She Is Gone to the Sky



 サーカスという大舞台が終わり、一先ず肩の荷が下りてしばらくは淡々とした日常生活を送るものだと思っていたが、思いの外退屈はしなかった。そう思うのも、理由は何であれ彼女の存在が大きくなっていたからだ。理由は何であれ。

「遠矢先輩〜!」
「遠矢先輩! おはようございます!」
「樹里ちゃん先輩っ、おはようございまーすっ!」
「おはよー……って、天満くん! 下の名前で呼ばないのっ!」

 主と共に送迎車を降り、学院の門をくぐるや否や、一年生の生徒たちと何やら言い合っている彼女の姿が視界に入った。

「ねえ弓弦。樹里、すっかり人気者だね〜」
「あれは……『Ra*bits』のメンバーですね。まあ、人気者というより普通に挨拶をしているだけに見えますけれど」

 何気なく呟いたであろう主の言葉をやんわりと否定しつつ、校舎へと歩を進める。ちょうど進行方向に彼女たちがいるので、会話の邪魔にならないよう、多少は配慮しなければならない。
 己たちが傍にいることが、彼女の交友関係の拡大を邪魔してしまう可能性があるからだ。サーカスの大成功によって彼女の評価は上がり、より多くの生徒に慕われるようになったのだ。反生徒会側にいて、DDDが終わった後も彼女を懐疑的な目で見ていた生徒もだ。

 彼女がfineの為に奔走してくれたこと、彼女にとってfineというユニット自体が特別な存在になっていることは分かってはいるが、来年度のプロデュース科の正式な設立の為に、いよいよ本格的に多くのユニットのプロデュースを手掛けていかなければならない。生徒会が弱体化した今、副会長が彼女を手元に置いておきたい気持ちも分からなくはないが、いつまでも生徒会が囲っていたら彼女の成長を妨げることにもなりかねない。

 彼女が生徒会に反旗を翻すことはまずないと、これまでの彼女の為人を見てきた結果、断言できる。だからこそ、生徒会に従順な彼女をあえて巣立たせ、多くのユニットに関わらせるようにしていけば、彼女は自分の意思で自由に行動していると反生徒会の人間にも分からせることが出来る。結果、生徒会のイメージ回復にも繋がる。

 とはいえ、この持論を副会長に展開するのは時期尚早である。今、己に出来ることと言えば、彼女を陰から見守ることであろう。

「樹里ちゃん先輩って呼んだらダメなんだぜ? じゃあ、樹里のね〜ちゃん!」
「かえって悪化してない!? もう、仁兎先輩も見てないでなんとか言ってください!」
「まあまあ、樹里ちん。下の名前の方が親しみがあっていいだろ?」
「仁兎先輩まで! ダメですよ、アイドルとプロデューサーたるもの、もう少し距離感というものを……」
「ん? 桃ちん、弓弦ちん、おはよう!」

 陰から見守ろうと思ったのも束の間、Ra*bitsのリーダー、仁兎なずなにあっさりと見つかってしまった。笑顔で大きく手を振られては、無視するわけにはいかない。

「仁兎先輩、おはようございます。ほら、坊ちゃまもご挨拶を……」
「樹里〜!」

 先輩の言葉も己の言葉も聞きもせず、主は真っ先に彼女の元へ駆けて行った。

「桃李くん、おはよう」
「樹里は今日も早いんだね。さすがボクの奴隷だ! 偉いぞ!」

 彼女の登校が毎朝早いことと、彼女を奴隷と称することは何の繋がりもないと思うのだが。彼女も彼女で、主の褒め言葉にデレデレとだらしない顔をしている。
 というか、サーカスが終わったことで二人のこじれた仲が元に戻ったのは良かったが、それどころか二人の距離が更に縮まった気がしないでもない。

「樹里さん、おはようございます」
「あ、おはよ、伏見」
「差し出がましいことを言いますけれど。樹里さん、先ほど仁兎先輩に言い放ったお言葉、今一度思い返してみてはどうでしょうか」
「は?」
「『アイドルとプロデューサーたるもの、もう少し距離感というものを』――お持ちになられた方がよろしいのでは?」

 きっぱりとそう言い放てば、彼女から主を引き剥がした。当然、彼女は非難の視線を己へ向け、主からも不満の声があがった。

「弓弦、おまえ何怒ってるの? 別にいいでしょ、樹里にとってボクは特別なんだから」
「それなら、先ほど樹里さんがRa*bitsの皆さまに言ったことは『嘘』になりますね。坊ちゃまだけ特別扱いするなど、プロデューサーとして信用問題に関わるのではないでしょうか」
「まあまあ、弓弦ちん」

