Onyx Night



「だからって、なんで樹里はあんな奴らの手助けをしてるわけ? 『流星隊』なんてボクらの敵だったのにさぁ」
「敵『だった』でしょ? 今は敵じゃないんだし」

 ある日の生徒会室にて。主のぼやきを笑顔でやんわりと諭す彼女を見て、随分と成長したものだと感心してしまった。己は彼女の保護者でも従者でも何でもないのだから、こんな事を考えてしまうのは彼女に対して失礼ではあるのだが。

 恐らくは、『成長』と称するというより、今の姿が本来の彼女であり、この学院に慣れて来た証拠でもあるのだろう。

「流星隊のドリフェスが成功したからといって、fineの実績や人気がなくなるわけじゃないしね」

 生徒会の仕事に勤しむ主たちとは少し離れた場所で、紅茶を淹れながらそう話す彼女に、生徒会長が援護するように口を挟んだ。

「樹里ちゃんの言う通りだよ、可愛い桃李。互いに切磋琢磨してこそ、僕たちは更なる高みに上れるのだからね。ライバルは多いに越したことはない」
「うう〜、会長がそう言うなら……」

 生徒会長の言葉に、主は渋々納得した。DDDで苦渋を味わった経験がある以上、主がTrickstarをはじめとする生徒会に仇なす面々に対して、今でも思うところがあるのは重々承知している。だが、彼女とて我が校のプロデューサーである。分け隔てなく様々な立場の生徒と上手くやっていかなければならないのだ。

「桃李くん、お茶でも飲んで機嫌直して、ね?」
「うむ、良い心掛けだぞ奴隷!」

 淹れたての紅茶を各生徒会メンバーに配りながらそう告げる彼女に、主は椅子の上で踏ん反り返りながらころっと態度を変えた。

「坊ちゃま。樹里さんは奴隷ではないと何度申し上げれば……」
「このボクの奴隷になれるなんて、樹里の人生にとって物凄く名誉なことでしょ? ね、樹里?」
「あはは、そうかも」
「樹里さんも坊ちゃまを甘やかさないでくださいまし」

 ことり、と乾いた音を立てて、己の席にも彼女が淹れたあたたかい紅茶が置かれる。
 暦も六月に変わり、制服も夏服へと切り替わりつつあったが、夏と称するにはまだ早いこの時期の放課後は、温かい飲み物が恋しく感じる。

「ありがとうございます、樹里さん」
「まあ、伏見みたいなプロが作るわけじゃないから、味の保証は出来ないけど」
「わたくしも別にプロではないのですが……」

 そもそも紅茶など、基礎さえ抑えていれば誰でも美味しく作れるものだ。彼女も行き過ぎた謙遜をする必要はないのだが。

「ちょっと〜、ボクが一番最後ってどういうこと!? 会長の次に持って来てよね?」
「桃李くんは特別だから最後だよ」
「え?」

 自分が後回しにされたことで機嫌を損ねた主だったが、彼女が机上に置いた紅茶を見て、目を丸くした。
 ティーカップが二つあったからだ。

「え? え?」
「これ、どちらかひとつは伏見が淹れた紅茶」
「まさか」
「この二つの紅茶、どちらが私が淹れた紅茶でしょうか」

 屈託のない笑みを湛える彼女の問いに、主は苦悶の表情で「うぐ」と唸り声を上げた。

「どうされました? 坊ちゃま。幼少の頃からの付き人であるわたくしが丹精込めて淹れた紅茶と、まだ出会って二ヶ月の樹里さんが淹れた紅茶。まさか区別が付かないなんてことはないと存じますが……」
「ほら〜! 弓弦がこうやって意地悪言うから嫌なんだよ〜! 樹里のバカ! なんでこいつの口車に乗ったんだよ〜!」

 しまいには涙声を上げる主に、彼女は「余計なこと言わないでよ」とでも言いたげに、困った顔でこちらへ目配せをした。今も、というより以前より更に、彼女は主にはめっぽう甘くなった。
 生憎、我が主はこの程度で参るような甘ったれた性分ではなく、己もやわな育て方はしていない。

