恋の秘密を誰が知ろう



 最早この世界に救いはない――否、この世界に生きとし生ける者など救う価値もなく、完膚なきまでに滅びてしまえば良い。
 それが、五千年もの長き時を生き続ける異形の存在、アシエン・ファダニエルが出した結論であった。

 最早『オリジナル』のアシエン共に押し付けられた使命などどうでも良かった。『転生組』として魂を引き上げられたファダニエルにしてみれば、古代人の大層な使命を全うする理由など存在せず、ただひたすらに『その時』を待っていた。オリジナルのアシエンが全員消滅し、押し付けられた使命から解放され、自由が訪れる時を。
 既にラハブレアとエメトセルクは消滅し、オリジナルも今や残るはエリディブスのみであった。アラミゴにて光の戦士との戦いの果て、自ら命を絶った皇太子ゼノスの肉体を乗っ取り、蛮神召喚に手を染めたまでは良かったものの、エリディブスの誤算はゼノスを侮っていた事である。帝国は『超える力』を人工的に与える研究を行っており、ゼノスは自らの身体を実験台に超える力を得ていたのだ。超越者となったゼノスは、肉体の死後も魂はエーテル界に還る事はなく、帝国兵の肉体を乗っ取りガレマルドへと帰還し、見事エリディブスから己の肉体を取り返したのだった。
 エリディブスは肉体を捨て何処かへと逃げ果せ、少なくとも『今』は、この原初世界にはオリジナルのアシエンは不在となった。この機を逃すまいと、ファダニエルはゼノスの忠実な部下――正しくはゼノスの肉体を乗っ取ったエリディブスに唆され、義姉にドマの地で蛮神召喚を行わせた末、滑稽な死を遂げたアサヒ・サス・ブルトゥスの屍に憑依し、この世界を破滅へと導く為の播種を始めたのだった。





 アシエン。それは肉体を持たぬ不死の存在であり、人間へ憑依する事で物質界への干渉が可能となる。彼らが持ち得る異能の力は肉体を得た後も問題なく行使する事が出来、例えばいちいち二本の足を使わずとも空間移動によっていかなる場所へ赴く事など造作もない。ゆえに外を出歩く必要などないのだが、ファダニエルは己の計画をより確実に進める為、憑依した器であるアサヒという男を恙なく演じ、『普通の人間』として帝都ガレマルドへの侵食を始めていた。
 魂のない屍はただの器ではあるが、生前の記憶をある程度共有する事が出来、誰かに対して特別な感情を抱いていた場合、肉体を通して憑依している側にも伝わる事がある。とりわけこのアサヒという男は上司であるゼノスに心酔しており、これを活かせばあの男を利用する事も可能であろうとファダニエルは踏んでいた。尤も、実際のところ当のゼノスはアサヒの存在すら気に留めてすらいなかったのだが。

 ファダニエルは知っていた。この器にはもう一人特別な感情を抱く者が存在しており、間もなく相見える事を。なにせ、そうなるように『仕組んでいる』のだから。

 ガレマール帝国軍第I軍団と第III軍団の内戦勃発に伴い、軍が機能しなくなり数日が経過した、ある寒い日のこと。
 内戦の火の粉を被るのを免れる為か、あるいは帝国軍を見限ろうと考えているのか。軍へ休暇願を出し、実家への帰路を辿る女の気配を察知したファダニエルは、実体を現してごく自然に彼女の前に姿を見せ、向こうから己の存在に気付くよう仕向けてみせた。
 女の視線を察しつつ歩を進め、一定の距離まで近付けば、たった今彼女の存在に気付いたように立ち止まり、暫しの間を置いて口角を上げ、女の名を紡ぐ。

「久し振りですね、ルクス。元気そうで何よりです」

 女は瞬く間に双眸に涙を溢れさせ、ファダニエルの身体に抱き着けば、人目も憚らず泣声を上げた。これにはファダニエルも正直戸惑ってしまった。大の大人が公衆の面前でみっともなく号泣するなど、この器は随分と感情的な女を愛したものだと呆れつつ、取り敢えず彼女の髪を撫でて落ち着かせようと試みた。
 アシエン・ファダニエルはオリジナルではなく『転生組』である。遥か昔、古代人がハイデリンにより十四の魂へと分割されたのだという。この原初世界へ生まれ落ちた、かつて人間であった『彼』は、エメトセルクによってファダニエルの座へと引き上げられ、アシエンなる異形の存在となった。
 かつて人間として生きていた時代から五千年ほどの時が経ち、今のファダニエルは人の心などすっかり忘れていた。戦死したと思っていた男が生きていたとなれば、その男に特別な感情を持つ者が感極まって涙を流すのは普通の事なのだ。
 女は漸く落ち着きを取り戻して、ゆっくりと顔を上げた。