 Ra*bitsのリーダーであり、己より一学年上で先輩にあたる仁兎なずなが宥めるように間に入って、我に返った。
 人前で怒るほどのことではない。後で釘を刺せば良いだけの話なのに。一体己はどうしてしまったのか。一先ず、彼女の前に立ち軽く頭を下げた。

「申し訳ありません、樹里さん。言い過ぎてしまいました」
「いや、まあ、言われてみればその通りだから……私もちょっと身の振り方を考えないとね」

 切り替えの早さは彼女の美点と言えよう。引きずることも時にはあるが、基本的には素直である。だからこそ可愛がられもするが、この先、舐められることもあるのではないだろうか。

「じゃあ、『距離感』ってものを持たないといけないなら、ボクは樹里のこと樹里って呼んじゃダメなの? 『遠矢センパイ』じゃないとダメなの?」
「ううっ」

 早速主の上目遣いの可愛らしい攻撃を食らい、彼女の決意が揺らいでいる。訂正しよう、素直というより『流されやすい』と称した方がより正確である。

「お互いに敬意を払っていれば、呼び方なんて関係ないと思うぞ? おれは樹里ちんのこと、プロデューサーとして頼りにしてる」
「に、仁兎先輩にそう言われると……」

 彼女が俗に言う可愛らしい顔の造りをした人物に弱いのは知っている。ましてや相手が年上であれば、もう何も言えないだろう。

「じゃあ俺、これからも樹里ちゃん先輩って呼ぶぜ〜!」
「あの、ぼくも樹里先輩って呼んでいいですか……?」
「あっ、じゃあ俺も……! 樹里先輩っ!」
「ちょ、ちょっと〜! も、もう……好きにして〜」

 一年生の生徒たちに笑顔でそんなことを言われるものだから、彼女は顔を真っ赤にして、逃げるようにこの場を後にしてしまった。

「おまえら、あんまり樹里ちんを困らせるなよ〜? 先輩なんだからな」
「ごめんなさい、に〜ちゃん。でも、樹里先輩ってなんだか小動物みたいで可愛らしくて……」
「樹里ちゃん先輩もうさぎさんみたいなんだぜ〜、ぴょんぴょんっ」

 彼らに悪気はないのだろうが、本人が聞いたらショックで卒倒しそうである。この件は黙っていた方が彼女の為か。

「最初の頃は生徒会が傍にいたせいか、近寄りがたいイメージだったけど、今は親しみやすい感じだよな」
「そうですね、いつも笑顔で優しくて、ぼくたちみたいな半人前にも手を差し伸べてくれて……」

 今の真白友也と紫之創の会話で、己の意思が正しいことが証明された。反生徒会側にいた生徒たちにとって、彼女のイメージが確実に良い方向へ変わっているのなら、尚更生徒会が囲わない方が良い。やはり副会長にそれとなく告げてみるか――

「――これもきっと、伏見先輩のお陰ですね」
「は?」
「ひえっ」

 紫之創から突然己の名前が出て、つい疑問の声が漏れた。まさか己が突然口を挟むと思わなかったのか、彼はびくりと肩を震わせて若干怯えがちな目でこちらを見上げている。

「いえ、何故わたくしの名前が出たのかと思いまして」
「あっあの、伏見先輩が樹里先輩をサポートしていると聞いたので……」
「弓弦ちん、別に驚くことじゃないだろ? 二人は同じクラスなんだし、転入生同士仲良くやってるって噂だぞ」

 仁兎なずなの言葉で、周囲から見た己と彼女の関係が他とは違うことを、改めて実感できた。当たり前だが、色恋沙汰ではなく、あくまで近しい存在というだけの話である。

「ていうか、ボクのお陰でもあるんだけど〜? 樹里が転入したばかりで右も左も分からなかった時から、ボクをはじめとするfineの皆が面倒見てあげてたんだからね」
「そういや、『フラワーフェス』の時に交友を深めたって、渉ちんが言ってたな。桃ちん、偉いぞ〜」
「ちょっ、部長だからって、おい! 撫でるな〜!」

 仁兎なずなと我が主は、テニス部の先輩・後輩の関係でもある。折角己が整えてやった髪が、先輩の撫で回す手によって乱れていくのが歯痒いが、先日のサーカスで大神晃牙に釘を刺されたばかりである。主の成長の為にも、余計な口出しは控えていかなければ。





「ふむ、敢えて遠矢を放任した方が生徒会にとってプラスになる、か……」
「はい。仮に反生徒会側の人間が樹里さんを囲おうと、彼女の生徒会への忠誠心がなくなることは有り得ません」