「樹里さん。この泣き顔に騙されないでくださいまし」
「おい弓弦! おまえ、ご主人様に向かってなんて事を言うんだ〜!! 調子に乗るなよ!!」

 主はそう叫ぶと、投げナイフのごとく己に向かってペンを振り投げた。主の傍にいた彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げたが、こんな事は日常茶飯事である。己の眼前に迫るペン先を一瞬見遣れば、寸分の狂いもなくそれを掴み止めた。

「伏見、大丈夫!?」

 とはいえ、初めてこの光景を見る者にとっては驚愕しても仕方ないことなのだろう。彼女が血相を変えてこちらに駆けて来た。

「ええ。この通り傷一つ付いていません。お気遣いありがとうございます」
「本当に? ならいいけど……もう、桃李くん! やりすぎだよ」

 彼女はくるりと身体の向きを変えれば、主に向かって声を上げた。怒っているというより、困惑している声色だ。やはり彼女は主には甘い。甘すぎる。

「はあ? 樹里、そいつの方持つわけ? この可愛いボクよりも?」
「そうじゃなくって、暴力は反対だよ」
「弓弦が口で言って聞くようなヤツじゃないことは、樹里も分かってるよね?」
「いや、まあ……そうですね、はい」

 己の日頃の行いが仇になってしまったか。彼女はあっさりと主の言葉に頷いた。

「桃李くん、私も意地悪しちゃってごめんね。私が淹れた紅茶は……」
「……樹里?」
「あれ、どっちだっけ」
「も〜! 樹里!」

 彼女の抜けっぷりに主は呆れ、そして生徒会室内は笑いに包まれた。

「おいおい遠矢、綺麗に纏めようとしたのにそこでボケるかよ〜」
「衣更くん、うるさい」
「遠矢、疲れているのなら少し休め」
「いえ、決して疲れてはいません副会長……」
「樹里ちゃんが元からお惚けキャラっていうだけだよね?」
「ひ、ひどいです会長〜!!」

 ころころと表情を変える彼女を見ていると、なんだか肩の力が抜けて、自然と笑みが零れそうになるから不思議だ。否、決して小馬鹿にしているわけではないのだが、彼女に今の己の顔を見られたら、小馬鹿にしていると思われそうである。
 とりあえず、彼女に助け舟を出そう。元はと言えば、二人それぞれ主の為に紅茶を淹れ、どちらがどちらの紅茶か当てて貰おうなどと下らない提案をしたのは、己である。

「坊ちゃま、大丈夫ですよ。いつもの隠し味を入れている方がわたくしの淹れた紅茶です」
「あ、そっか」

 さらりとねたばらしをすると、主ははっと目を見開けば、机上にふたつ置かれたティーカップを交互に見遣り、それぞれに口を付けて飲み比べる。
 そして、己が淹れた紅茶を手前に引き寄せた。

「もう、本当に焦ったよ。間違えたら弓弦にまた何言われるか分かんないもん」
「『また』とは聞き捨てならない言葉ですね」
「いつもボクのこと虐めてるだろ!? 奴隷の分際で!」
「虐めてもいませんし奴隷でもありません」

 はあ、とひとつ溜息を吐けば、ふと視線を感じてその方向へ振り返ると、彼女と視線が合った。何か言いたいことがあるのは間違いないが、こちらを見つめるばかりで一向に口を開かない。彼女らしくない。ここでは言い難い話なのだろうか。

「樹里、『隠し味』が気になるんでしょ?」

 主がにんまりと笑みを浮かべてそう言うと、彼女は恥ずかしそうに視線を地に落として、こくりと頷いた。

「簡単だよ、飲めばわかるから。おいで、樹里」

 主に手招きされて移動するそのさまは、まるで猫のようだ。奴隷と称するよりも、まるで飼い主とペットのようである。こんな事を考えていると彼女に知られたら、二度と口を利いてくれなさそうなので、余計な事は言わず黙っておこう。

