リンネはユキヤの事を信じていたし、想定外の事態が起こるなんて有り得ないと思っていた。ユキヤは既に方舟から脱出し、リョウ、アヤノと合流し、己たちの元に戻って来る。そう信じて疑わなかった。
連絡が付かないのは、きっとユキヤがハッキングなど何らかの作業をしているからだ。
そう信じていた。
『リンネ。ユキヤと連絡は取れていますか?』
レイラから再び通信が入り、リンネは淡々と事実を口にした。
「それが繋がらないんです。何かイレギュラーが発生したのかも……」
何気なく呟いた言葉であったが、リンネは自分自身の発言に、徐々に血の気が引いていく感覚を覚えていた。
ユキヤが方舟から脱出する予定時刻は、まだ到来していない。
更に言えば、作戦に方舟を爆破するなんて作業はない。
何かイレギュラーが発生し、ユキヤが予定時刻よりも早く方舟を脱出し、爆破せざるを得ない状況が発生したのだ。リンネはそう思った。思い込もうとしていた。
だが、アキトたちを乗せるモーターボートと、並行して走るリンネのアレクサンダの前に、リョウとアヤノのアレクサンダ機が現れて、嫌でも現実を知らされる事となった。
レイラがリンネだけでなく、リョウとアヤノにも通信を繋ぐ。
『リョウ、アヤノ、聞こえますか? ――えっ!? ユキヤが、あの中に?』
聞きたくなかった言葉が、リンネの耳に入る。
それを事実だと受け容れたくなかった。連絡が取れないのは何か理由があって、ユキヤは今頃アレクサンダに乗って、優雅に空を舞っているはずなのだ。
だが、次いでアキトの通信がリンネの元に入る。
『ユキヤのアレクサンダのビーコンをキャッチした』
『アキト、ユキヤを助けて!』
『あいつを簡単に死なせやしない!』
アヤノの涙混じりの悲痛な声と、いつも冷静なアキトのらしくない返答に、リンネは呆然とした。
ユキヤのアレクサンダの座標は、空中ではなく海中に沈んでいる事を示している。
有り得ない事態が、絶対に起こるはずのない事態が、今この瞬間起こっていた。
これは夢だ。こんな悪夢、早く覚めてしまえばいいのに。
リンネが現実から目を背ける間、レイラは即座にアレクサンダを開発した友人のアンナ・クレマンに連絡を取った。アキトがブレイン・レイド・システムを起動させ、ユキヤのアレクサンダに介入する事で、非常時の緊急脱出プログラムを発動出来る――アンナの助言をアキトは即座に実行した。
暫くして、機体からパージされたコックピットブロックが、海の上に浮かび上がる。
『――リンネ!』
突然通信が届き、リンネは我に返った。アキトの声である。
『一緒にユキヤを助けるぞ』
「た、助け……」
『躊躇っている暇はない! お前のアレクサンダにユキヤを乗せる』
「わ、分かった!」
リンネの返答を以て、アキトはモーターボートに着地させていたアレクサンダから降り、ボートの上からユキヤのコックピットブロックに飛び移り、非常用のハンドルを回して外部から抉じ開けた。
その一連の流れを見て、リンネは漸く己がユキヤの傍まで辿り着いていた事を認識した。呆然としている間、モーターボートはユキヤを救出するため、すぐ傍まで辿り着いていたのだ。リンネは何も考えずにその後を追っていた事になる。
リンネはアキトとユキヤを自身のアレクサンダの手に乗せようと動かした。
アキトの背には、ぐったりとしたユキヤの姿が間違いなくあった。
「ユキヤ!!」
リンネは咄嗟に叫び、アレクサンダから降りてふたりの元に駆け付ける。
「アキト! ユキヤは――」
「出血が酷い。応急処置を」
「……っ!」
青褪めたユキヤの顔を目の当たりにし、リンネは息を呑んだ。だが、幸い応急処置のための包帯などはコックピットの中に置いていた。何かあった時に使えると、方舟でアシュレイを手当てした際の余りを持ち込んでいたのだ。
アキトがリンネに背を向け、背負っていたユキヤを抱えるよう促す。
今この瞬間も、ユキヤの身体から血が滴り落ちている。
――怯んでいる暇はない。
リンネはユキヤの身体を抱きかかえ、海に落ちないよう慎重にコックピットへと戻れば、改めてユキヤを見遣った。
