- メリー・メモリー -

「――あ、『ルリちゃん』」
「は?」

 一日の仕事を終えて、真っ直ぐ家に帰ろうとタワーを出ようとした私に、背後から敬意も何もあったものではない呼声が掛けられた。振り向いて相手の顔を見上げれば、自然と不満を隠せない声が自然と漏れた。

「きみに『ちゃん』付けされる筋合いないんですけど」
「グレイは良くて俺は駄目なんだ? ふうん」
「いや、だってグレイは同い年だし……」
「でも、俺と同じルーキーだよ。HELIOSは年齢関係ないんじゃなかったっけ」

 だからといって、いくらなんでも普段関わりのない年下の男子に呼ばれる筋合いはない。
 フェイス・ビームス。私が初対面で怒らせてしまった相手なだけに、下手に言い返すと拗れそうだし、どう接すれば良いものか。というか、そもそも私に何の用なのか。

「アハ、そんなに不貞腐れないでよ。これでも前は悪い事しちゃったって反省してるから」
「それは……私も考えなしに言っちゃったし、お互い様、っていうか……」

『兄弟揃ってヒーローになるなんて凄い』なんて、別にブラッドと比べるつもりで言ったわけじゃないのだけれど、それでフェイスが気を悪くしたのだから、失言であった事は認めなければならない。だからと言って『二度と話し掛けるな』はやっぱり言い過ぎだと思うけど。

「でも、ルリさんって俺に対して悪い事を言ったとは思ってないよね」
「え? 今更蒸し返す?」
「別に責める気はないけど、出来れば考えを改めて欲しいかな」

 フェイスはそう言って、スマートフォンの画面を私に向かって見せた。
 イエローウエストアイランドにあるクラブの写真。その下には住所も書かれている。

「今夜俺がDJやるから。見に来てよ」
「は!? 今日!?」
「どうせ予定ないんでしょ、グレイは夜までトレーニングだし」
「な、なんでその事を……」
「ビリーに聞いた、っていうか聞いてもいないのに聞かされた」
「はあ……」

 本当の事とはいえ『予定のない女』と思われるのは癪だ。でも、断る理由が思い付かないというか、下手に断ってまた変に拗れるのも嫌だ。

「怖いところじゃないから大丈夫だよ」
「あの、子供じゃないから」
「へえ、ルリさんってクラブ行った事あるんだ」
「…………」

 実は一度友達に連れられて行った事があるのだけれど、人酔いして早々に退出してしまった。なんて言えるわけがない。

「真面目そうだもんね。別に恥ずかしがる事じゃないし、本当に大丈夫だから。気軽に遊びにおいでよ」

 まるでどちらが年上か分かったものではない。ここまで言われて黙って行かないのもどうかと思うし、一応顔だけは出そう。気分が悪くなったらすぐに退出すれば良いだけだ。それで義理は果たした事になるだろう。そう決めて、数年ぶりにクラブに足を踏み入れる事にしたのだった。





 帰宅して化粧直しをして、ただヒーローたるものあまり露出度の高い服は避けた方が良いと思い、無難な格好で再び家を出た。いや、デートや友達と遊びに行くわけでもないのに、わざわざ小綺麗な格好をしてイエローウエストまで行くなんてどうなんだろう……と道中我に返ったりしたけれど、このフットワークの軽さは自分の長所だと思う事にした。そう思わなければ空しいだけなのだけれど。



 目的地のクラブに着くと、入り口の時点で既に人がごった返していた。客層は私と同年代の女性が多いように見える。並んでいる間、誰も彼もがフェイスの話をしていて、その人気を改めて実感した。確かに整った顔をしているし、女子が放っておかないのも分かる。ただ、皆『顔』しか見ていなくて、クラブハウス側も客寄せとして使っているのだとしたら、それはそれで複雑だ。なんて、フェイスのDJとしての姿を見るまではそんな勝手な事を考えていた。

 フェイスが何故あの時怒ったのか、考えを改めて欲しいと今頃になって言ったのか、その真意に漸く気付いた。

 真っ暗な箱の中で瞬く色とりどりの照明。窓のない閉塞感を覚えるフロアを、人混みをかき分けて進んでいく。クラブハウスの外まで響いていた重低音は、歩を進める毎に大きくなり、まるで身体中を駆け巡るような錯覚を覚えた。人混みで少し息苦しい位なのに、妙な浮遊感がある。このクラブハウスを揺らす音楽のせいだろうか。

