つかの間の楽園



 夜の帳が下りた帝都は、いつにも増して人の行き来も少なく、まるで内戦により疲弊したこの国の行く末を表しているようで、ルクスは軽く溜息を吐いた。
 ルクスがこの帝都に舞い戻った数日前、仮に内戦が終結したところで元の生活が戻るわけではないと悲観的になっていたのだが、今この瞬間、ふとその時の感情を思い出してしまい、雑念を振り払うように首を横に振った。
 戦死したと思っていた想い人が生きていて、偶然再会出来ただけで幸運だというのに、結婚を前提に付き合いたいと告白されるなど、夢のような出来事が起こったのだ。悲観的になる必要がどこにあるのかとルクスは自分に言い聞かせた。多額の財産を投じてでもこの内戦を終わらせようとしている彼を見て、力になりたいと思わないわけがない。決して家柄で近付いたわけではないのだから、もし彼が全てを失ったとすれば、次は己が全てを捧げ、支えてみせる。ルクスは心からそう思っていた。

 人気のない駅構内にヒールの音が響く。トランクを片手に歩を進めるルクスは、発車時間より少し早めに列車に乗り込み、その後を追うように一人の男が隣の車両に足を踏み入れた。そして、定刻通りに列車が動き出す。
 ルクスはこれから、アサヒの顔をした男――ファダニエルから命じられた任務を遂行する。彼が支援している第I軍団に物資を提供する為に、指定の場所へ向かうというものであった。彼女の跡を付けるように隣の車両に乗車した男は、ファダニエルが放った護衛である。尤も、護衛とは建前で、ルクスが失敗しないか確認する為の監視役と称するのが正しいのだが。



 何駅か通り過ぎた後、目的地付近の駅で停車する。ルクスは緩慢な足取りで列車から降り、周囲を見回す事もなく駅を出て、待ち合わせの地点へと向かった。
 ガレアン族は空間把握能力が他種族よりも優れており、もし不可解な動きをしている者――例えば第I部隊のスパイがここにいたとしても、すぐに気付く事が出来る。ゆえに入念に周囲を見回す行為などする必要がないのだが、ブルトゥス家の屋敷で愛する男と二人きりになるや否や、誰かに聞かれていないかと無意味な行動を取ってしまったのは、本当にあの時は頭が回っていなかったと言える。

 待ち合わせの時間より少し早く指定の場所に着いたルクスは、寒さに耐えつつその場で待機した。生まれも育ちもガレマルドとはいえ、冷え切った夜は寒さを感じる事に変わりはない。内戦が始まる前、軍人として前線に出ていた頃は、属州出身の仲間から「やはり帝国人は寒さに強いのか」などと聞かれては、そんな訳があるかと苦笑しながら返した事をふと思い出して、あの頃に戻れたらどんなに良いかとルクスはまた溜息を吐いた。
 僅かしかない街灯だけが辛うじて夜の寂れた町を照らす中、ルクスの吐いた白い息は、瞬く間に闇へと消える。
 失われたものはもう元には戻らない。彼もそれが分かっているからこそ、なんとしても内戦を終わらせようとしているのだ。いつまでも過去を引き摺ってはいけない。彼と一緒に未来を歩むと決めたのだから。ルクスがそう思い直した瞬間。
 人の気配を感じ、ルクスは耳を欹てた。それは気のせいではなく、次第に雪を踏み締める音が微かに聞こえ始め、徐々にその音ははっきりと聞き取れるようになった。

「――貴殿がブルトゥス家の使者か」

 ルクスは相手の顔をちらりと見て、無言で頷いた。漂う雰囲気から民間人ではないと察したのか、相手は神妙な面持ちで問いを投げ掛ける。

「……失礼ですが、貴殿は帝国軍の者では?」
「帝国軍第XII軍団幕僚、ルクスと申します」
「幕僚!? 何故そのような方がこんな遣いなど……」

 ルクスが身分を明かすと、相手は明らかに狼狽えれば、すぐさま敬礼してみせた。その反応から、相手は第I軍団の中でもレムより下の階級だと窺える。ルクスもまた、相手が咄嗟に敬礼したところから、民間人に遣いをさせているわけではないと察し、警戒する必要はないと判断した。

