魔法融解



※オフでの旅行中、お酒に酔って普段言えない本心を零す話
※飲酒描写がある為、夢ノ咲卒業かつ二十歳以上の設定です


 紅葉の時期もとうに過ぎ、冷たい風が頬を打ち、冬の訪れを実感せずにはいられなくなった頃。
 学生の頃に修学旅行で訪れた京都も、雪は降らなくても凍てつく寒さが私の身体を冷えさせていく。コートを着ていても無意味なくらいで、私の体調が悪いのかと錯覚するくらいだ。

「お疲れですか? 樹里さん」
「ううん、疲れてはいないんだけど、身体が冷えちゃったみたいで」
「ここは海風がありますからね」

 私は寒さで凍えているというのに、弓弦は平然としていて、やっぱり私とは身体の鍛え方が違うのかな、なんて考えていると。

「そろそろ旅館に戻りましょうか」
「ごめんね、弓弦」
「謝らなくて結構ですよ。じゅうぶん歩き回りましたし、今無理をして仕事に支障が出たら本末転倒ですからね」

 弓弦は微笑を湛えながらそう言って、私の肩に回していた手を離し、その手で私の手を握った。

「……樹里さん。そんなに寒いならもっと早く言ってくださいまし」
「えっ、そんなに冷たい?」
「ええ、それはもう。まるで死人のように……」
「ちょっと〜! 冗談きついって!」

 思わず手を放そうとしたけれど、私よりずっと遥かに力のある弓弦は解く気がないらしい。飄々として相変わらず何を考えているのか分からないその表情とは裏腹に、弓弦の手のひらから伝わる熱はあたたかく、私の寒さを癒すには充分だった。



 夢ノ咲学園を卒業してから数年の時が経ち、私達は成人を迎えた。お互いにアイドルとしての道を順調に歩んでいて、久しぶりに同じタイミングでのオフを手に入れた私達は、高校時代の想い出を懐かしむように、修学旅行で訪れた京都に来ている。尤も、紅葉も終わっていて、当時と同じ季節を味わう事は叶わなかったけれど、俗に言う閑散期のお陰で人の目をあまり気にせずに済んだのだった。





「はあ、やっと生き返った〜」
「樹里さん、案外根に持つんですね」
「弓弦ほどじゃないと思うけど」

 旅館の温泉でゆっくりと身体をあたためた後に部屋に戻ると、既に机上には料理が運ばれていて、私より一足早くお風呂から上がっていた弓弦が浴衣姿で待っていた。なんだか、どちらが夫でどちらが妻か分からない状況でもある。

「時間かかっちゃってごめんね。先に食べてて良かったのに」
「大して待っていませんよ。それに、立場が逆だとしたら、樹里さんも絶対先に食べないですよね」
「そうかも。ありがとう、待っててくれて」

 向かい合わせに座れば、手を合わせてお互い同時に「いただきます」と口にして、早速食事に手を付ける事にした。偶然、弓弦と声が重なったけれど、何年も付き合っているせいか、こういう事がよくある。阿吽の呼吸と言うのか分からないけれど、巷のカップルや夫婦はこんな感じなんだろうか。

「……あのう、樹里さん」
「ん?」
「じっと見られると食事し難いのですが……」

 弓弦は私の視線に困ったように眉を下げて笑みを浮かべてみせた。嫌がっているわけではないけれど、純粋に不思議に思っているみたいだ。

「ごめんね、弓弦が綺麗だから見惚れてた」
「それは……褒め言葉と受け取って良いのでしょうか?」
「悪い意味で言うわけないじゃん。箸の使い方とか、食べ方とかすごく綺麗だし」
「ああ、そちらの意味ですか」
「そんな仕草を当たり前のようにする弓弦がすっごく綺麗だなって。浴衣も似合ってるし、弓弦って和服が凄く似合うよね」

 私は当たり前の事を言っている。つもりなのだけれど、弓弦はそうではないらしく、少し恥ずかしそうに頬を染めて視線を落とした。そんな表情も、美しく着こなす浴衣から覗く鎖骨も、男性に対して言う事ではないかも知れないけれど、純粋に色っぽく感じる。
 ……なんて見惚れていたけれど、次の瞬間、弓弦からまさかの指摘を受けた。