ワイヴァン隊のパイロットスーツは破れ、抉れた脇腹が真っ赤に染まっている。
リンネは思わず小さな悲鳴を上げたが、泣きたい気持ちを必死で堪え、ユキヤの傷口にガーゼを当てて止血を試みながら、包帯を巻いていく。
「う……」
ユキヤの呻き声が聞こえ、リンネは咄嗟に告げた。
「喋らないで」
リンネは医学の事などさっぱり分からないが、下手に声を出そうとしたら、もっと出血してしまうのではないかと思っての発言だった。
「痛くても我慢して。ヴァイスボルフ城に戻れば、なんとかなる」
「はは……リンネは意地悪だね……」
「意地悪じゃない。今だけ、痛いのは、今だけだから……」
言いながら、声が涙交じりになり、これではまるでユキヤが死んでしまうようではないかと、リンネは更に泣きそうになってしまった。
リンネのアレクサンダは、操縦せずとも勝手に飛行していた。自分の専用機に戻ったアキトが、引き続きブレイン・レイド・システムを用いてリンネのアレクサンダを動かしていたのだ。
アキトの気遣いを察したリンネは、応急処置を終えた後、ユキヤの身体を抱き、狭いコックピットの中でずっと寄り添っていた。
「……リンネ」
「喋らないで」
「歌ってよ……聖歌隊にいた時みたいに……」
どうしてユキヤは突然そんな事を言い出すのか。まるで、幼い頃聖歌隊にいた己を見ていたかのような言い方で。
リンネはそこまで考えて、まさかユキヤは当時の己を知っていたのではないかと、漸く気付いた。
まだwZERO部隊に入ったばかりで、ヴァイスボルフ城を抜け出そうと画策していた頃。訓練を受けながら、ユキヤがリンネに対して音楽に詳しいのではないかと問うた事があった。
あれはユキヤの憶測ではなく、幼い頃に聖歌隊として歌っていたリンネを偶然見掛け、その事をずっと覚えていた。
そう考えれば、辻褄が合った。
今更それが分かったところで、ユキヤの傷が塞がる事はない。
それでも、ユキヤが己の歌を望むなら。
リンネは幼い頃の記憶を思い出しながら、讃美歌を口にした。
意外と覚えているもので、難なく歌う事が出来た。
でも、これでは。まるでユキヤを看取るようではないか。
リンネの歌声が、徐々に涙交じりになる。
もう、歌えない。
リンネはキリの良いところで切り上げれば、改めてユキヤを見遣った。
この時間を今生の別れにするつもりはない。けれど、後悔のないように、伝えたい事はちゃんと言わなければ。
「ユキヤ……大好きだよ。私を置いて死ぬなんて、絶対に許さない」
この時、「リンネは恐い」なんて冗談混じりの言葉が返ってくると思ったのに、ユキヤはもう、何も話さなかった。
顔色は蒼白と化し、手は冷たい。でも、辛うじて胸は上下して、呼吸は出来ているように見える。それは自分がそう思い込んでいるから、錯覚して見えているだけなのか。今のリンネには、何も考えられなかった。
ヴァイスボルフ城に戻ればなんとかなるなんて、そんな保障は何処にもない。
そう思いたいのは、自分自身だ。
リンネはユキヤが命を落とさずに済む事を願いながら、自分の無力さに打ちひしがれ、涙を零した。
一筋の涙が頬を伝い、ユキヤの頬に落ちる。その瞬間、ユキヤの目が僅かに開いた――ように見えたのは、きっと錯覚だ。
ユキヤの冷たい手を握り締めるリンネは、徐々に感情を抑え切れなくなって、やがて肩を震わせて嗚咽を漏らした。アレクサンダが動きを止める時――ヴァイスボルフ城に帰還する瞬間まで。
*** ヴァイスボルフ城は混乱の最中にあった。
未だに城の外では聖ミカエル騎士団が包囲している事に変わりはなく、いつ攻め込まれてもおかしくない状況である。
だが、それよりも、リンネたちにとっては仲間の安否が第一であった。
運び込まれたユキヤはすぐさま手術室に運び込まれ、ロボットにてオペが行われる事となった。遠隔操作でデバイス手術を行うという、素人からすれば神の領域である。
それが叶ったのは、ブレイン・レイド・システムを開発した脳科学者のソフィ・ランドルが、研究仲間に助けを求めたからであった。
奇しくも、リンネが「ヴァイスボルフ城に戻ればなんとかなる」とユキヤに告げたのが現実となったのだが、当の本人は喜ぶどころか、心ここに在らずの状態であった。