「それは、あなた方に資金提供をしているブルトゥス家に協力しているからです」
「……失礼ですが、何故そのような事を? 貴殿が第I軍団を支援したところで、何の見返りもないのでは」
「その資金提供をしている方の事を愛しているから、と言えば答えになりますか?」

 さすがにこのルクスの返答には、相手も驚きを隠せなかった。だが、確実に信頼を得られる言葉でもあった。更に説得力を持たせる為に、ルクスは言葉を続けた。

「我が第XII軍団は、軍団長のゼノス様も行方不明……最早機能していない状態です。ゆえに一度軍を離れ、今はブルトゥス家の世話になっているのです」
「……貴殿の行動原理は理解しました。無礼な発言をお許しください」
「いえ、警戒するのも無理はありませんから。それよりも……」

 信頼を得たところで、ルクスは早速これまで大事に携えていたトランクを相手へ差し出した。

「追加資金、それと青燐水を保管している倉庫の地図と鍵も同梱しています」
「青燐水も!? そいつは助かる!」

 青燐水は、魔法が使えないガレアン族にとっては必要不可欠なエネルギー源であった。日常生活は勿論、魔導兵器にも用いられ、国が混乱し物流も不安定な今は不足しがちであり、彼らにとっては喉から手が出る程欲しいと言っても過言ではない代物である。

「内戦が終結し、新たな皇帝が決まり、そして我々がこの国で未来を歩む為にも……第I軍団の勝利を心から願っています」

 ルクスの言葉に、第I軍団の使者は一気に表情を明るくさせれば、勢いよく敬礼した。第XII軍団の軍団長、それも皇太子の側近が支援しているというのだから、彼らにとってこんなに心強い事はないだろう。軍団長が行方不明で機能しないのであれば、どちらか一方に肩入れするのも道理として理解でき、何も疑う必要などない。
 こうして、ルクスの任務はあっさりと、実に平和に終了したのだった。





 帰りの列車に乗り込んだルクスは、任務を終えた安心感に包まれていた。そして大荷物が手元から離れ、必要最低限のものしか持っていない事により手持ち無沙汰な状態になってしまい、帰りの道程は実に退屈なものであった。護衛の者の気配もなく、恐らく任務完了を見届けて早々に帰ってしまったのだろう。居たところで会話する事もなく、ルクスが退屈である事に変わりはないのだが。
 窓の外の景色を眺めようにも、夜の闇に包まれて何も見えやしない状態である。車両にはルクス以外誰一人乗車しておらず、規則正しい車輪の音だけが延々と響いている。
 早くアサヒに会いたい――それだけを想いながら、ルクスは徐々に眠りへと落ちて行った。



 次にルクスが目を覚ました時には、間もなく出発地点の駅に到着するタイミングであった。危うく通り過ぎるところであった事に気付き、一気に目が覚めたルクスは、停車を待たずに乗降口へと歩を進めた。そして、停車と同時にバランスを崩して倒れそうになりながらも、扉が開いた瞬間飛び降りて、足早に改札を抜けた。誰もいない駅構内にヒールの音を響かせて、ルクスが駅を出ようとした瞬間、思い掛けないものが彼女の目に飛び込んだ。

「お疲れ様です、ルクス。何事もないとは思っていましたが、心配でつい……」

 駅の入口で、ファダニエルが彼女の戻りを待っていたのだ。無論、一部始終は監視役を通して把握しているのだが、素知らぬ振りをして彼女の傍へ駆け寄り、手を取った。

「寒い思いをさせてしまってすみません。さあ、早く帰りましょう」

 愛する男の顔を見た瞬間、ルクスはどういう訳か感極まって、思わず彼の身体に抱き付いた。特段難しい任務でもなければ、本当に何の問題もなく完遂したというのに、何故だかルクスは不安を覚えていた。この日に限って帝都で人を見掛けなかったせいか、この後何か良からぬ事が起こるのではないか、と無意識に感じていたのだ。

