんだね」

 喧騒の中、褒められているのか貶されているのか判別し難い声が聞こえてきて、ますます気が滅入った。私のことをどう思おうと構わないので、お願いだからさっきのことはきれいさっぱり忘れて欲しいと、ただひたすら願うしかない。




 一日の授業が全て終わり、今日は部活がないという友達と一緒に教室を後にして、廊下に出た瞬間溜め息を零してしまった。

「悠ちゃんまだ気にしてるの? 朝のこと」
「気にするに決まってるよ。大人しいと思ったのに…とか言ってる人いたし」
「いや、それ別に悪い意味じゃないでしょ」
「だとしても嫌だよ、私ほんと目立ちたくないし」
「もう皆忘れてるから大丈夫だって」

 だといいけど。私もそんな風に楽観的になれればなあと思いつつ、自分が逆に立場だったら真偽はどうであれ同じことを言うと思う。つまり友達の言う『大丈夫』とはただの気休めでしかない。
 まあ、過ぎたことをいつまでも悔やんでいても仕方がないし、落ち込んだからといって過去が変わるわけじゃない。私こそ朝やらかしたことは忘れよう。
 昇降口で靴を履き替えて、学校を出ようとしたその時、

 まるで時間が止まったみたいだった。
 今、私の目の前を歩いている人は、間違いなく昨日見たあの人だ。後ろ姿だけなのに、昨日だってしっかり顔を見たわけじゃないのに、絶対そうだと己の勘が告げている。

「悠ちゃん?」
「………」
「まさか」

 全てを察したであろう友達の声が耳に入らないほど、私は彼の姿に見惚れていた。今すぐ追い掛けたいけれど、追い掛けてどうする? 声を掛ける? 名前すら分からない相手に何を言えというのか。まさか一目惚れしましたなんて言えるわけがないし。そんなの、どう考えたって相手を困らせる。大体、性格も分からないのに好きですって言い切るのもおかしな話だし。そう、おかしい。じゃあ、私が一目惚れしたっていうのもおかしな話?

「おーい、悠ちゃんいい加減戻って来て」

 友達の声が漸く聞こえて我に返ったけれど、なんだか自分の感覚が分からなくなってきた。自分自身のことなのに、どうしちゃったんだろう、私。

「悠ちゃんの好きな人って竜ヶ崎くんだったんだ」
「え!? し、知り合い……?」
「知り合いっていうか同じクラスでしょ」
「は!? 嘘!?」

 確かにクラスの男子の顔と名前は未だに一致していない。葉月くんみたいな明るいムードメーカーみたいな人は覚えられたけれど……いや、そんなの言い訳だ。私があまりにも男子に興味が無さすぎるのだ。その結果がこれだ。今までずっと同じ空間にいながら、全く気付かなかったなんて、馬鹿すぎる。

「そんなに落ち込むことないって。ていうか同じクラスなんて運命じゃん!」
 呆然とする私の肩を軽く叩いて、友達は笑顔でそんなことを言い放った。いや、運命ならとっくに彼の存在を認識していた筈だし。とはいえ、
「運命……」
 その単語はまだ高校生になったばかりの私には甘美すぎて、頭ではそんなものあるわけないと冷静に思いつつも、心は正反対で、胸の高鳴りは増す一方だ。

 物足りなかった毎日が色付いた気がした。まるで、春の青空を舞う桜の花弁みたいな色に。

2017/05/18
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