「アサヒ様、てっきりドマで戦死されたとばかり……ご無事でいらっしゃった事、本当に嬉しく思います」

 恋人とは思えない他人行儀な言い回しに、この器は愛する女に想いを告げる事もなく惨めに死んだのだと、ファダニエルは漸く彼らの関係性を理解した。あまりにも滑稽過ぎて内心笑いが止まらなかったが、幸い彼女はそれなりにこの器に敬意を抱いているようである。これを利用しない手はない。恋人であれ何であれ、コネクションを有効活用するつもりでいるファダニエルは、当然この女とて徹底的に使い尽くすつもりでいた。

「ルクス。積もる話もありますし、もし都合が良ければこの後一緒に過ごせれば、と思うんですが……」
「は、はい! 是非!」

 喜びに溢れる女の顔を見てファダニエルはほくそ笑み、再び帝都を歩み始めた。行く先はブルトゥス家の屋敷。東方の属州民であるこの器を養子として迎え入れた、大富豪の住処である。





「――という訳で、義姉の蛮神召喚を止められず、辛うじて一命を取り留めて帝国に戻って来たは良いのですが……俺は戦死扱いになっていると人伝に聞きました。今更軍に戻ったところで居場所なんてありませんし、こうして実家に身を寄せている次第です」

 ファダニエルは適当に言い包めれば、使用人の淹れた紅茶に口を付けた。細かい辻褄合わせはどうにでもなると踏んでおり、後はこの女を支配下に置くよう立ち回り、上手く行かなければ始末するまでだ。そう考えていた。

「……御姉様を喪っただけではなく、本来為し得たかった事も諦めざるを得ないなんて……本当に、何と言えば良いのか……」
「為し得たかった? ああ、帝国とドマの和平ですか」

 女は随分と悲愴な表情をしており、ファダニエルは少しばかり訝しく感じた。このルクスという女はガレアン族であり、例え民間人であっても帝国での身分は保証されている。別に属州のドマとの和平が結ばれなくともこの女が気に掛ける必要はないのだが、この器が属州民であるがゆえに気を遣っているのか。演技とは思えない女の落ち込みぶりに、ファダニエルは探りを入れる事とした。

「仮にドマとの和平が成立したとして、あの後アラミゴでの反乱を収められなければ、どちらにせよ今と同じ道を辿っていたと思いますよ。ですから、ルクスが気に掛ける必要は――」
「ですが、アサヒ様は民衆派として活動されていたじゃないですか」

 きっぱりと言い切るルクスに、ファダニエルは危うく首を傾げかけてしまった。誤解を招くような行動をしていただろうかと考え込むファダニエルの脳内など知る由もなく、ルクスは言葉を続ける。

「この帝国を内部から変える為、民衆派として密かに動いていたと認識していますが……違ったのですか?」

 漸くファダニエルは、『表向きはそういう事になっていた』と把握した。もとよりこの器は民衆派などではなく、幼い頃から帝国式の教育を受けて育っている、まごうことなき帝国の犬であった。帝国に従順な犬となれば不自由のない生活を送る事が出来、綺麗事に惑わされる者は愚かだとさえ思っていたのだから。
 ドマとの和平交渉に大使として赴いたのも、すべてはゼノスの肉体を乗っ取ったアシエン・エリディブスの策略であり、この器はまんまと騙されて敬愛するゼノスの命に従って、ドマという己の生まれ故郷も、実の両親も、憎き義理の姉も、すべてを踏み台にして『ドマ人が蛮神召喚を行う』という既成事実を作ろうとしたのだ。結果、蛮神は光の戦士によって倒され、この器も死ぬ間際の義姉に銃で撃たれ、あっさりと命を落としたというのが事の顛末である。
 あまりにも真剣な表情を浮かべる女に、ファダニエルは笑いを堪えつつ、それ以上は口にするなとルクスの唇に人差し指を当てた。

「この場でそれ以上の発言は謹んで頂ければと。万が一この家の者に聞かれれば、俺は本当に居場所を失ってしまいますからね」

 このブルトゥス家が果たして民衆派に近い考えを持っているのかは、ファダニエルとしてはどうでも良い事であり、とにかくルクスを支配する為に都合の良い方向に話を持っていく事が出来れば充分であった。
 どういう訳かルクスは頬を紅潮させていたが、ファダニエルは特に気に留めず人差し指を離し、小首を傾げて改めて口角を上げた。

「さて、暗い話はこの辺りにして。是非ルクスの話を聞かせて貰えませんか? 俺がいない間、環境の変化もあったのでは?」
「私は……」

 ファダニエルの問いに、ルクスは一瞬言い淀んだ後、瞳を潤ませて言葉を紡いだ。

「……アサヒ様のいない日々が、私には耐えられませんでした。ゼノス殿下も行方不明の今、最早私には軍に留まる理由などないのです」

 その言葉の真意を汲み取るのは、人の心を失ったファダニエルでも容易であった。たかが同僚でこんな言い回しをするわけがない。ならば、女の本心は哀れな事にこの器と同様であり、愛する者に想いを伝える事なくこの日まで来たのだ。
 ファダニエルは愛おしそうに双眸を細めてルクスを見つめた。この女を思いのままに支配する日が訪れるのは、そう遠くない未来の話であると確信しながら。

2022/01/10
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