「さっさと降りてこいって、言ったのに……ほんとグズなんだから……ユキヤのバカ」
アヤノは手術室をガラス越しに見遣りながら、リンネにずっと寄り添っていた。リョウも同様にユキヤの手術の様子を見つめていたが、暫くして、リンネの肩に手を置いた。
「自分を責めるんじゃねえぞ。俺も、アヤノも……アキトも、皆、お前と同じだ」
お前はひとりじゃない。そう言われている気がして、リンネは再び涙を溢れさせた。
不幸のヒロインぶる気なんてない。ただ、目の前の現実が辛くて仕方がないだけだ。
それでも、ソフィの知人が必死でオペをしているし、wZERO部隊のオペレーターの皆も補助してくれている。
己には何が出来るのか。
ユキヤのためだけじゃない。皆のために。
リンネの答えは、もう決まっていた。
ユキヤの手術は成功し、あとは目覚めるのを待つのみとなった。リョウとアヤノはいったん自室に戻り、食事と睡眠を取る事にした。リンネもふたりを見送った後、自室に戻ろうとしたものの、思い掛けない人物に引き留められた。
「リンネ。お前、メシまだだろ?」
リンネが振り返ると、目の前には笑みを浮かべたアシュレイがいて、ひらひらと片手を振りながら問い掛けてきた。
敵国の軍人だが、どうやら非常事態ゆえにヴァイスボルフ城への受け入れが許可されたようだ。きっとクラウスがwZERO部隊の皆に説明してくれたのだろう。
正直、いつもと変わらないアシュレイを見て、リンネはここに来て初めて安堵した。自然と頬が緩み、アシュレイに返答する。
「まだだけど、食欲ないから部屋に戻ってそのまま寝る」
「はあ!? お前、これから聖ミカエル騎士団と戦うってのに、ちゃんと食わねえと駄目だろうが!」
アシュレイの言い分は尤もであったが、リンネは人の気も知らないでと思ってしまい、つい声を荒げた。
「ユキヤがこんな状態で、いつも通りいられるわけない!」
「だからこそ、しっかり食って英気を養わねえと駄目だっての!」
アシュレイは怒号を放てば、強引にリンネの手首を掴んで歩き出した。
「痛っ……ちょっと、やめてよ!!」
「レイラのところに行くぞ。これから作戦会議だ!」
「司令の?」
レイラの名前に反応したリンネに、どうやら完全に腑抜けたわけではないと判断したアシュレイは、口角を上げながらリンネに問い掛けた。
「おう。お前、戦場に出てユキヤの分も暴れるだろ?」
リョウが言っていた、「皆同じだ」という言葉。そこにアシュレイの名前はなかったが、きっと彼も己たちの気持ちは分かってくれている。そうでなければ、ユキヤの分も、なんて言い回しはしない。
仲間の仇を討つために、己たちと戦ったアシュレイが、今度は己を励ますなど、『方舟』で過ごした日々がなければ考えられなかった事である。
アシュレイはもう、れっきとした仲間だ。シン・ヒュウガ・シャイングの意図を確かめるために行動を共にする事となった彼は、今はもうワイヴァン隊の一員と見做して良いだろう。
「……当然。今度こそ、皆のために戦ってみせる」
アシュレイと同じように口角を上げて、きっぱりとそう答えるリンネの瞳は、生気に満ち溢れていた。
果たしてアシュレイは城内の道順を把握しているのかとリンネは怪訝に思っていたが、ちゃんと案内役が待っていた。
道の途中でアキトが佇んでいる。アシュレイを待っているように見受けられた。
「アキト!」
自身の名を呼ぶリンネを見て、アキトは一瞬驚いたように目を見開いた。まるで掛ける言葉を選ぶように暫し沈黙すれば、アシュレイと同様に、いつもと変わらぬ様子で訊ねた。
「……リンネ。大丈夫か」
アキトが心配しているのはリンネの体調だけではなく、心もであった。重傷を負ったユキヤの介抱をリンネひとりに任せたのは、判断ミスであったかも知れない――アキトは内心自責していたのだが、リンネは心配させまいと笑みを作った。
「正直大丈夫じゃないけど、アシュレイに無理矢理連れて来られた」
「メシが食えねえなんて言うからだろ!」
「一日位食べなくたって死なない」
「あーっ! お前なあ、明日には戦闘が始まるかもしれねえんだぞ!? 今食わなくてどーすんだっつーの!」