「樹里さん、酔ってますね?」
「へ?」

 弓弦が視線を落としたのは、私から目を逸らそうとしたからではない。私達の目の前にある食事の中には、日本酒が添えられていた。勿論、出されたものは口にする。

「酔ってないよ、意識もちゃんとしてるもん」
「顔が赤いですよ」
「お風呂上がりだからだよ」
「まあ、そういう事にしておきましょうか」

 まるで子供の我儘を仕方なく受け容れる親のような物言いに、私は少し納得がいかなかったけれど、酔っていないし堂々としていれば良いのだ。弓弦の所作が美しいのは当たり前の事だし、別に本人に面と向かって都度言う事でもないから口にしないだけで、今日のような特別な日ぐらい、ほんとうの事を言ったって良いだろう。例え長い付き合いであっても、良いところは素直に褒めるのが、恋人というものだと思うし。

 少しぼうっとしていたみたいだ。ふと我に返ると、私の目の前にあった食事一式が、弓弦の隣に移動していた。

「弓弦?」
「樹里さんに凝視されると、わたくし、緊張して食事が出来ませんので……」
「アイドルなんだから慣れてるでしょ」
「相手がお客様と恋人では訳が違います」
「そうかなあ」

 確かに、アイドルとしての自分を見て貰うのと、完全にオフの状態で、それも食事しているところをじっと見られるのは違うし、弓弦に怒られないだけでも有り難いと思わないといけない。久し振りに二人きりでいられるから、調子に乗り過ぎている自覚はある。

「ごめんね、ちゃんと大人しく食べます」
「おや? 急にしおらしくなりましたね」
「調子に乗り過ぎたって思っただけ」

 言葉通り、大人しく弓弦の隣に座って食事を再開した。これだと折角二人きりなのに、一人で食べているのと同じみたいに感じて、ほんの少し不貞腐れてしまった。普段積極的に口にする事はない新鮮な料理の数々のお陰で、食べ終わる頃には機嫌も良くなっていた。我ながら単純だ。

「ごちそうさまでした」

 またしても弓弦と同じタイミングで同じ言葉を口にしたのだけれど、さすがにこれは偶然ではないと気付いた。

「弓弦、私が食べ終わるまで待ってたの?」
「いえ、食後のお酒を嗜んでおりましたので。お気になさらず」
「そう……っていうか私、一口しか飲んでなかったな。私も飲もうっと」

 弓弦が止めるより先に、私は日本酒に口を付けた。お酒が飲めないわけではないけれど、あまり慣れていないから、一気にではなく、ほんの一口。大丈夫そうだと思って、更に一口。

「樹里さん」

 弓弦に肩を抱かれて、私は飲むのをいったん止めて顔を向けた。心配そうな顔で私を覗き込むように見つめる弓弦に、私の顔は一気に熱くなった。

「一気に飲んでは駄目ですよ。もう酔ってるではないですか」
「違うって。弓弦に目の前で見つめられてドキドキしてるの」
「はい、お酒はこの辺にしておきましょうね」

 弓弦は私の手から強引に猪口を取り上げて机上へと置けば、改めて私を見つめて、頬に指を這わせた。

「目も虚ろですし、最初に空きっ腹で飲んだのが拙かったみたいですね」
「いや、だから酔ってないってば」

 意識が朦朧としているわけでもない。少しぼうっとしているのは長風呂だったせいだ。信じてくれない弓弦に対してほんの少し憤りを感じて、なんとか身の潔白を証明しようと、私は弓弦の手を払って立ち上がった。瞬間、

 視界がぐらっと回った。立ち上がっただけなのにめまいを覚えて、よろけそうになって反射的に転ばないよう片足を後ろへやって平衡感覚を保った。

「樹里さん!?」

 即座に弓弦も立ち上がって、息を吐く間もなく私を抱き締めた。さすがに弓弦に全体重を預けるわけにはいかず、私はなんとか顔を上げて笑顔を作った。

「ごめんごめん、ちょっと湯あたりしちゃったみたい」
「湯あたりではないと思いますが……」
「本当だよ、どうして信じてくれないの?」
「普段の樹里さんはこんな甘い声は出しませんからね」

 甘い声、と言われても気のせいだとしか言えない。私はいつもと変わらないし、ちょっとのぼせて具合が悪くなってしまっただけだ。意識はちゃんとある。そう訴えようとしたけれど、足元が覚束なくて、不甲斐ないけど弓弦に掴まったまま、一緒にゆっくりとその場に腰を下ろした。

「酔ってないけど、ちょっと具合悪いみたい。ごめん」
「どうして頑なに認めないんですか?」
「だって、意識はしっかりあるんだよ? 寝て起きても、自分のした事はちゃんと覚えてるよ」

 どうしたら信じてくれるんだろう。弓弦に見惚れてドキドキしてるのだって、当たり前の事で、酔っているせいじゃないのに。
 言葉で分かってくれないなら、行動で示すしかない。
 私は迷わず、弓弦に傾れかかって胸元に手を寄せた。