『あ、来てくれたんだ』

 突然、ステージ上からマイクを通してフェイスの声が聞こえた。まさか私に話し掛けているのだろうか。最前列とか、そんなに前の方には行っていないのだけれど、よくライブやコンサートで演者が『後ろの観客の顔もちゃんと見えている』という感覚なのだろうか。あれはリップサービスだと思っていたけれど、ステージに立つとある程度見えるものなのか。

『無視? 反応してよルリちゃん』
「ルリちゃんって言うな!!」

 つい声を荒げてしまった。その瞬間、私の周りにいた女子たちが「は? この女誰?」「フェイスくんの何なの?」とざわつき始め、まさかフェイスはこれを狙って私をクラブに誘ったのかと疑ってしまった。
 けれど、それは誤解だとすぐに分かった。

『皆、今日は職場の先輩がクラブに行った事がないって言うから誘ったんだ。来てくれてありがとう、ルリ先輩』

 今までタワー内で先輩なんて一度も呼んだ事がない癖によく言う、と内心呆れたけれど、フェイスの言葉で私の周りにいた女子たちは「先輩って事は、この人もヒーロー?」と、今度は羨望に近い眼差しを私へ向けて来た。単純だ……というより、それだけ彼女たちはフェイスに陶酔しており、彼が絶対的な存在なのだ。

『ルリ先輩の好みに合うかは分からないけど、今夜は楽しんでいってくださいね』

 普段私に対して敬語なんて使わない癖に、と再び呆れてしまった。私の代わりに他の女子たちが歓声を上げて、フロアは大盛り上がりとなった。
 これではこっそり退出するなんて出来ない。いや、最早誰も私なんて気に留めていないし、いつでも出る事が出来るのだけれど、折角フェイスが気を利かせてくれたのだから、ある程度はここに居たほうがいい。そう理由を付けて、響き渡るEDMに身を委ねたけれど、そもそも私がフェイスに気を遣って居続ける理由を作る必要はない。

 つまり、なんだかんだで私も『DJビームス』の腕前に納得して楽しんでいたのだ。そうでなければとっくに帰っているし、別にフェイスもそれを咎めたりはしないだろうから。



 気付けば日付が変わりそうになっていて、さすがに明日も仕事がある事を考えるとそろそろお暇しないといけない。まさか名残惜しいと感じるとは思わなかった。
 あの後暫くして、フロアでは色んな人に声を掛けられた。HELIOSでのフェイスの事を何でもいいから教えて欲しいという女子たちや、私がどんなヒーローなのかと世間話をしてくる人など様々で、皆決して悪い人でもなければ、良い意味で普通の人たちだった。私のように仕事を終えて、気分転換や自分へのご褒美にクラブを訪れる人たち、フェイス目当てではなく純粋に音楽を楽しむ人たちなど、本当に様々だった。
 皆、束の間の非日常を味わいに来て、クラブを出れば夢は覚め、日常へと帰って行く。名残惜しいと思うのは私だけではなく、きっと皆同じだ。

 ここまで長居すればフェイスも文句は言わないだろうと、フロアを後にして日常へ――深夜のイエローウエストの街へと戻り、タクシーを捕まえようと辺りを見渡していると、後ろから駆けて来る足音が聞こえた。振り向くと、フェイスがすぐ傍まで来ていた。

「いたいた。ルリさん、一緒に帰ろ」
「え? DJの仕事は?」
「俺、一応未成年だし日付が変わる前に帰らないと」
「嘘……夜遊びしてるって話じゃ……」

 疑いの眼差しを向けると、フェイスは一瞬眉を顰めさせた。

「それ、ブラッドに聞いたの?」
「色んな人が言ってる。特にキースさんとジュニアくん」
「ああ、そっちのツテか」

 一緒に帰るというのは冗談で、私が遅くまで居た事に対してお礼を言いに来ただけかと思ったのだけれど、目の前をタクシーが通ろうとした瞬間、フェイスは片手を上げた。

「あ、フェイスくんありがとう。タクシーまで捕まえてくれて……」
「いや、だって一緒に帰るし」
「はい?」

 タクシーは私たちの前で止まり、ドアが開くとフェイスはすかさず乗り込んだ。

「ほら、ルリさん急いで。じゃないと――」

 ふと、フェイスの目線が私の後ろに向いている事に気付いた。振り返ると、女子たちがこちらに向かっている。間違いなく、フェイスが外に出た事に気付いて追い掛けて来たのだろう。