アシュレイと言い争うリンネに、アキトの顔にも漸く笑みが零れる。きっと塞ぎ込んでいるリンネをアシュレイが強引に連れ出したのだろう。アキトはそう察し、寧ろリンネも一緒に参加したほうが良いだろうと、ついて来るよう促した。
「リンネ。俺たちはこれから司令の部屋に行く。お前も来い」
「了解」
すんなり受け入れるリンネに、今度はアシュレイが悪態を吐く。
「アキトの言う事なら素直に聞くのかよ」
「上官だからね」
「絶対そういう理由じゃないだろ……」
ちなみに、方舟作戦の終了を以て、アキトは中尉から大尉へ、リンネも准尉から少尉へ昇進したのだが、この状況下では最早階級は意味を為さないものと化していた。
レイラの自室に集まったのは、副司令のクラウス、アキト、リンネ、そしてアシュレイだけであった。尤も、アシュレイは用意されたサンドイッチを貪るばかりであり、彼に倣って大人しく同じものを食すリンネも、作戦会議に参加しているとは言い難い。
「敵の三分の二はユキヤのお陰でいなくなりましたが、まだ戦力は敵さんが圧倒的ですよ」
「ハメル少佐の警備隊にも、アレクサンダに搭乗してもらいます」
「まあ、ハメル隊はあくまでサポートですから」
クラウスとレイラが戦力の足りていない自軍をどう動かすか難儀する中、ただ食べているばかりのアシュレイが突然立ち上がった。
「俺の乗るナイトメアはないのか? 俺が一緒に戦えば強いぜ」
当然のようにそう告げるアシュレイに、さすがにレイラは困惑しながら訊ねる。
「相手はミカエル騎士団です。あなたがいた部隊ですよ」
「シャイング卿は俺を殺そうとした。それに俺は、アキトに借りがある」
そう言ってアキトをちらりを見遣って笑みを浮かべれば、アシュレイはクラウスの分のサンドイッチにも手を伸ばす。
「おっさん、もらうぜ!」
「お前なあ……」
呆れ果てるクラウスにリンネは苦笑しつつ、自分の分を差し出す事にした。
「ウォリック中佐。私のサンドイッチ、まだ口を付けていないのもあるので良かったらどうぞ」
「いえいえ、久遠准……いえ、リンネこそしっかり食べないと駄目です」
「ありがとうございます。でも中佐も食べないと駄目です」
まるで押し問答のようになり、クラウスとリンネはどちらともなく苦笑を零した。そして、リンネはレイラに顔を向けて本題を口にした。
「マルカル司令。アシュレイはこう見えて強いです」
「あ? 『こう見えて』ってどういう意味だ!」
サンドイッチに齧り付きながらリンネに苦言を呈すアシュレイであったが、リンネはそれを無視してレイラをまっすぐと見つめる。
「それにアシュレイはユーロ・ブリタニア軍のデータを所持しています。戦力差を埋めるためにも、協力したほうが得策かと」
レイラだけでなく、全員の視線が集中している事に気付き、リンネは我に返って慌てて頭を下げた。
「す、すみません! 私なんかが……」
だが、リンネの熱意はレイラに十分すぎるほど伝わった。連絡の付かなかった二ヶ月半の間、ワイヴァン隊とこのアシュレイという男は信頼関係を築くに至ったのだろう。レイラは、皆の陰に隠れがちだった慎重なリンネがこうもきっぱり言うのなら、彼は信頼できると判断し、アシュレイを仲間に引き入れる事に決めた。
「……アシュレイ、あなたにアレクサンダをお任せします」
すると、アキトもレイラに同調するように頷く。
「自分もいい案だと思います。司令」
アキトも太鼓判を押すのなら、こんなに心強い事はないとレイラは安堵した。その様子に、アシュレイが口角を上げて言い放つ。
「レイラ、あんたは利口だ。リンネがあんたに心酔しているのも納得したぜ」
「……そうなのですか? リンネ」
まさかそんな風に思われているとは夢にも思っていなかったレイラは、目を見開いてリンネへと問う。
「心酔かどうかは分かりませんが……私は司令が大好きです」
照れ臭そうに微笑を浮かべながらそう告げるリンネに、アキトも、アシュレイも、そしてクラウスも笑みを零す。
wZERO部隊の最後の戦いは、間もなく幕を開けようとしていた。
2024/06/15