「樹里さん、酔っていない割には随分と積極的ですね」
「自分の意思でやってるんだよ? 酔った勢いじゃない。折角二人きりで過ごせるんだから、普段出来ないことをしたいと思うのはおかしい?」
「いえ、おかしくはないですが……」

 どうして分かってくれないの、と言いたい気持ちを抑えて、私は弓弦を思い切り抱き締めた。反動で押し倒しそうになってしまったけれど、さすがにそれで倒れるほど弓弦は抜けているわけではなく、優しく抱き留めてくれた。

「ねえ、弓弦。私も本当は桃李くんみたいに甘えたいんだよ。桃李くんも今ではもう一人で立派にやっているけど……夢ノ咲で出会った頃の時みたいに、私だってあんな風に甘えたかったんだよ」

 だから、今、甘えたい。私が桃李くんのような存在になれるとは思っていない。弓弦にとっての桃李くんは世界で一番大切な存在で、それを超える事は誰にも出来ない。でも、ほんの少しでいいから、私にも甘える隙を与えて欲しい。ずっと、そうしたかったんだ。

「そう仰って頂ければ、わたくし、いくらでも尽くしたのですけれど……いえ、立場上それが出来るわけがありませんでしたね。お互いに大人になった今だからこそ、言える事なのでしょうね」

 弓弦は私の子供じみた我儘を叱咤も拒否もせず、片手で私の髪を撫でて優しく囁いた。受け容れてくれたのだと思った瞬間、幸福感で満たされて、泣き出しそうになりそうな感覚を覚えた。

「ありがとう、弓弦。でも、今のはただの我儘だから。ちょっと言ってみただけ。受け容れてくれただけでじゅうぶんだから」
「いえ、樹里さんの願いは我儘とは言いませんよ。今のわたくしならば、いくらでも、簡単に叶えて差し上げますから」

 抱き合っていた腕を緩めて、互いに顔を見合わせれば、弓弦は優しい笑みを浮かべていた。嘘じゃない、心からの言葉だ。私も自然と笑みが零れて、じゃあ早速弓弦の言葉に甘えようと、猫のようにじゃれついてみせた。

 ――刹那、部屋の襖が開け放たれた。

 襖の向こうでは、夕食の料理を下げに来た仲居さんが私たちを見て気まずそうに笑みを浮かべていた。

「大変失礼致しました、また改めて参りますので……」
「いえ、お構いなく。ご馳走様でした」

 弓弦が仲居さんにきっぱりとそう告げて、私がぼうっとしている間に食器類はあっという間に片付けられ、手際良く布団が敷かれた。

 仲居さんが部屋を後にして、再び部屋に静寂が訪れるや否や、弓弦は至って平然とした表情で私をあやすように撫でながら言った。

「では、続きを致しましょうか」

 その後の事は……覚えていない。そのまま寝てしまったのか、記憶がないだけなのか。私だけが先に寝てしまったのか、二人してそのまま寝落ちたのか。
 翌朝の私が覚えていたのは、この記憶を失う前までの事すべてであった。





「弓弦!! あの、昨日の事、覚えてる?」
「ええ」
「なんか、私……変な事言ってなかった?」
「変な事は仰られていませんよ。坊ちゃまみたいに甘えたい〜などと可愛らしい事を仰られていましたが」
「それ!! 忘れて!!」

 いっそ昨日起こったすべての出来事の記憶を失えたら、どれほど良かったか。いくらお酒のせいとはいえ、恥ずかしい台詞、恥ずかしい行動、挙句の果てに仲居さんに一部見られていたなんて。ちなみにこの旅館は、弓弦と私が一緒にいても外部に漏れることのないよう、英智さまの息がかかった場所だ。
 つまり、下手をしたら英智さまに伝わってしまう可能性がある。例え外部に漏れはしなくても、英智さまは外部ではなく内部の人間なのだから。

「樹里さんが昨夜のわたくしの台詞も忘れてくださるのなら、わたくしもなかった事に致しますが……」
「弓弦は別に変な事言ってないじゃん」
「忘れていらっしゃるなら何よりです」
「えっ!? 何それ! ずるい〜!」

 どうやら弓弦もお酒の勢いか恥ずかしい事を言っていたらしいのだけれど、きっと私の記憶が飛んだ後なのだろう。私がその台詞を知る事は不可能で、だからこそ自分の失態が恥ずかしくて、ただただ頬を染めるしかないのだった。

2019/12/28



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