「ルクス、どうしました? まさか、第I軍団の者から危害でも……!?」
「……いえ、アサヒ様に少しでも早くお会いしたかったので、つい……」

 彼を心配させてはならないと、ルクスはそう告げれば、ゆっくりと腕を解いてファダニエルから距離を取った。

「すみません……私、どうかしていますね。こんな事では軍に戻ってまともに戦えるか……」

 ルクスは何故己が無性に不安を感じているのか、ここまで口にして漸く答えに辿り着いた。
 決して民間人の気配がなかった事に不安を覚えたわけではない。内戦が起こっている状態であれば、例え住宅街でも夜間の外出を控えようと考える民間人は多く、決しておかしな状況ではない。
 つまり、ルクス自身の問題である。
 彼女が今口にした通り、アサヒの顔をした男――ファダニエルと少しでも離れた事で、不安や寂しさといった感情に駆られてしまったのだ。
 恋愛に現を抜かす幕僚など、ますますお飾りというものだ。ルクス自身もここまで自分が腑抜けるとは思っておらず、内心動揺していた。
 だが、ファダニエルはまるで気にしていなかった。

「俺たちはもう恋人同士なんですから、離れて寂しいと思うのは当然です。寧ろ嬉しいと言いますか……いや、俺も同じで、だからこそこうして迎えに来てしまったので」

 そう言って苦笑を浮かべるファダニエルに、ルクスは心から安堵した。幻滅されても仕方ないと内心思っていただけに、ここまで優しくされて良いのかと恐縮してしまうほどであった。

「じゃあ、帰りますか。第I軍団への追加援助は、また戦況を見て決めましょう」
「はい……!」

 ファダニエルはルクスの肩を抱いて、闇夜に煌々と光る街灯を頼りに歩を進めた。青燐水は灯りとして使うには威力がやや大き過ぎるのと、降雪地帯という事もあり、夜道で困る事はない。尤も、アシエンとして生きるファダニエルにしてみれば何の影響もないのだが、仮にも人間に憑依している以上、『それ』の感覚に合わせる必要がある。
 彼女から鋭い指摘が入った際に、問題なく対処する為にも。

「あの、アサヒ様。このルートは遠回りでは?」

 ルクスはファダニエルが敢えてブルトゥス家の屋敷とは違う方向へ歩いているように感じて、何も考えずに訊ねた。これが任務帰りでなければ、二人でゆっくりと帝都の街を歩くのは自然ではあるが、当の本人が「早く帰ろう」と言っていたのに遠回りするのは些か不自然である。勿論、アサヒが何か良からぬ事を考えていると、ルクスは思ってはいないのだが。

「いつもの道で、酔っ払いが喧嘩していたので……まあ、仮に絡まれても俺がルクスを守るだけの話ですが、嫌な思いをさせたくないですしね」
「そうだったんですね。本当に、ありがとうございます」

 ファダニエルが吐いた嘘にルクスは素直に頷いて、何も疑わずに歩を進めた。

 その頃、『いつもの道』を始めとした各地では、明らかに異常な事が起こっていた。
 帝都の住民は誰も彼も、まるで洗脳されたかのように魔導城へと向かっていた。譫言のように、ヴァリス帝とこの国への忠誠を誓った言葉を呟きながら。

『精神汚染』――ファダニエルの力によって行われたそれは、今は亡き皇帝が住まう魔導城を警備する帝国兵、そしてこの帝都に住まう住民たちを襲った。汚染を受けた者は、まるで生きる屍の如く譫言を宣いながら、魔導城へと向かっていく。皇帝の根城を造り変える為に。
 彼らの様子はまるで、蛮神に洗脳されたテンパードのようであった。
 ルクスはこの恐ろしい現状など知る由もなく、ただただ内戦の終結を信じて、ファダニエルに身を委ねたのだった。

2022/03/05
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