 早速、放課後の部活で蓮巳敬人に話を切り出してみると、可否の回答はせず、少し考え込む仕草を見せた。さすがに二つ返事で了承するとは思っておらず、想定範囲内ではあった。
 しかし、己たちの会話が聞こえていた朱桜司がこちらへ駆け寄って来て、話は一気に逸れることとなってしまった。

「あの、蓮巳先輩」
「何だ、朱桜」
「ずっと気になっていたのですが……何故蓮巳先輩、というか生徒会は、遠矢先輩をそこまで気に掛けているのでしょうか」

 蓮巳敬人のシナリオを把握している天祥院英智、そして後々すべてを知った己以外の人間にしてみたら、当たり前に湧く疑問である。
 大前提として、蓮巳敬人が彼女を生徒会側に引き入れたいと言い出した理由は、一部の人間しか知らないのだ。生徒会の内部でも、朱桜司と同じ疑問を抱いている生徒もいるだろう。

「言い難ければ結構です。私は生徒会とは無関係ですから。ただ、遠矢先輩を弓道部にまで引き入れるのは些かstrange……いえ、doubt……あ、決して遠矢先輩が嫌なわけではないのですが」

 遠慮してはいるものの、知りたくて仕方ないと顔に出ている。しかし、蓮巳敬人の顔をちらりと見ると、溜息を吐きつつも嫌そうな素振りはなく、むしろ笑みを浮かべてさえいた。朱桜司はシナリオの一部分を知るに足り得る存在だと認められたようである。

「英智を慕っている貴様にならば、話しても構わんだろう」
「よろしいのですか!?」
「他言無用だ。とはいえ、一部で噂になっていて、最早言論統制も意味を成してないんだがな」

 今度は、恐らく悪い意味で溜息を吐いてみせた。彼の言わんとすることは分かる。
 遠矢樹里の過去を知る者が、教師および生徒会の一部の人間以外にも既に存在しているのだ。
 今のところ特に問題は起こってはいないが、周知の事実となったら彼女にとってどう転ぶか、分からない情報ではある。

「私たちだけのsecretですね。心苦しいですが、Knightsの先輩たちにも話さないように徹底致します」
「そうして貰えると助かる」

 実質幽霊部員とはいえ、隠し事をしながら付き合うよりは、ある程度分かっている方が、何かあった時にこの弓道部が彼女の心の拠り所となり得る。
 今後仮に何らかのアクシデントが生じた際に、彼女の心が不安定になることが有り得る以上、やはり生徒会が目を光らせていた方が、何かと安心かも知れない。

「伏見。朱桜に話しても構わないか?」
「はい?」
「随分と難しい顔をしていたぞ。遠矢に一番近しく、一番理解しているのは貴様だ。だからこそ、貴様の意向に従おうと思うが」
「いえ、わたくしも構いません。朱桜さまは会長さまとも親交があり、樹里さんも朱桜さまのことをいたく気に入っているようですし」
「えっ、何を仰られているのですか、伏見先輩!?」

 そう、彼女がデレデレとだらしない顔をする対象は、我が主やRa*bitsの面々だけに留まらず、この朱桜司に対しても若干その傾向が見られる。それこそ彼にも色々と把握して貰い、味方になって貰うほうが彼女としても有り難いことだろう。己のような口煩い男が傍に付いているよりも、彼女にとってはずっといいに違いない。





「遠矢先輩もかつてidol候補生……私たちと同じ立場だったのですね」
「とはいえ、前の学校で色々あり、今はもうこの学院で既に新たな道を歩んでいる。プロデュース業にこれまでの経験を活かせるとはいえ、過去を掘り返すのは些か配慮に欠けるだろう」
「そうですね、こちらから話を振るのは控えます。……ですが」

 彼女の過去を知ったからといって、疑問が晴れるわけではない。

「元々そういう世界にいたからといって、それが遠矢先輩を特別視する理由にはなりませんよね? 寧ろますますmysteriousに……」
「蓮巳さま、一を聞いて十を知るのはさすがに難しいかと思いますよ。わたくしも初めは、蓮巳さまの言うことに間違いはないと思って行動しておりましたけれど、結局のところ、具体的な話を聞くまではそこまで樹里さんに利用価値があるとは思いませんでしたから」

『利用価値』という単語が引っ掛かったのか、朱桜司が驚いたように目を見開いてこちらを見て来た。とはいえ、間違ったことは言っていない。寧ろ、それこそが答えである。

「うむ、伏見の言う通りだな。というか、貴様にも端的なことしか言わず、かえって手間を掛けさせてしまい申し訳ないことをした」
「いえ、わたくしが手こずったのは、元々樹里さんと色々あったからですし、蓮巳さまのせいではありません」