「あ、これって蜂蜜?」
「そう! ボク、紅茶に蜂蜜入れるの大好きなんだ」
「優しい味だね、疲れが一気に取れる感じする」

 見れば、彼女は主に勧められて、己が淹れた紅茶を口にして微笑んでいた。目を細めてゆっくりと味わうその様子を見る限り、彼女の言葉通り、その味は日頃の疲れを癒すに値するものであったようだ。
 今度、多忙な彼女の為に、アイスティーにして作り置きでもしておこうか――などと気を回していた瞬間。
 今目の前の光景が、決して看過出来ないことに気付いた。

「あの、樹里さん」
「ん? あ、伏見。これすごく美味しいね! さすがだよね、桃李くんの為を想って――あ」

 彼女は突然硬直した。己は決して彼女を咎めたいわけではない。飲むのを勧めたのは主であり、彼女はそれに従っただけである。

「あの。伏見。ごめん。私また、勝手に桃李くんのものに口付けちゃったね……」
「いえ、樹里さんが謝ることではございません」
「じゃあなんで怒ってるわけ!?」
「怒っていません」
「じゅうぶん怒ってるって! もう、ごめんってば!」

 飲みかけのティーカップを慌てて机上に置けば、今にも泣きそうな顔で口だけの謝罪を述べる彼女。何やら勘違いしているようなので、ここは問題点をはっきりと言っておこう。同じことをまたやらかされたら、主の教育に悪すぎる。

「わたくしが申し上げたいのは、坊ちゃまの飲食物を口にしたことについてではありません」
「じゃあ何なんだよ」

 彼女の代わりに主が、憮然とした態度で訊ねてきた。全く、主も彼女も無頓着すぎる。

「間接キスですよね、今の」
「あ」

 そう指摘すると、彼女と主は同時に呆けた声を出した。けれども、二人とも特段照れたり気まずい雰囲気になる様子はない。

「ごめんね、桃李くん。私全然気にしてなかった……今度から気を付けるね」
「ううん、ボクも気にしてなかったし、飲ませたのはボクの方だから。ごめんね、樹里」

 これにて一件落着――かと思いきや、妙な視線を感じる。ふと周囲を見回せば、生徒会のメンバー全員の視線が己へと向いていた。

「……わたくし、何かおかしなことを言いましたでしょうか」

 過去に彼女の食べかけのパフェを処理した経験のある衣更真緒が、気まずそうに目を逸らすのは分かるのだが(尤も彼のことは咎めてはいないし、己が咎める理由もないのだが)副会長は純粋に驚いて、生徒会長はそれに加えて面白そうに瞳を輝かせている。

「いいや。何もおかしなことはないよ、弓弦」

 生徒会長はそう告げたものの、それが本心なのかは、彼の微笑からは判断することが出来なかった。





 気付けばこの学院に転入してから二ヶ月もの時が過ぎていた。為すべきことは淡々とこなして来たが、学院生活に慣れたことで、今まで見えなかったものも見えるようになった。
 特に遠矢樹里に特化して言うならば、彼女も己と同様学院生活に慣れ、精神的に余裕が出来た結果、時間を有効的に使う術を覚えたのは、目に見えて分かる変化であった。業務を効率化することで出来ることが増え、積極的に様々なプロデュース業を行っており、その評判は上々である。

 だが、業務が増えるという事は、比例して負担も増えるという事である。今は上手くいっていても、自転車操業のようになった結果、体を壊しては元も子もない。余計なお世話なのは重々承知しているのだが、それでも気に掛かる。切欠はどうであれ、彼女と深く関わっているせいだろうか。所詮は他人事なのだが、どうにも放っておけないのだ。



「樹里さん」

 陽もすっかり落ちて外は既に黒の闇に包まれる夜。自主的なレッスン等で残っている生徒もまばらな時間帯だというのに、彼女は今日もプロデュース業で残っているようだった。廊下でその後姿を見掛けた瞬間、反射的に彼女の名前を口にしていた。
 ぴくりと肩を震わせた後、振り返って己へ顔を向けた彼女の表情は、ごく自然な笑顔であった。

「お疲れ、伏見」
「樹里さんこそお疲れでしょう。この時間までプロデュースを?」
「それもあるけど、ほら、流星隊のドリフェスが迫ってるでしょ? それの下準備や生徒会との橋渡しとか、いろいろと雑務がね。あんずちゃんがびっちりレッスンを見てくれてるから、私は裏で暗躍するって感じ?」