「私、別にタクシー捕まえて帰るから……」
「いいよ、先にルリさんの家まで行ってからタワーに帰るから。その方が面倒じゃないでしょ」

 いくら恋愛関係どころか友達とすら言い難い、単なる職場の先輩と後輩と言う関係であっても、深夜に男と女がタクシーに乗るなんて良いのだろうか。私が誰とも付き合っていないならともかく、グレイがこの事を知ったら嫌な思いをするのではないか。

「もしかして、グレイの事気にしてる? それなら後でフォローしておくから大丈夫」

 あっさり心の内を見抜かれてしまった事に動揺して、『後でフォローする』が信用できる言葉なのか、具体的に何をどうするのかなど、何も考えないまま私はなすがままにタクシーに同乗してしまった。

「フェイス!! やっぱりその女、ただの先輩じゃなくて新しい女じゃないの!?」

 車のドアが閉まると同時に外からとんでもない言葉が聞こえて来て、やっぱり別行動にすれば良かったと果てしなく後悔した。私を家まで送るのは口実で、ファンの女子たちから逃げたかっただけなのだと瞬時に理解したからだ。





「それで、どうだった? DJとしての俺は」

 深夜にも関わらず、イエローウエストアイランドの街並みは煌々と光り輝いている。タクシーの窓からそんな景色を眺めながら、クラブでの事を思い返した。色んな意味でどっと疲れて、最早何も考える気が起きないのだけれど、一言で言うと『楽しかった』のは紛れもない事実だった。

「クラブに行き慣れてないから、上手く言えないけど……本当に楽しかった。まさか私がこんな時間までいると思わなかったし」
「え、気を遣って遅くまでいたわけじゃないんだ」
「うん。なんていうか……夢の中にいるみたいで心地良くて、気付いたらこんな時間になっちゃった。EDMでこんな感想なのも変かも知れないけど」
「いや、変じゃないよ」

 窓の外に向けていた顔を、後部座席で隣に座るフェイスへと移す。ちょうど目が合って、この時のフェイスはHELIOSで見る気怠そうな表情ではなく、年相応の青年のように輝いて見えた。まあ、普段気怠いのは寝不足のせいだとは思うけれど、なんとなく、DJをやっているフェイスが本当の姿なのかも知れないとも思った。

「俺がブラッドとは違うって、分かってくれたよね?」
「勿論。っていうか、別に似てるなんて言ってないけど」
「『ブラッドの弟』としか見てなかった癖に」
「も〜、そろそろ許してよ前にうっかり言った事は……」

 フェイスは言葉とは裏腹に責める素振りはなく、嬉しそうに微笑んでいた。まあ、フェイスが納得したならそれに越した事はない。明日の私が寝不足に陥るのは確定事項だけれど。

「次はグレイと一緒に来てよ。最前列確保しておくから」
「グレイ……一緒に来てくれるかなあ。ああいう場所苦手な気がするんだけど……」
「そこをなんとかして連れ出すのが恋人の役目じゃないの、『ルリちゃん』」
「ルリちゃんって言うな!」

 相変わらず茶化されているというか、好かれているようには思えないけれど、少なくともこれだけは分かる。フェイスはヒーローという、ブラッドと同じ道を歩んでいるようで、その本質はまるで違う。DJとして活躍するフェイスは『ブラッド・ビームスの弟』として持て囃されているのではなく、紛れもなく自分自身の実力で地位と人気を得ているのだ。
 どうして二人が仲違いをしているのか、それにどうしてフェイスはブラッドと同じヒーローの道に進んだのかは分からないけれど、少なくとも私自身の考えを改める事は出来た。
 例え悪気がなかったとしても、親兄弟の肩書で認識するのは良い行いではない事。それに、フェイス・ビームスは紛れもなく個を確立しているという事だ。

2021/08/26

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