 朱桜司の視線が突き刺さる。悪い意味ではなく、興味津々といったばかりに瞳を輝かせながら、己たちの会話に耳を傾けているのだ。
 蓮巳敬人もその視線に気付き、咳払いをひとつすれば、朱桜司に視線を戻して語り始めた。

「遠矢は前の学校では、俗に言う『特待生』だった。この世界は案外狭いものでな、実は彼女を知る関係者も少なからずいる」
「ええっ、遠矢先輩ってそんなに凄い人だったのですか!?」
「遠矢が……というより、それだけ業界で評価の高い学校にいたということだ。ドロップアウトしたものの、新たな道を歩み始めた遠矢を気に掛け、注目している関係者もいる」
「ああ、段々分かってきました」

 朱桜司の視線がちらりと、己へと向く。

「つまり遠矢先輩は、業界への有力なコネクションをお持ちなんですね」
「ええ。しかし樹里さんは自己評価が著しく低いですからね。ご自身が校外の人間からそう思われているなど、夢にも思っていないでしょうね」
「なるほど……」

 つい口を挟んでしまったが、語り手は己ではない。それ以上何も言わず口を閉ざすと、蓮巳敬人の説明が再開された。

「外部から来た遠矢は、我が校にはない繋がりも持っている。学院の発展の為にも、遠矢のコネクションを正しく有効活用する必要がある」
「それで『利用価値』がある、という事になるのですね」
「それは少々語弊があるが……言い換えるなら『等価交換』だ。代わりと言っては何だが、俺たちは全力で遠矢をサポートする。プロデューサーとして羽ばたけるように、あるいは他に進みたい道が出来ても潰しが利くように、様々な経験をさせてやるつもりだ」

 恐らく後者は、蓮巳敬人ひとりで考えたシナリオではなく、天祥院英智の意向もあるだろう。DDDを経て、天祥院英智も彼女への見方を変えたのが見て取れたからだ。
 初めは彼女に対して懐疑的だったが、生徒会の力が失われても変わらずに忠誠を誓う彼女に感化されたように見えた。この学院を背負う立場である以上、結果を出せない者を支援する義理はないが、そういった非情さを極力隠して、彼女に接している。

「様々な経験……サーカスの宣伝でテレビに出たり、裏方だけでなく表向きの活動をすることもまさにそれなのですね」
「今から外部に顔を売っておいて損はない。プロデューサーを目指すにしろ、別の道を歩むにしろ、繋がりは多いに越したことはないからな。とはいえ、あまり目立ち過ぎると、何かをきっかけに過去が公になるリスクもある。俺としてはローカル番組に出させるのは反対だったんだがな……」

 盛大な溜息が漏れた。『サーカス』は天祥院英智が全てを仕切っていた以上、ろくに口出し出来なかったのと推察出来た。彼女に対してもそうだが、旧知の仲である天祥院英智に対しても非常に過干渉だと見て取れる。

 ふと、弓道場の外から声が聞こえた。

「すみませーん! 蓮巳先輩はいらっしゃいますかー?」

 女生徒の声。という事は二択しかなく、このやたら通る声は紛れもなく、今話題になっていた人物の声である。

「噂をすれば、ですね」
「疑問は解消出来ました。ありがとうございます、蓮巳先輩、伏見先輩」
「そういう訳だ、悪い虫が付かんように、ある程度こちらで遠矢を管理する必要がある。それこそ遠矢のコネクションを悪用される可能性もあるからな」

 蓮巳敬人はそう言い残せば、彼女を迎えるべく入口へと歩を進めていった。その口ぶりから、話はもう終わりだ、ということだろう。

「悪用する生徒なんていないように思いますが……そもそも遠矢先輩の過去を知らなければ、悪用しようがありませんし」
「念には念を、ということでしょう。何かが起こってからでは遅いですから」

 そう答えたものの、その過干渉がかえって命取りになる懸念は未だにあった。既に天祥院英智の意向で積極的に外部に顔を出している時点で、彼女の過去が知られる可能性も高くなり、蓮巳敬人のシナリオにも狂いが生じ始めている。例え夢ノ咲から遠く離れた地から越してきたとはいえ、世間は広いようで案外狭い。彼女へのサポートが、かえって裏目に出なければいいのだが。そんな風に僅かでも心配してしまうあたり、己も随分と彼女に対して過保護になってしまっている。

 彼女をコントロールしようとしているのは、蓮巳敬人ではなく寧ろ己のほうではないか。そう気付いた瞬間、頭が真っ白になって、暫く何も考えられなかった。この感情を表現できる言葉は、今の己の中には存在しなかった。

2018/07/29


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