 彼女はつらつらと現状報告をしつつ、最後にはあ、と溜息を吐いた。とはいえ笑みはそのままで、単純な疲れから出たものだろう。逆に多忙を楽しんでいるようにも見えた。

「日々樹さまじゃありませんけれど、樹里さん、なんだか本当に妖精さんみたいですね」
「は?」

 悪い意味で言ったわけではないのだが、ふと思ったことを何の気もなしに告げれば、彼女は一気に表情を曇らせた。

「どうせ可愛くないヤツ想像してるんでしょ」
「そんな事はありません、可愛い妖精さんですよ」
「嘘ばっかり」

 本当に悪い意味で言ったわけではなく、寧ろ褒めたつもりだったのだが、己の日頃の行いのせいか彼女は聞く耳を持たず、ぷいとそっぽを向いて歩き始めてしまった。

「樹里さん、まだお仕事ですか?」
「帰る」
「送りますよ」

 無意識にそんな言葉が口を衝いて出たものの、彼女は聞こえなかったのか、あえて無視しているのか、早歩きの足を止める気はない。とはいえ、彼女に追い付けないほど己は軟弱な体ではない。追い付くどころか彼女を追い越すことは容易いが、それを実行したらますます反感を買うだけなので、歩幅を調整して彼女の後をついて行った。



「――あのさあ」
「はい」
「どこまでついて来るわけ?」

 玄関口で、靴を履き替えた彼女は振り返って、漸く己を視界に入れてくれた。どうやら後をつけている事には気付いていたようだ。

「樹里さんのご自宅まで」
「は!? なんで!?」
「送りますと言いましたが、聞こえませんでしたか? 否定をしないという事は、肯定だと受け取りましたが」
「肯定してないんだけど!? ついて来ていいなんて一言も言ってない!」

 彼女は己に人差し指を向ければ、怒った顔で断固拒否してみせた。さすがにここまで冷たい態度を取られると、悲しい――と称すより、腸が煮えくり返りそうである。

「わたくし、顔見知りの女性が夜道を一人で帰ろうとしているのを心配しない程、冷徹ではないのですけれど」
「は? 大袈裟」
「大袈裟ではありません。今まではてっきり親御さまがお迎えに上がっているのかと思っておりましたが、樹里さんが徒歩で通学している情報が入ってくるようになり……危険な夜道を歩いて帰らなければならないのなら、こんな遅い時間まで残らなくても良いように配分を考えるのも、プロデューサーさまとしての大事な仕事の一つなのでは?」
「は!? なんで説教されなきゃいけないわけ!?」

 怒涛の勢いで小言を言うと、彼女は最初は呆気に取られていたものの、己の伝えた内容を理解したのか、怒り顔は徐々に消沈していき、しまいにはしゅんと項垂れてしまった。

「……分かってるよ。こんな時間まで残るのは要領が悪い証拠だって」
「そこまで落ち込まれると、まるでわたくしが悪いみたいな感じなので、元気な樹里さんに戻って欲しいのですが……」
「元気なくしたの誰のせいだと思ってるの。本当のことだから何も言い返せないけど」
「いえ、要領が悪いとは言っていませんよ。業務量が多すぎるのではないですか? なんでも自分で抱え込まないで、使えるものは使った方がいいですよ。生徒会とか」

 ごくごく普通の一般論を述べたつもりだったが、彼女は顔を上げて酷く驚いた顔をしてみせた。

「まるで生徒会の人達を利用する、みたいな言い方だね」
「利用していいと、会長さまも仰っておりましたので」
「そうは言っても建前ってものがあるじゃん……」
「そうやって『良い子』ぶっていたら、逆に利用されちゃいますよ」

 彼女は困ったように眉を下げれば、視線を空へ漂わせ、何やら考えている素振りを見せた。

「樹里さん?」
「あ、ああ、ごめん。ぼうっとしてた」
「やはりお疲れですね。わたくしが付き添うのが嫌でしたら、タクシーをお呼びします」
「いや、大丈夫だって。家、近いから。それよりも」

 彼女はゆるりと首を横に振れば、ジト目で己を見上げて来た。無言の批判と捉えるのが正しい判断だろうか。

「桃李くんは? 放っておいていいの?」
「坊ちゃまは……最近は日々樹さまが付きっ切りで指導されているのです」
「へえ、意外」
「勿論、日々樹さまに坊ちゃまを任せきりにするわけにはいきませんので、わたくしも極力坊ちゃまを監視出来るようには致しますけれど」

 笑みを作ってそう言うと、彼女は遠い目をして肩で溜息を吐いた。「桃李くん、可哀想」とでも思っているのだろう。口にしなくてもその表情、態度で分かる。

「という訳で、わたくしも少々手持ち無沙汰だったりするんです。樹里さんさえ良ければ、今後ご自宅までお送り致しますよ。それこそ、近所でしたら時間も取りませんし」
「うーん……」

 煮え切らない態度だ。例え学院から自宅まで徒歩で通える程近いといっても、その間に何が起こるかわからない。彼女も自分が女性であるという事を自覚して欲しいのだが。ましてや、過去の経歴を考えれば尚更である。もっと自分を大事にすべきだ。何かあってからでは遅いのだから。

「……考えとく」
「即答ではないんですね」
「あのさあ、伏見はアイドルなんだよ? 『fine』っていう看板を背負うひとりなんだから、女と歩いてたら色々と誤解されるでしょ」

 ――全く思いもよらない答えが返ってきた。てっきり己のことをウザいだの関わりたくないなどと思っているかと思ったが、どうやら、杞憂だったようだ。流石は元アイドル候補生、というところか、リスクというものを理解している。

「ですが、そこまでお気になさらなくても大丈夫ですよ」
「へ?」
「樹里さんは『プロデューサー』です。アイドルとプロデューサーが一緒に行動していても、疚しいことなど何もないじゃないですか」
「ま、まあ、確かにそうなんだけど……」

 お互いに邪な感情などないのだから、堂々としていれば良いだけの話だ。若輩者である己がそういう噂の対象になるとは考え難いが、仮に噂が立ったとしても、何もないのだから堂々と否定するまでである。
 リスクを気にするのは理解できるが、あまりにも気にし過ぎではないだろうか。ここは少し彼女をからかってみようか。

「それともまさか、変な噂が立つような感情を、わたくしに対してお持ちでいらっしゃる……という事でしょうか?」
「――は!?」

 数秒して、彼女は素っ頓狂な声を上げた。己の言わんとすることを理解するまでにタイムラグが生じたのか、それとも即理解した後に思考が停止したのか。どちらかは分からないが、また暫くして、彼女の顔が一気に紅潮した。

「なっななっ、なんで、私が伏見を!?」
「『私が伏見を』、なんですか?」
「すっ、す、好きって言いたいんでしょ……?」
「はい」
「違う! そういうのじゃないから!」
「『そういうの』とは……?」
「分かってるくせに! 馬鹿〜!」

 彼女は顔を真っ赤にして、可愛らしい声でいつもの罵倒の言葉を口にすれば、背を向けて全速力で走って行ってしまった。

「樹里さ〜ん! 焦って走るとまた転びますよ〜!」
「うるさ〜い!!」

 遠ざかる背に向かって声を掛けると、彼女の叫び、というより嘆きの声が、夜の闇に溶けていった。ついいつもの癖でからかってしまったが、やはり彼女の業務量を考えると心配なことに変わりはなかった。要領良くこなしていることが仇になり、「まだ出来る」「もっと出来るはず」と自分を追い込んでしまっているのではないだろうか。
 仮定の話だが、疲労のあまり夜に道端で倒れたりでもしたら、取り返しのつかないことになりかねない。これからは無理にでも、嫌な顔をされてでも、付き添った方が良いのではないか。さすがに立ち入り過ぎだと頭では分かってはいても、それでも彼女を支えたいと思ってしまうあたり、変な噂が立つような感情を抱いているのは、寧ろ己の方なのかも知れない。

2018/09/21


[ 33/39 ]

[*prev] [next#]
[back]
- ナノ -